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(PHOTO:バングデシュ)
特集 環境に調和する水利用 | |
西アフリカの農民と共に行う水田作りと里山作りへの招待 |
島根大学 生物資源科学部 教授 若月利之 |
1.はじめに |
図1に西アフリカの民族分布と国境線を示したが、ほとんど一致していない。500年続いた欧米による奴隷貿易と植民地支配の故である。西アフリカはサブサハラのアフリカの中心であり、その人口の半分はナイジェリア国民で、日本とほぼ同じ1億2000万人が住んでいる。ナイジェリアは“Black is beautiful”の誇り高き国。自由奔放で個々人のサッカーの技量は世界最高だがチームワークがない“スーパーイーグル”は、ナイジェリアの現状を良く表している。英国による、かつての分断統治の故と言ったら、ナイジェリア人に失礼かもしれない。組織力で経済大国になった日本と好対照をなしている。野口英世博士が黄熱病でなくなったガーナでは、アシャンテ王が健在で、日本に滞在するガーナ人は多く、ウェットで日本人にも良く似た気質である。ガーナ男性と日本人女性のカップルは多い。 アジアに例えるとガーナはタイ、ナイジェリアはインドネシアに似た雰囲気の国である。どちらの国も伝統料理が美味しく、ガーナのフフ料理は日本のお雑煮に似た雰囲気だし、ナイジェリアのヤム餅はつきたてのお餅より美味しい。この点、東アフリカは多数の英系入植者の悪影響で「味文化が破壊され」、西アフリカのフランス語圏では悪しきフランス文化の影響が強く、どこへ行っても「フランスパンとマギーの味付けで汚染されてしまっている」と思うのは恐らく筆者の「偏見?」である。60年ごとの祭りで有名なドゴン村落やアフリカ稲の発祥の地で、ナイルデルタに匹敵する300万haの内陸デルタで古くからアフリカ文化を発達させてきたマリ国、「隷属の中の豊かさより、貧しさの中の自由を選ぶ」とドゴール将軍を追い出し、現在の日本の精神文化的危機を救いうるような哲学を述べたのは、ギニアのセク・トーレ大統領であった。ただし、「貧しさ故の隷属状態」を抜け出せていないのもギニアの現実ではある。 多様な西アフリカはしかしながら、現在深刻な食糧危機、環境破壊の中にあり、砂漠化の拡大も深刻である。このような農業と環境危機の下では工業発展は成功せず、社会不安も深刻である。10年続いたリベリアやシエラレオネ内戦、内戦が勃発しつつあるコートジボワール、独立時のビアフラ内戦で100万以上の餓死者を出し、それ以降も軍事クーデター等でつい最近まで不安定な治安が続いたナイジェリア、そして人身売買等も、この地域では未だ現実のものである。 戦後同時期に独立したアジア諸国の急速な発展に比べ、世界的な経済発展にも取り残され、農村が疲弊し、貧困が拡大している地域でもある。西アフリカこそは、過去500年の欧米のグローバリゼーションの最も大きな犠牲になった地である。だからこそ、本年8月のヨハネスブルグ環境サミットはアフリカ開発が中心テーマとなった。 |
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2.グローバリゼーションの衝撃と日本の役割 |
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私は、2001年9月11日はガーナの古都クマシ市に滞在していた。ガーナプロジェクトのコーディネーターは、島根大学で博士を取得した土壌肥沃度が専門の真面目な若手研究者である。彼はツインタワーへのテロ攻撃の第一報に対して“good”とただ一言、そして「アメリカはあまりにも横暴すぎる」と付け加えた。ガーナの国営テレビのニュースをベースにしており、犠牲者の詳細があまり伝わらない段階ではあったが。ナイジェリア北部のイスラムの町では、テロ成功祝賀デモもあったという新聞記事も目にした。
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3.西アフリカにおけるコメ生産と輸入の増加、減少する森林、劣化する土壌 |
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(1)コメの生産・消費・輸入の急拡大 西アフリカでは、過去30年間にコメは240万トンから730万トンへ280%増産され、トウモロコシ、ソルガム、ミレットの増産率を遥かに凌駕した。コメ以外では人口増加率の200%以上の増産を示したのはキャッサバの240%だけであった。コメは今やこの地の伝統的作物であるミレット、ソルガム、トウモロコシに匹敵する生産量になりつつあり、急速に主穀の地位を獲得しつつある。1人当りの消費量も年10kg台から30kg台へと急拡大したため、生産量の増大にもかかわらず、輸入量もまた、70万トンから470万トン(籾ベース)へと急増し、貴重な外貨を消費している。
(2)森林の減少と荒廃地の増加
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4.集水域低地における水田の集約的な持続性の高さと環境修復への貢献の可能性 |
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水田の生態学的持続性の高さの意義と理由について、図3にモデル的に記載した。水コントロールによる雑草制御も有効であるが、湛水栽培における土壌微生物による窒素固定量(日本では50〜80kg/ha/年、熱帯圏では水田の地力と水管理レベルによるが20〜200kg/ha/年の範囲にある)は豆科の窒素固定量に匹敵するものである。畑作では、このような地力維持には豆科植物の利用や家畜糞等の利用に頼るしかないのであるが、いったん低地に水田システムを構築すれば、後は水管理によりこのような利益が得られる。さらに、アップランドから低地へ流れ落ちる流水による、肥沃な侵食表土の堆積や養分に富む水の低地への集積等による地質学的施肥は、低地水田システムの長期的な持続性の維持に重要である。 単年度で焼畑の陸稲と低地水稲の収量を比較すると、無肥料では陸稲1t/ha、水稲2.5t/haと約2.5倍の差がある。標準施肥をすれば水稲は5〜6t/haの収量になるが、焼畑の陸稲では土壌侵食防止等のある程度の基盤整備がなされない限り、施肥はしても無駄なので施肥はできない。さらに焼畑の陸稲は1回の作付をしたら、地力の回復を待つために4〜5年の休閑が必要である。一方、水田は集水域における地質学的施肥と湛水栽培による地力の回復メカニズムがあるので、連作が可能である。以上を総合して、10数年以上の長期間で比較すると、その持続可能な収量差は10倍以上になる。したがって、1haの水田の開発は10ヘクタール以上の森林の保全あるいは森林再生を可能にする。 西アフリカ全体では約2000万haの水田開発ポテンシャルがあり、約2億haの森林再生ポテンシャルがあることになる。このように水田は食糧増産のみならず、森林の再生から集水域におけるさらなる土壌と水保全への貢献、その結果としての低地の水田システムのさらなる集約的持続可能性を高める。森林と森林土壌への炭素固定により、地球温暖化防止等の地球環境問題にも貢献できる。 アフリカにおいては、単なる緑化は農民に受け入れられない。集約的で持続可能な食糧増産が必要である。低地における持続可能な水田開発による食糧増産から、集水域のアップランドにおける森林の再生、里山作りへとステップアップする段階的なプロセスが必要である。 |
5.農民の自助努力を支援する低コストの小規模水田開発 |
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(1)水田稲作の定着化の進展 アフリカ稲(Olyza Glaberrima)の栽培に始まる西アフリカの稲作は2000〜4000年前に始まるマリの内陸デルタにおける氾濫原農耕(深水栽培を含む)とギニア高地におけるフォニオ栽培と組み合わせた焼畑稲作(写真2)が起原である。従って、基本的には谷地田低地でも水田を作らない(写真1)。そのために粘土の流失、土壌劣化を招いてきた。その後、欧米人が奴隷貿易等に関連して15世紀以降アジア稲を沿海部から持ち込み、マングローブ帯稲作等を発展させた。イギリスが1950年代にナイジェリア中部ビダ市付近のBadeggiに灌漑水稲の研究所(現ナイジェリアの作物研究所)を西アフリカで最初に設立したが、水田稲作技術を西アフリカ全土に本格的に広めたのは、台湾チームの1960年代〜70年代における協力が最初である(Hsieh, 2001)。 台湾はアフリカにおける水田稲作技術協力のパイオニアである。人口1200万人の1960年代当時で、年間1200人の選りすぐりの若き水田稲作技術者を派遣し、アフリカ全土の村に5〜10人のチームで数年間にわたり住み付き、開田と稲作をグラスルーツ・スタイルで指導した。最も多かったのはコートジボアールで、1960年代の半ばには全国土20か所以上の地点に180人の専門家が滞在して、この国の今日の小低地水田開発の基礎を作った。大陸中国との外交権の交代によって約10年しか継続しなかったため、1980年代には混乱と停滞が生じたが、1999年からスタートした以下に述べるWorld Food Program(WFP)のFood for Work方式(南雲, 2002)の水田開発が成立する基盤が作られた。 すでに水田農業技術移転のための協力は種々実施されてきが、これまでのようなコストの高い灌漑水田の拡大は困難になっている。技術移転の困難さだけでなく、最大の問題は、かりに5t/haの収量を実現したとしても、コメの販売価格1000ドル/ha程度では1ha当たり2〜3万ドルもする開発費をまかなえないことにある(表2)。 このため、3000ドル/ha程度の開発費で、かつ3〜5t/haのコメ収量を実現できる新しい開発方式と農法が必要となる(表3)。農民参加を有効に活用すれば、西アフリカでも水田農業の歴史が30年以上に達し、農民や普及員、農業技術者や研究者の質と量ともにレベルが向上したので、今までのような品質(灌漑水田システムの基盤整備レベル)を維持したままで、低コストでの灌漑水田開発が可能になりつつある。 (2)手作りで進む水田開発(南雲, 2002) :WFPのFood for Work方式 1999年から始まった日本の余剰米とTrust Fundを利用する、国連世界食糧計画(WFP)と日本、コートジボアールのANADERとの共同プロジェクトはFood for Work方式で、貧しい農村地帯において1日の労働(溜池や堰や水路や灌漑水田作り)に対して3kg(1.5ドル相当)のコメ(精米)を一家の主婦に供給して、アフリカの内陸小低地(谷地田)に小規模灌漑システムを農民の自助努力で「手作り」で、2000〜3000ドル/ha程度の費用で進めている。 このコメの供与が、村人による小学校教育を促進するための給食支援活動と連動している点もユニークである。日本からは1人のアドバイザー/コーデネーターが派遣されているだけである。適宜、AICAF(国際農業協力協会)/WARDA(西アフリカ稲作開発協会)よりの技術支援が行われている。これまでで3年ほど実施したが、約2000ヘクタール程度の水田整備を1万人の農民グループとの共同作業で続けている(これまでの使用予算は5億円程度)。 この成果は費用の点でも、貧しい農民への直接投資(食糧支給)と農民グループの組織化とOJT(実地訓練)、小学校教育、女性への支援等、社会や人間開発とインフラ開発(小規模灌漑水田)等の総合的支援等、さまざまな意味で優れた成果を上げながら、現在進行中である。 WFPのFood for Work方式の持続性に関しては、この食糧支給が農民への直接のインセンティブになっているが、この支援がストップしても、プロジェクトが持続的に展開できるかどうかがポイントになる。少ないとはいえ、先に述べたようにFood for WorkによってWFPより支給される1日の労働に対するコメ(精米)3kgは1〜1.5ドルに相当し、貧しい農民にとっては、かなりの労働報酬になっているからである。Food for Work方式から自主的な水田稲作の展開までのステップアップの過程が重要である。この方式はこの地域における持続可能な灌漑水田開発方式として、大きな期待が持てる全く新しい方式である。 (3)谷地田農法の実証:農民参加によるアフリカ型谷地田総合開発 図1には、ナイジェリアとガーナの私達のプロジェクトサイトの位置も示している。内陸小低地での水田や里山作りの実証的な研究や普及活動は、当初、ナイジェリア中部ギニアサバンナ帯に住むヌペ人のビダ市付近の集水域で1986年にスタートした(廣瀬・若月, 1997)。国際熱帯農業研究所(IITA、本部イバダン市)に、86−88年にJICA専門家として派遣されたことがきっかけで始めた仕事である。科研費や島根大学への民間資金、現地NGO (WIN : Watershed Initiative in Nigeria)と密接に協力しながら、大使館の草の根無償資金協力等も得ながら、国際熱帯農業研究所に現地本部をおいて、92年以来継続している(Hirose and Wakatsuki, 2002)。 森林移行帯に属するクマシ付近の内陸小低地での仕事は1995−2000年度までは主としてJICAの支援で、ガーナの土壌研究所を主たるカウンターパートとして、作物研究所、林業研究所および水資源研究所の仲間達と農民の自立的な参加を前提とする、水田作り、里山作りの実証的な研究活動を過去7年継続している(Wakatsuki, et al. 2001 , 若月, 2002)。 植生、土地利用、とりわけ水分動態の基礎データを踏まえ、多様な地形、土壌、水条件に適合する種々の水田(天水田型、湧水利用型、小型ポンプ利用型、簡易堰利用型)の造成と水稲の栽培を農民参加により試行した。その結果、農民グループへのローンを基本とする3000〜4000ドル/haの費用で、3〜5トン/haの収量を確保し、自立的展開の可能な新しい「エコテクノロジー型水田開発方式(谷地田農法とも呼ぶ)」が成立することを実証した(表3)。ここで使うエコテクノロジーとは、地域の生態環境と社会に適合する生物生産向上と環境修復を兼ねた土と水の管理技術であり、溜池や堰・畦水路のレイアウトと造成、均平化等のエンジニアリングを農民自身が農学的な耕種技術とともに実施することを特徴としている。 JICA研究協力は2000年度で終了したが、2001年度、2002年度と農民グループは着実に新規開田を自助努力によって継続している。実証した谷地田農法の今後については、以下のような展開が可能である。 1)食料増産援助物資である耕耘機、肥料、農薬等の農民グループへの供与と谷地田農法による水田開発方式は結合して、新しい農業開発方式になる。 2)この谷地田農法の十分な技術移転が実施されれば、アフリカ開発銀行や国際開発銀行等のローン案件として、アフリカにおいては初めての自立的な水田農業開発プログラムとなり得る。 3)コストエフェクティブネスの高いODA事業としての実施を計画しているが、場合によっては外務省/JICAのODAに頼らずとも、日本やアジアの農民や農業関係者のNGO/NPO等の直接の協力によって、実施することも可能であり、現在、新潟、鹿児島、島根および鳥取県の先進的農業者との連携を進めている。 西アフリカの農民の身体能力はサッカーでも明らかなように極めて高い。そして、本質的に非常に勤勉である。欧米式の教育を受けたアフリカ人は必ずしもそうではないが、お百姓さんはよく働く。読者の皆さんと西アフリカの農民と共に、水田や里山作りの機会があることを期待しています。
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バングラデシュの地下水ヒ素対策の現状 |
アジア砒素ネットワーク(AAN) 代表 上野 登 |
1.土呂久ヒ素問題からバングラデシュ問題へ |
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1990年10月31日、土呂久鉱山のヒ素中毒被害者の裁判が最高裁の和解で解決した。71年に高千穂町岩戸小学校の職場教研が、教育研究集会で被害の実態を報告して以来、全国版の報道記事に展開し、知事斡旋を受け入れず、75年12月に提訴し、原告の半数を超えた死をふまえた「生きているうちの救済」という和解解決であった。この裁判闘争を支えた「土呂久・松尾等鉱毒被害者を守る会」は、70年におよぶ被害者の苦しみ、20年におよぶ運動の経験を記録すべく90年5月「土呂久を記録する会」を結成し、93年5月『記録・土呂久』を公刊した。同年、この「記録」は毎日出版文化賞特別賞を受賞した。 この記録の過程で、高千穂保健所に勤務していた薬剤師が、青年海外協力隊員としてタイで活動していた時のロンピプン錫鉱山跡のヒ素被害の実情を報告し、92年9月堀田宣之医師ら8人が現地視察を行っていた。堀田医師は土呂久の告発後、熊大医学部の助手時代から自主検診を続け、世界のヒ素被害の研究に関心を寄せ、資料収集と現地視察を続けていた。堀田医師の広い知識、タイでの経験をふまえ、土呂久の運動で蓄積した知識と経験をアジアに向けて生かすべく、94年5月「アジア砒素ネットワーク(AAN)」を立ち上げた。 95年2月、カルカッタでヒ素に関する国際会議が開かれるという情報を得て、AANから3人の代表が参加した。83年に熱帯病大学に受診にきた患者をヒ素中毒症と診断したシャハ医師と、ジャダプール大学環境学科のシャクラボーチ教授らが企画した会議で、西ベンガル州の6県、312村の80万人の住民が汚染井戸の危険に曝されていることについて、世界の知識と技術の協力を仰ぎたいという趣旨の会議であった。その現地視察で、地下水によるヒ素被害の実態にふれ、シャクラボーチ教授の「緑の革命」による地下環境の激変に起因するという仮説を学ぶことができた。 この会議に参加していたバングラデシュの医師から「インドに接するナバブガンジ県でも基準以上の汚染がある」という情報を得て、96年2月、堀田AAN代表ら3人が現地視察をし、12月にはAANの3人、応用地質研究会の6人で、インド国境に近い村々を10日間視察し、典型的な被害村シャムタに遭遇した。バングラデシュのヒ素汚染の程度は想像以上のもので、イギリスのBGS(英国地質調査)の第1次フェーズの研究報告書の汚染井戸率を地図化してみると、図1のようになっている。ガンジス河とメグナ河が合流するデルタ下流域の洪水地域に高汚染井戸が集中している。全国的には64県中、チッタゴン丘陵地帯の3県を除き、ほとんどの県に汚染が及び、平均汚染率26%でリスク人口を推測すると3000万人以上に及ぶといわれている。イギリスのBGSはデルタ下流域の高汚染地に注目し、ピート層に起因する還元態自然溶出説を提起し、シャクラボーチの酸化説と対峙している。
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2.シャムタ村モデル研究と「移動ヒ素センター」提案 |
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AANの第1回視察で強烈な印象を受けたシャムタ村をモデルとする調査研究を計画し、97年からトヨタ財団の支援を得て調査研究に取り組むことになった。12月から98年1月にかけて、宮崎大学ヒ素研究グループは福岡市保健環境研究所の広中博見研究員考案の簡易測定器を使い、282本の飲料用井戸の測定の結果を地図化(図2)した。高濃度汚染井戸は村の中央の南部に分布し、そこに被害者が集中している実態が明らかになった。この地図は、汚染が一律に発現しているのではなく、小さい村でも濃淡があることを明らかにし、研究の代表者である横田漠教授の各界への発表で世界的に注目されることになった。 この地図をベースに、応地研の観測井調査の地層資料を重ね、シャムタ村のヒ素溶出のモデル図3を作り、ヒ素汚染の原因への仮説が提起されてきた。要約すると次のようになる。 「シャムタ村の地質は、下位より下部砂質層、下部泥質層、上部砂質層、上部泥質層、最上部砂質層、最上部泥質層であり、水文地質学的にそれぞれ第2被圧帯水層、第2難透水層、第1被圧帯水層、第1難透水層および不圧帯水層に分かれる。 還元的な環境下で地下水中に溶出したヒ素は、農業用井戸による地下水の汲み上げによって、上部砂質層の上部から下部に垂直的な流動が起こり、さらに上部泥質層を通じての絞り出しによって移動する。ヒ素含有量は上部泥質層の層相、とくにピート層の分布状況に影響される」 筆者は農業地理学の視点から調査に参加し、98年3月の調査で図4のような灌漑井戸の分布図を作成した。村の南部は広々としたアマン水田地形で3本の深い井戸(DTW;Deep Tube Well)で灌漑され、北部はアマンとアウス型(畑作的水田)地形で4本のDTWと17本の浅い井戸(STW;Shallow Tube Well)が分布し、北部の水田には透水率の高い漏水型水田が分布している。この漏水が、第1帯水層の地下水流に影響を及ぼしているのではという課題を応地研に提起した。乾期の3カ月間、毎日推定1日1万トンの水が揚水され、水循環をつくりだしている。更に、営農形態のヒアリングから乾期米に1ビガ(13アール)当たり窒素20kg×3袋、リン10kg、カリ8kg、雨期米に窒素30kg×2袋、リン15kg、カリ15kgという多肥農業が行われていることを知った。2000年の「アジア地下水砒素汚染フォーラムin横浜」で以上の報告をして以来、ヒ素溶出メカニズムの研究の進め方にある方向性が出てきた。鉱物微生物学の分野の脚光である。 ヒ素溶出要因究明と同時に、無ヒ素水供給対策の模索も始めた。現在の手押しポンプ飲用井戸は、70年頃以降のUNICEFの推進による普及の賜物であった。それ以前の状況を聞いていて、村の中央に大きな池があり、その隣りに空き地があるが、それはザミンダールの館跡地で、1948年まではザミンダールが池利用の水場階段を管理して、午前と午後に各2時間開門し、給水していたことが分かった。この水利用の慣習を現代的に生かす方法を考案しだした。宮崎大学工学部と宮崎市水道局の技師が、西ベンガルの緩速濾過装置の視察をして、バングラデシュ向きの小型Pond Sand Filter(PSF)の設計図を書き、同大学で小型模型実験を行い、99年1月シャムタ村中央、モスク横の溜め池を水源とするPSFの通水式にこぎつけた。国の健康技術局DPHEは飲用DTWの設置で対応を示した。このPSFとDTWは現在も有効に作動している。 1999年度、トヨタ財団の支援切れに合わせ、シャムタ調査は「移動砒素センター(MAC)」構想を提案し、その任を終えた。2001年からは、ジョソール県北部のマルア村モデル研究に移行していった。
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3.JICA「開発パートナー事業」の展開 |
シャムタ村調査を終え、2000年度はクルナ地区のジョソール県を中心とする3県を対象とする次のようなMAC活動をトヨタ財団の支援で実施した。汚染率の高い村を対象に、地元の自主的協力姿勢の強さを評価し、医師、水供給技術者、水分析化学者、啓発担当者が1台の車に乗り、現地入りをして実態と対策を研究する。対策の具体案が出ると、地元の協力者組織(ヒ素対策委員会)を中心に、1割の地元負担金を原則に協力体制を作り、PSF、DTW、小型PSFを設置したダグ・ウエル(日本のつるべ式井戸)のいずれかを設置していく。その設置資金はAANの「友好の水」基金運動で準備する。更に急を要する被害者が見つかった場合は、山形ダッカ友好記念病院(山形医大修了医師が山形県の有志の基金で設立した病院)で、AANの「医療プロジェクト」基金運動の資金で治療する。 この運動をふまえ、日本のODAの成果に対する批判を受けてJICAが設定した「開発パートナー事業」に申請を行い、2001年度事業として採択を受けた。政府間承認の手続きに時間がかかり、12月に承認が終わり、2002年2月1日から「開発パートナー事業」の実施に入ることになった。この事業は2本建の仕組みをもっている。 バングラデシュ政府は地方自治局のもとに世界銀行の支援でBAMWSP(無ヒ素水供給プロジェクト)を実施している。AANはその実施郡の1郡を分けてもらい、BAMWSPのマニュアルに従ったスクリーニングを行う義務を帯びる。そのうえで「開発パートナー事業」のMAC活動を実施していく。 実施郡はシャムタ村を含むジョソール県シャシャ郡と決定された。シャシャ郡内11ユニオン、各ユニオン9ワードの行政区の3万2447本の飲用井戸の測定を終え、9月11日から本来のMAC活動に入っているところである。シャシャ郡の測定結果表と汚染マップを作成したが、郡内でも汚染は地域的に不均等である。この調査は1ワード4人(男女各2人)の測定ワーカーを訓練し、実施された。その際、灌漑用井戸の測定も行い、灌漑井戸も高率に汚染されている実態を把握した。今までの研究は、集落内の飲用井戸測定結果で要因論争を行ってきたが、農地までも含む広域要因論の必要性が浮上してきた。 JICAの「開発パートナー事業」は2003年度で終わるが、MAC活動をさらに発展させ、ジョソール市にヒ素センターを設置し、専門部局を確立してヒ素問題の相談に応じるとともに、MAC活動を地域的に展開していく構想を実現すべく検討中である。 |
4.ヒ素問題のアジア的展開への対応 |
AANは1994年の設立後、内モンゴルの国費留学医師から内モンゴルのヒ素被害への協力依頼を受けていた。その依頼を受け日本環境事業団の助成事業に申請し、五原県勝利村をモデルとする対策事業を、新潟大学地質学科の協力で実施していた。2000年になり、JICAの地域提案型NGO研修事業が開始され、アジア10カ国から研修者を招いて、ヒ素問題研修を実施する計画が提案され、そのカリキュラム作りにAANは対応した。同年の実施は延期され、2001年にバングラデシュ、タイ、中国の3カ国から研修生を迎える研修会を実施した。そのカリキュラムは次のように編成されている。 1)宮崎大学でヒ素の水質分析実験、PSF、ヒ素除去技術の講習と実験、2)鹿児島大学でヒ素の金属性の講習、3)宮崎医大皮膚科でヒ素症状の研修、4)宮崎大学と九州芸術工科大学の社会科学的・人類学的ヒ素問題解明の講習、5)宮崎市で司法(裁判)、公害行政の講習、6)熊本市でのヒ素臨床学の講習、7)福岡市でヒ素簡易測定器の理論と実習、8)土呂久での「土呂久学」の実習。 こうした内容で、2カ月間の研修会を実施した。その結果は好評で2002年も実施されることになった。 2002年は、新たに産業医科大の疫学の講習をカリキュラムに加え、参加国はネパールとカンボジアが登場し、バングラデシュと中国の4カ国、1カ月間の研修会が開かれた。ネパールは99年にヒンドスタン平原に位置するタライ平原にヒ素被害が確認されての参加であった。カンボジアは応地研の研究者がJICAの専門委員として東南アジアの調査を行い、メコン下流域にヒ素汚染が発現しているという現状をふまえての参加であった。中国は、広西壮族自治区の公務員が中国の22の地区で1400万人の0.05ppm以上の汚染人口が確認されているという資料を持参しての参加であった。 参加はなかったが、ハノイの保健機関から紅河流域に汚染が発生しているという報告が行われている。またミャンマーのイラワジ川、パキスタンにも汚染地発生の情報が寄せられており、アジア全般に汚染が拡大していることが確認されつつある。これに新疆自治区の汚染状況を加えると、チベット高原を核とした造山運動と源流域の存在で、アジア各地の汚染が連携しているという姿が浮かび上がってくる。 新潟大学の久保田喜裕教授は、ヒマラヤ造山活動の岩石が風化し、風化土壌が浸食・流下で沖積平野に運ばれ、そのなかのヒ素が濃集過程で粘土、とくにピート層に濃集したという理論を提起していた。この理論を基礎に、ウェーゲナーの大陸漂移説とプレートテクトニクス説を組み合わせ、火成岩の貫入運動による重金属類の表出と風化理論によって、ヒ素汚染は汎アジア的、汎世界的現象としてとらえられるのではないか、という大仮説が浮上してくるようである。これは今後の研究課題である。 |
5.「アジア地下水砒素汚染フォーラム」の展開 |
AANを中核としたヒ素対策の活動を支えてきたのは、学際的な共同研究である。96年にボランティア的にバングラデシュ調査に乗り出したAANと応用地質研究会は、第1回フォーラムを新潟大学で開いた。更に第2回も新潟大学で開き、以後、宮崎大学、横浜市、島根大学という順番で、2002年は第7回フォーラムを宮崎市で開いた。その内容はヒ素溶出の要因の究明と有効な対策の模索を中心にしてきた。 ヒ素溶出の要因としては、先述のシャクラボーチ教授の「緑の革命」によるFeS2(黄鉄鉱)の酸化溶出説に対し、BGSのピート層を核とする還元自然溶出説が対峙し、大方の流れは還元説に傾いている。これに対し、シンシナチ大学をはじめとするアメリカはファラッカ堰のカルカッタへのガンジス河分水による下流域の地下水位低下の社会的要因を提起してきている。このような要因論争に対し、我々の考察の足取りは次のように展開してきている。 シャムタ村の研究の当初、井戸と素掘りの便所と家畜小屋の近接性への注目からdomestic waste説が出された。農業の窒素肥料の投与も考慮し、飲用水中のNH4、Fe、 Asの存在から、窒素の作用が重視されたのである。しかし、農業用の窒素は水田の場合に脱窒作用でガス化し、硝酸態窒素への変化は考えられないという説から、domestic waste説への疑問がでてきた。これに代わって、P(リン)の地下浸透が問題視されてきた。PとFe(鉄)の競合性から、PO4(リン酸)の水質分析結果が重視され、Pの還元化作用と水酸化鉄に付着していたヒ素の溶出論が登場してきた。その還元作用に微生物の富栄養化が関係し、富栄養化の要因にPが作用している。微生物とヒ素の関係が新しい研究課題として重視される段階にある。還元説の自然溶出説に対し、社会的契機の新しい視点が登場してきたのである。 バングラデシュの農業政策の変遷をみると、東パキスタン時代は耕作面積の拡大で食糧増産に対応し、バングラデシュ時代から単収増大で自給達成を図ってきた。その単収増大を5カ年計画下の高収量品種、化学肥料、灌漑井戸の3点セット技術、いわゆる「緑の革命」で推進してきた。その灌漑井戸は70年代のDTWに対し、80年代以降はSTWで推進されてきた。この灌漑井戸が「緑の革命」の施肥基準に従った化学肥料の多投で、Pを大量に地下水中に供給し、還元態を作り、ヒ素を溶出させている。こういう仮説が描かれるのではないか。その検証が急がれる。 JICAの「開発パートナー事業」がシャシャ郡の灌漑井戸の汚染を明らかにした結果、我々は従来の村落中心の水文分析ではなく、広域的水文分析を課題視し、新しい要因分析に迫られ、微生物学、農業土壌学の領域を加えた総合的要因論に立ち向かう段階にある。 |
《参考資料》 |
1 川原一之 「インド・バングラデシュ砒素汚染を歩く」「世界」1997年7月号 2 「地学教育と科学運動」 1997・11 特別号 地学団体研究会 3 「地球科学」54−2 2000年3月 地学団体研究会 4 上野登 「バングラデシュの地下水砒素汚染問題」「地理」2001年3・4月号古今書院 5 British Geological Survey Ground water studies for Arsenic contamination in Bangladesh 1999/1 6 British Geological Survey Arsenic contamination of groundwater in Bangladesh 2001/2 |