ブラジル・グァタパラ移住地に生きて半世紀
ブラジル サンパウロ州 グァタパラ市在住 林 良雄
1.ブラジル移民
「バナナがたくさん食べられる国、ブラジルへ行かないか」と、父親から切り出されたのが、1960年の夏、私が9歳のときでした。たしか、兄が久し振りに会社から帰宅したときのおみやげで、バナナ1本を丸ごと食べられたのがうれしくて、はしゃいだ日のことでした。
1961年12月、小糠(こぬか)雨がわずかに降った寒い日に、私たち家族は移住船で日本を離れました。船酔いはありましたが、子供の私にとっては楽しい船旅で、船内学級もそこそこに、1日中遊びほうけていたものです。
ブラジル・サンパウロ州北部のグァタパラ移住地〔注:グァタパラ移住地:グァタパラは、ブラジル国サンパウロ州サンパウロ市より約280km北西に位置する。グァタパラ耕地は、1961年の第一回の日本人移住者から30数年にわたって移民が続けられた農場である。戦前にグァタパラ耕地に就労した移住者はブラジル国内の他地域への再移動などでいなくなったが、戦後、グァタパラ移住地として日本政府が手がけた移住地の1つとなった。〕に着いてから、同船の子供たち全員と知り合いましたが、東北山形県出身のズーズー弁の子供たちがいるかと思うと、私たち茨城県出身者は北関東のアクセントの強い話し方で、普通に会話をしていても、それはまるでケンカをしているようだといわれました。私たちが入植したグァタパラ移住地は、茨城県をはじめ、7県からの移住者で構成されたのですが、移住船が着くたびに長野、岡山、島根、山口、さらに九州の佐賀県人が加わり、7県の方言が混じり合って、同じ日本語であっても「意味不明」ということが、しばしばありました。
まだ子供だった私は、2月中旬に開校された小学校に、他の子供たちといっしょに喜び勇んで登校しました。年上も年下も、それこそ同期生としてまとめられ、A、B、Cのアルファベットの練習から始まりましたが、そのうち授業の単調さに、だんだん退屈しはじめました。日本で上級生であった生徒ほど退屈して、エスケープが続出し、多くの年上の友達は学校を去りました。
そのころ、5キロ以上離れた学校へ通うのはたいへんでした。日本から持っていった自転車は、大人たちにとって、交通のたいせつな足でしたので、子供の私たちには特別なとき以外、使うことが許されませんでした。そんなころ、私たち男子のなかに裸馬で登校する友が1〜2名おり、私も兄の結婚祝にもらった2歳馬で、学校通いをはじめました。そのうち、同じように裸馬で通う数人の学友が加わり、道路いっぱいになって走り回ったものでした。馬の背に当たる部分の尻の皮が擦れて、たいへんに痛い思いしていましたが、全員それに耐えて、やっと思うように馬を乗りこなすようになりました。落馬は毎度のことでしたが、そのうち落ち方を覚え、ほとんど痛みを覚えずに落馬できるようになりました。いま思うと、女子生徒、他の学友には迷惑そのものであったのでしょうが、そのころの私たちは他の人々に気を使える程には成長していませんでした。
2.移住地での農業
移住開始当初、グァタパラ移住地は、募集要項では「灌漑施設を備えた米作の適地」とのことで、多くの入植者が米作に夢を託して家族ぐるみで移住をしてきました。しかし、米作地である低湿地は、マラリアを媒介するハマダラカの生息地でした。戦時中、米軍がブラジルの資源調査をするためにDDTを河川、湿地帯に散布していたおかげで、マラリア原虫は撲滅されていましたが、ハマダラカの強力さときたら生半可なものではありませんでした。蚊よけのために合せ着をした上からでも刺す強烈さでした。合せ着での、夏の米作除草管理は汗が玉のように噴き出て、衣類が濡れれば、そこに蚊が群がり、手で叩くと潰れた蚊で手形ができる程の数でした。このウンカのような蚊の群に、「これから先は、いったいどうなるのか」と思いながら、開墾しておりましたが、蚊は行動範囲が狭いせいか不思議に減っていきました。
低い場所に入植した私たち一家は、畑の一隅に井戸を掘り、さまざまな蔬菜(そさい)の栽培を手がけるようになりました。しかし、蔬菜は連作を続けると、病害虫の問題などが頻繁に発生するようになり、農薬、殺菌剤の濃度もだんだん強くなっていきました。移住地は無医村だったので、巡回医療班が年1〜2回診察するのみでしたが、当時から多くの入植者が農薬中毒と診断され、とくに第一線で働いていた戸主が侵されていました。
写真1 栽培したスイカの収穫(1963年10月)
わが家の場合は、日本の開拓地にいたころから、父が世話好きであったため、移住地でも同じように村役を引受けたので、絶えず留守がちで、母親は目の回るような忙しさでした。そのため、長兄は見かねて、小学校高学年のころから父親の操る牛耕を見よう見まねで覚え、よく母を手伝っていました。無口の長兄は口答えもせず、よく両親を手伝っていました。次男は最初は移住に同意していましたが、家を留守がちにする父親に立腹して、移住を共にしませんでした。父の留守を長兄がカバーしていたので、私も兄をよく手伝いました。頻繁に行う消毒を手伝いましたが、母と私は口を手拭で覆う程度の軽い予防でした。最初に農薬中毒の病状が表れたのが母の目でした。「目が霞む」といいながら半年が経過、そのうち、片方の目が半分見えないと言い出し、あわてて町医者に診察していただいたのですが、原因がよくわからず、巡回医療班の医師からは、「血圧の問題もあるが、農薬中毒」と診断されました。
いたずら盛りであった私も、努めて兄を手伝い、農薬散布も手伝いました。農薬散布では、長いホースを引きずりまわすので、野菜を傷めます。ホースを引っぱったり、戻したり、また、農薬混合水が不足すると注ぎ足したりの作業を無防備で行っていた為か、肝硬変になり、私の体に黄疸が出るようになりました。全治はしたのですが、以後、生臭い食べ物、油っこい食べ物は、食後胃もたれ、吐き気を感じ、その症状はいまでもよく現れます。こうした事で、移住して以来、4年にわたり努力してきたコメ作り、蔬菜作りの夢も立ち消えになってしまいました。
その次に私たちが試みたのは、日本での農業の延長ともいえる養蚕(ようさん)でした。始めた当初は作柄もたいへんによく、低温は6〜8月中旬までであり、温度も養蚕飼育に適する気候条件であったため、年に平均7回も飼育ができました。繭値(まゆね)も生繭1kg前後が2ドルを保ったことから、足りない労力は現地の労働者を使用して、年々増産していきました。しかし、数年続けると晩秋蚕に蚕病(さんびょう)が見受けられるようになり、一抹の不安にかられました。父が蚕病に悩んでいたころ、私は幸いにも、全拓連〔注:全拓連:全国拓殖農業協同組合連合会の略称。全拓連は、1957年、ブラジルへの移住者を募集し、送り出すための組織として発足した。グァタパラ移住地へ、移住者を送り出した主要な組織でもある。〕から招聘(しょうへい)され、日本の養蚕病理学の権威の方から蚕病について講義を受ける機会に恵まれました。
写真2 グァタパラ移住地での最初の稚蚕飼育後の配蚕(1965年10月)
日本では、小学校半ばの学力の私にも理解できたことに、われながら驚きました。このころ、私はブラジルでの高校入試に合格して、勉学に励む学生でしたが、科目のブラジル文学史が全然理解できず、たいへんに悩んでいた時期でした。ブラジルの中学を卒業しても、なおポルトガル語に悩む私でしたが、日本の難しい養蚕用語は理解できたのです。生れ育ってから使っている母国語のおかげで大学レベルの講義を理解できたわけで、子供のころに培った語学の力は偉大なものであると痛感しました。これを機に、日本で学んでみようという気持ちが芽生え、心がはやりました。私の進学には、30年前の養蚕技術で悩んでいた父も協力してくれました。当時は研修制度も少なかったのですが、日本の農林省、群馬県庁のご尽力で、1971年から72年の2年間、群馬県の県立蚕業大学蚕業学部(現在の群馬県農業試験場)で学ぶことができました。
1972年12月、日本での勉強を終えてグァタパラ移住地へ戻り、74年に自分の農地を求めて独立しました。箸(はし)、茶碗(ちゃわん)も何も無い、「無いない尽くし」のなかでの出発でした。それでも残っていた学業を夜学に変えて、続けていました。通学期間中は、帰宅は深夜の1時半から2時に及び、年中、睡眠不足という毎日でした。養蚕飼育には朝露の残る条桑(じょうそう)が最適であるため、日の出前に刈り取り、貯桑室へ1日分を保存します。多忙な毎日でしたが、営農にも勉学にも心のゆとりができ、それからというもの、十分とはいえませんでしたが、ポルトガル語もよく理解できるようになり、他の日本人移住者が、警察、病院、法律関係などで困っているときには、協力することができるようにもなり、ポルトガル語の勉強にいっそう邁進(まいしん)していきました。
3.私の結婚
独立後、数年して伴侶(はんりょ)のことも考え始めるようになりました。この件では、移住地の方々にたいへんお世話になりました。最初は現地の女性とも交際したのですが、文化や習慣の違いもあり、なかなか難しいものがありました。ちょうど20代のころ、ブルースリーの空手映画が流行ったおかげで町は空手ブームとなり、そのころ、日本空手協会支部の師範代をしていた私は、現地女性と交際を始めました。しかし、現地の女性は、思っている事をそのまま言葉で表現し、その日の別れ際には、必ず「愛している」という言葉を口に出さないと満足してくれず、その交際は破綻しました。日本流の「目で思いを伝える」といった、奥ゆかしさなど、求めるほうに問題があったようです。
ブラジル人女性は、20歳ころまで美人で素晴らしいプロポーションですが、挨拶の抱擁、接吻などの人前での行為に、私は苦痛を感じました。考え方もストレートで、ついて行けないことも度々ありました。人それぞれで考え方が違うと思い、交際相手を変えてみましたが、ストレートに物を考え、そのまま口に出すという生活慣習はほぼ同じでした。ブラジル生まれの日系人の女性とも交際してみたのですが、それも価値観の相違があって、なかなかうまくいきませんでした。
そうするうち、事業団(現在のJICA)の方の紹介で、神奈川県花嫁センター出身の女性を紹介され交際が始まりました。1年間にわたり、週2通の手紙交際が始まり、遣(や)り取りした手紙の数も相当なものに成りました。しかし、数人の親友らが、写真見合いで納得するのかと心配もしてくれました。現地の空手友だちなどは、「そんな結婚は有りえない」と言ったものです。自分でも少し冒険かなと思いましたが、いつもの「あたってくだけろ」的な根性が頭を持ち上げ、彼女の両親に了解を求める電話を入れました。いろいろとブラジルでの事情を問われ、最後に「迎えに来い」が相手の親の条件でした。前年に農地を拡張して開墾をしたので、蓄えも底をついていた年でもあり、このときは思わず、「努力はしますが、迎えに行けるとしても、農閑期の5月以降になります」と返事をしてしまいました。
そうこうしているうちに、1980農年が始まりました。当時、私は養蚕を中心に営農しておりましたが、未開拓地を開墾し、陸稲、カボチャも栽培しておりました。開墾作業は、ブルドーザーで森林を倒し、倒した立ち木や草を帯状にまとめて置き、草木が乾いた頃に火を放って片付けるのですが、帯状にまとめた所がどうしても表土も押されて小高くなり、灰が多量に偏ってしまいます。こうして開墾した新地に、陸稲を植え付け、春先の雨を待って、そこに80センチ間隔でチリメンカボチャを植え付けました。開墾1年目の農地では、陸稲は雑草も生えずよく伸びてくれました。
養蚕飼育の忙しさにかまけて、陸稲もカボチャの方も生育具合を見にも行けませんでしたが、順調に育ってくれました。ブラジルでは12月のクリスマス前、カボチャ菓子を作り、食後のデザートとして食べたり、クリスマス祝の後によく食べる習慣があります。クリスマス前後の時期の需要が最高になり、当然値も高くなります。兄にカボチャのできばえを聞かれ、クリスマスの1週間前に見たら、葉の間からうす橙色のカボチャが物の見事に成っていました。
1か月半もの間、週2回の頻度で組合に出荷を続け、この年、合計50トンのカボチャを収穫しました。これを資金にして、結婚するための住宅の改造、飛行機の往復チケット代金、披露宴経費を支払っても、まだお釣りがきました。これまで35年営農を続けきて、こんな事は後にも先にも1度だけの経験でした。グァタパラ移住地の人たちには、「カボチャで、嫁さんを迎えに行った」といわれたものですが、本当にその通りでした。この年は陸稲の収量もよく、陸稲の売り上げ代金は、繭代1回分400kg相当に達しました。
4.営農の近況
その後、養蚕は地域全体にウイルスが蔓延して、収繭量の減収が続いたことから中止しました。1980年代の初め、農業経営の中心は養鶏に変わっていきました。私も82年から養鶏を始め、93年には養蚕から撤退しました。移住地でも28年間続いた養蚕でしたが、93年に終止符を打ちました。
2000年代に入り、トウモロコシの栽培が盛んになりましたが、05年、06年とトウモロコシの安値が続き、収益も低下しました。それを契機に、サトウキビへと変わっていきました。サトウキビ栽培は農地を分益形態にして、経営者は日本へ働きに出るようになりました。結局、これがもっとも利益率の高い営農形態となってしまいました。そうして瞬く間に、グァタパラ移住地の農地の65%がサトウキビに変わり、今では農地はサトウキビ一色に変わってしまっています。これには、政府のサトウキビ奨励政策も大きく関係していました。しかしながら、サトウキビ栽培奨励を鵜呑みにして始めたら、07年後半にはサトウキビの価格が下落し、営農経費も出なくなってしまいました。このように、ブラジルでの農業は公的な補償が無いなかで、大きな変動の嵐にもまれながら営まれています。幾つもの荒波を乗り越えながら、移住して以来、約半世紀の年月をこのグァタパラで暮らし、今日に至っております。
写真3 大型コンバインを駆使して収穫するサトウキビ
ブラジルでの営農、生活は容易なものではありませんが、終りに、ブラジル文化についての明るいエピソードをいくつか紹介致したいと思います。
この度、皇太子殿下もご臨席になられたブラジル日本人移民100周年記念式典の折、式典に向かう満員バスの中で、金髪の若き学生男女が、乗車する日系の初老夫妻に席を勧めていました。こういった光景はブラジルのどこでも、ごく自然に見かけるものでしたが、このごろではこういった光景も少なくなりつつあります。それでも幼児を抱く婦人、老人、身体障害者などには、進んで席、列を譲る姿はいまも残っております。
また、ブラジルでは政府条令により、近年、60歳以上の人々が身分証明書を提示すれば、バスや地下鉄に無料乗車できる制度もあります。年金制度改正前の92年までは、永住権所有者は外国の国籍でも養老年金を受け取ることができましたが、このごろでは、年金を受給する国民が多くなり、公的負担が増加していることから、外国の国籍を有する者が永住権の許可を得ることがたいへん難しくなってしまいました。さらに、永住権についても、農業永住者のみに発給されるようになっています。
ブラジルでは、外国人ですでに自分の国の年金を受給している者の受入れを歓迎しており、永住権も与えています。また、ブラジルに住む外国の国籍を有する者には、ブラジルの社会保険である統一医療健康システムへの加入が勧められ、加入すれば気軽に無料医療診察が受けられます。
このように、まだ十分ではありませんが、ブラジルの社会保障制度も徐々に整備されてきており、住みやすい国になりつつあります。 |