2023.8 AUGUST 68号
Keynote 1
東京大学大学院農学生命科学研究科 溝口 勝
つくばアグテック株式会社 杉山 武裕
ボゴール農科大学 サティヤント・クリド・サプトモ
1 はじめに
溝口は6年前にインドネシアを訪問した際に農村における通信インフラ整備の急速な進展に驚き、ARIC情報の論文1で日本における農村通信インフラ整備の必要性を説いた。また、杉山は2019-2022年にJICA(国際協力機構)が海外の開発途上国で実施した複数の調査2-5に参画し、報告書を取りまとめた。本論ではこれらの報告書と日本で博士号を取得して母国インドネシアに帰った元留学生からの情報に基づいて、コロナ禍の前後で起こっていた開発途上国のDXについて論考する。
2 開発途上国におけるデジタル・トランスフォーメーション
開発途上国のデジタル・トランスフォーメーション(以下「DX」)を考察する上で欠かせない視点が存在する。それは、現在、世界的に社会のDXがあらゆる地域で急速かつ同時に進行しているという事実である。
「DX」という概念の提唱者であるエリック・ストルターマン(Erik Stolterman)が2004年に発表した「Information Technology and the Good Life」6では、「DX」を「デジタルテクノロジーが人間の生活のあらゆる側面に引き起こす、あるいは影響を与える変化」a(注釈1)と定義した。その後、ストルターマンはDXの定義を社会、公共、民間の3つの観点に分類した7。
DXに伴う社会的変化の特徴的な点は、過去に起こった産業の技術革新が先進国を中心に起きていたのに対して、デジタル化は開発途上国を含めて同時進行的に起きていることである。こうしたDX化が、農業・農村にも波及しているというのが、マクロ的な視点からの流れである。
グローバルレベルでDXによる社会変化が起きた要因は、以下の3つが世界各地で同時に使用できるようになったことである8。
(1) インターネット接続が可能なデータ通信環境
(2) 誰もが常時使用できる情報端末の普及
(3) 多様なデータの収集
(1)は、具体的には3G以上の高速携帯通信ネットワークが整備されたことである。現在、開発途上国も含めて、人間の居住地域であれば携帯電話の通信網が概ね利用可能であり、さらにその多くの地域でインターネットを利用するために必要な3G以上の高速通信が可能となった。(2)は、2010年代以降の世界的なスマートフォンの普及である。そして、(3)は2000年代から急速に普及したクラウドサーバである。
この3つがそろったことにより、多様なデジタルデータをインターネット経由で収集・解析することが可能になり、新たなデジタルサービスが生まれ、開発途上国でもデジタルサービスが提供されるようになった。
様々な規制がある先進国よりも、規制が少ない発展途上国において革新的なデジタルサービスが登場しやすい。これらは「リープフロッグ(カエル跳び)現象」と呼ばれる。この現象の詳細は伊藤(2020)9を参照されたい。DXに伴い、個人情報保護などの問題が新たに生じているが、実用的にはDX化による恩恵が大きく、その傾向は開発途上国においてより顕著である。
開発途上国のスタートアップ企業に対する先進国などからの投資が急増している点も重要である。図1はインドならびに東南アジア諸国のスタートアップ企業(農業分野以外も含む)の投資額を示したものである。いわゆる「ユニコーン企業」と呼ばれるスタートアップ企業が開発途上国からも多数出現している。先進国・開発途上国を問わず、経済全体でみると、農業分野の生産額が占める割合は少ないものの、農業分野のバリューチェーン全体が抱える課題を解決するツールの一つとして、デジタル技術を用いた各種サービスが出現している。
「データの収集」には主にIoT(Internet of Things)技術が使われている。例えば、農業分野では植物の生育環境における温度、湿度、土壌水分、日照などの連続的データ、畜産分野では生体情報の管理データが収集されている。従来、環境計測はアナログ機器やスタンドアロンのデジタル計測機器で行われていたため、収集データは計測者が目視で確認したり、計測現場に行って物理的にデータ回収する必要があり、実際の圃場でデータ収集するのは技術的・コスト的に実現困難であった。しかし、近年のセンサ価格の低下とIoT技術の進化により、実際の圃場(露地栽培含む)で営農関連の情報を連続計測して、インターネット経由でデータを蓄積することが技術的に可能になった。
IoTとは異なるが、露地栽培の場合はリモートセンシング技術の活用も進んでいる。これは近年、民間企業による人工衛星打ち上げが増え、衛星画像を比較的低コストで入手できるようになったためである。これにより、主にスタートアップ企業を中心とする民間企業が圃場の画像解析を行い、各種情報を営農者に提供するサービスが増えてきた。
3 バリューチェーンのデジタルサービス
図2は農業のバリューチェーン(価値連鎖)を示したものである。世界のDX化の進行に伴い、各段階に合わせた農業関連のデジタルサービスが出現している。
(1) 投入材の供給(農民融資)
開発途上国の農業は、「緑の革命」後のアジア地域や中南米地域のような多投入型と、アフリカの多くの国に見られる低投入型に分けられる。いずれにせよ、適切な収量を確保するためには優良種子、肥料、農薬などの投入が不可欠であるが、開発途上国では農民への与信が難しいため、作付けに必要な時期に営農資金が不足し、投入の不足により適切な営農ができないケースが多く見られるd。これらの農民に対して与信を行い、農民融資サービスを提供する動きが開発途上国で多く見られており、中には日系企業も存在する。
特に、インドでは農民を対象とした農業分野のDXの進行が進んでいる。これはインド政府が12桁の番号と生体認証によって登録されるインド版マイナンバー「Aadhaar」(アドハーもしくはアーダール)をインドの全国民に付与したことが大きい10。インドに限らず、開発途上国の農民は既存の金融システムの枠外に置かれることが多かったが、このようなシステムの構築により、農民も金融システムの利用が可能となった。このことを金融包摂(Financial Inclusion)と呼ぶ。
(2) 農業生産
開発途上国の農業・農村開発において最も重要なのは、農業生産性の安定と向上である。この分野は、地域によってデジタル化の方向性に大きな差が見られる。IoT機器を使用する場合は各国の携帯通信のインフラの整備状況に大きく影響されるためである。また、携帯電話のネットワークはコスト転嫁の関係から、人間の居住地域を中心にカバーせざるを得ない。日本でも、農業を担う中山間地域の7割が携帯電話のカバレッジから外れている。
この状況は開発途上国でも同様である。各圃場のセンシングには研究機関などの技術も求められるため、圃場へのIoT機器の導入はタイやインドネシアなど、政府機関の支援がある一部の国に限られる。一方、開発途上国の農業は基本的に露地栽培であるため、リモートセンシングを活用したサービスが多く出現している。
(3) 加工・保管と輸送・流通
これらは実体部分の改善の必要性が大きく、デジタル技術の導入が難しいため、あまり進んでいないのが現状である。ただし、輸送・流通については次項の販売・消費と関連する部分での変化がインドネシアなど一部の国に見られる。
(4) 販売・消費
既存の農産物の市場流通は先進国でも構造が複雑なため、デジタル化による流通の合理化が進んでいない。日本でも、青果物市場のデジタル化による流通の合理化は、神明グループの東果大阪とNTTグループの連携により始まったばかりである。一方、物品の直販はデジタル技術との親和性が高い。コロナ禍によりEコマースの利用が急激に進んだこともあり、開発途上国では農産物の直販を支援するデジタルサービス(日本ではタベチョクなどが提供)が出現している。インドネシアやインドでは、既存の伝統的な流通とは別のルートを用いた農産物の販売支援が出現している。
4 国別に見たDXの傾向
①インドネシア
政府の最も重要な取り組みのひとつが、インドネシアのデジタル・ロードマップ2021-2024である11。このロードマップでは、2024年までにインターネットの普及率を75%に引き上げること、パラパ・リングのブロードバンドネットワークのカバー範囲をインドネシアの全州に拡大すること、2024年までにデジタル・スタートアップの数を20,000社に増やすことなど、インドネシアのDX化に関する意欲的な目標が数多く設定されている。そのため、インドネシアは東南アジア諸国の中でスタートアップ企業への投資額が多く、シンガポールに次いで2位である。一方、農民の組織化は弱く、投入材を購入するための資金調達に課題を抱えている。そのため、インドネシアの農業系スタートアップ企業はクラウドファンディングなどの金融系を出自とする企業が多く見られる。Crowde社は農民に営農資金を融資し、農産物を買い取ってインドネシアの大手スーパーなどに出荷するデジタルサービスを提供しており、既存の伝統流通を補完する位置づけである。また、MSMB社は国立ガジャマダ大学を卒業し、日本で学位を取得した創業者Bayu氏が設立した計測系の企業で、インドネシアの政府機関などとも協力し、IoT機器やドローンを用いた圃場の計測サービスを提供している。
②タイ
タイはスタートアップ企業への投資はそれほど多くないが、研究セクターが伝統的に強く、大学からスピンオフした技術系のスタートアップ企業が多く見られる。タイは日本と同様に農村組織や農村金融が整備されていることから、関心はIoT機器やセンサを用いた農業の生産性向上や省力化の方向に向いている。中でもAITを卒業後に日本で学位を取得したラサリン博士らが創業したListenField社12は土壌から収穫まで業界標準の予測モデルと機械学習を融合させ総合的な精密農業ソリューションを提供している。
③フィリピン
フィリピンの農業DXは農産物の生産と流通面に関するものが中心であり、政府が主導している面が大きい。1つは科学技術省が複数の作物を対象に進めている営農向け環境データの提供プロジェクト「SARAi」であるe。もう一つは、貿易産業省が進める、フィリピン国内の青果物流通をデジタル技術で合理化する「Deliver-E」fであり、USAIDの支援を受けている。また、農産物を含む直売システムは、フィリピン国外のEコマース企業が参入している。ただし、もっとも重要な営農を対象とするサービスは民間のスタートアップ企業が若干出てきたものの、ビジネス的には継続が困難な状況となっている。
④インド
インドでは国民総背番号制(Aadhaar)の導入により、これまで金融システムの外にいた農民が、金融口座を開設できるようになった。また、インド政府がDXを推進しており、様々なデジタルサービスを提供している。そのため、農業分野でも多くのスタートアップ企業が出現している。
衛星画像から農地を検出する技術を有する日本のスタートアップ企業SAgri社は、2019年にJETROベンガルール事務所が事業を開始した「日印スタートアップハブ」の第1号として採択された。同社のインド事業は、リモートセンシングによる農地検出により各農民の収量を予想し、この情報を金融機関に提供することによって農家が適切な時期に金融機関から融資を受けることを可能とするものである。
また、インド系のスタートアップ企業であるBigHaat社は、AIを活用したアプリで農民に適切な営農アドバイスを行い、自社のオンラインプラットフォーム上で農業資材を販売する仕組みを構築している。インドでこのようなデジタルサービスの提供が可能になったのは、Aadhaarの整備によるところが大きい。Cropin社は、リモートセンシングによる農地の画像解析技術をもとにアフリカなどのインド国外に向けてもサービスを提供している。インドのビジネスは言語や文化などの問題から州内に限られるケースが多い点も、他国と比べると特徴的である。日系のSAgri社は、例外的にインド全土をビジネスの対象としている。
【注】ベンガルールはインド・カルナータカ州の州都で、「バンガロール」とも呼ばれる。伝統的にIT系のスタートアップ企業が集積しており、世界のIT企業の下請けから、現在はインド国内のみならず、海外にもサービスを提供するような企業が出現している。ベンガルール以外にも、インドの首都であるデリー首都圏、テランガーナ州の州都ハイデラバード、マハーラーシュトラ州の州都ムンバイなど、インド各地に複数のIT系スタートアップ企業のハブ地域が形成されている。
⑤ナイジェリア(西アフリカ、英語圏)
ナイジェリアでは農業分野のデジタルサービスを提供するスタートアップ企業が複数出現している。農業機械の賃耕をスマートフォンで提供するサービスや、小規模農家への農業アドバイスサービス、金融システムの外に置かれている農家に対するマイクロファイナンスサービスなどが存在する。ただし、他のアフリカ諸国同様、ナイジェリアも農民の識字率の低さや、農民が金融口座を持たないなどの課題が存在しており、これらの課題とデジタル技術のサービスをどのように組み合わせていくかが重要と考えられる。
⑥その他
以下の4か国は、2020年に実施されたJICA調査の報告書を要約したものである。
ブラジル(中南米)
ブラジルでは、政府機関が農業DX化を進めている。大規模農業が多いことから、広大な農地への精密農業導入としてリモートセンシングやIoTソリューションの導入の方向に向かっている。ただし、国土が広大なことから通信環境が良くない地域も多く、その点が課題となっている。
コロンビア(中南米)
付加価値の高い花き栽培の一部でデジタル技術の導入が開始されている。JICAが実施したSATREPSプロジェクトで、コメ栽培にソフトバンク社のIoT農業機器「e-Kakashi」が導入されており、SATREPSプロジェクトの終了後も現地の稲生産者連合会(FEDEARROZ)が利用を継続している。
ケニア(東アフリカ、英語圏)
政府がDXを推進しており、研究セクターでも農業関連のDX技術の開発が進んでいる。ただし、小規模農家の大半で機械化が進んでいないことや、投入材が不足していること、ICTリテラシーが低いことなどの課題がある。なお、ケニアは携帯電話による電子送金システム(M-PESA)をアフリカで初めて導入した国であり、今後のデジタル技術の発展が期待される。
コートジボワール(西アフリカ、仏語圏)
農民の識字率が3割程度にとどまるため、スマートフォンの利用も困難な状況である。また、多くの農家は銀行口座を持っていないため、現金取引を行っている。民間のデジタルサービスはようやく出始めたばかりというところである。
5 農業分野におけるデジタル化の課題
農産物のバリューチェーン全体では、デジタル化と親和性のある分野(農民融資、生産、流通)と加工・保管、輸送・流通のように、親和性が高くない分野が存在する。また、アフリカ諸国に顕著な現象であるが、2010年代以降のデジタル化の流れがあまりにも急激であるため、基本的な営農技術の指導や、灌漑施設などの農業インフラの整備よりもデジタル化のみが進行している点が特徴である。さらに、農民の組織化の状況が各国で異なるため、営農規模に合わせてデジタル化のアプローチが大きく変わってくることになる。
サービス内容にもよるが、デジタル化にはどうしてもそれなりのコストがかかる。そのため、開発途上国ではコスト回収の問題によって農業DXサービスの事業の継続が困難になったスタートアップ企業や、政府機関の予算が尽きたために中止された農業DX事業の存在も確認している。世界的に見て、農業分野は全般的に多くのコストが掛けられないため、デジタルサービスのコスト負担や回収方法を検討する必要がある。
6 おわりに
グローバルなDX化の流れは、特に開発途上国において急激かつ不可逆な現象である。そのため、今後の農業農村開発においては現地のデジタル化のインフラ状況、利用状況などを確認し、現地のDXの進捗状況を十分確認しつつ、既往の農村開発の手法と適切に組み合わせて、現地の農業発展に資する手法を検討する必要がある。
それにしても政府がデジタル田園都市国家構想とか掲げて笛を吹けども一向にDX化が進まない日本に対して、インドやインドネシア等のDX化の進展には驚くべきものがある。もはや日本はDX後進国といっても過言でない。私は、ここで紹介したタイやインドネシアの起業家を含む多くの若者を学生時代から知っているが、彼らは学生の頃から「農業×IT」に関心を持っていた。なぜ日本ではそうした起業家が生まれないのだろうか。日本の閉そく感から脱却するためには日本の社会や教育システムそのものを見なおす必要があるような気がする。
「東南アジア・インドにおけるスタートアップ投資の現状と日本企業への提言」
https://www.meti.go.jp/policy/external_economy/toshi/kaigaima/image/20200525_01.pdf
http://www.iai.ga.a.u-tokyo.ac.jp/mizo/papers/ARIC128.pdf
https://www.jica.go.jp/activities/issues/agricul/jipfa/ku57pq00002kzmox-att/information_gathering_01.pdf
https://libopac.jica.go.jp/images/report/P1000044623.html
https://libopac.jica.go.jp/images/report/P1000047008.html
https://libopac.jica.go.jp/images/report/P1000049715.html
https://link.springer.com/chapter/10.1007/1-4020-8095-6_45
https://www.stoltermanbergqvist.com/post/a-new-definition-of-digital-transformation-together-with-the-digital-transformation-lab-ltd