2023.3 MARCH 67号
REPORT & NETWORK
北陸農政局 農村振興部長 渡邊 史郎
1 はじめに
エジプトはアフリカ大陸の東北端に位置し、国全体が降水量の極めて少ない乾燥地帯に属している。このような自然環境にも関わらず、古来よりエジプト文明に代表される活発な人間の活動が行われてきた。これは国を南北に流れるナイル川という水資源があったためである。エジプトの衛星写真を見ると、ナイル川両岸の狭い範囲と河口の扇型に広がった地域(ナイルデルタ)に緑があるだけで、その他は砂漠であることが分かる。この狭い区域で農業生産のみならず、人間の居住や農業以外の経済活動も行われている。「エジプトはナイルの賜物」という言葉があるが、まさにそのとおりである。
一方、生活や農業に使える土地が限られていることがエジプトの抱える課題でもある。首都カイロの慢性的な交通渋滞に代表されるように、その過密は著しい。加えて人口は依然として増え続けており、将来も増加すると見込まれている。エジプト政府は、郊外に新都市建設を進めるなど過密対策に取り組んでいるところであるが、それに劣らず重要な課題が食料の確保である。水資源の絶対量が限られているなかで、増え続ける国民にいかに安定的に食料を供給していくのか。エジプト政府は難しい課題に取り組んでいるところである。
筆者は2019年より約2年間、エジプトの水資源灌漑省(Ministry of Water Resources and Irrigation)においてJICA専門家として灌漑分野にかかる技術協力業務に従事した。本稿では、エジプトの水資源の状況や政策、食料増産に向けた課題について紹介する。
2 水資源の状況
(1) ナイル川
ナイル川はアフリカ東部の11カ国を流下する国際河川であるが、流域の降水分布が大きく南に偏っているのが特徴である。降水量が多いのは赤道付近のビクトリア湖周辺とエチオピアの高原地域であり、前者を水源とする通称白ナイルと、後者を水源とする通称青ナイルがスーダンの首都ハルツーム付近で合流して北方に流下している。合流点付近から先は乾燥地帯であり、加わる流量はほとんどない。水を消費して、細りながら地中海に流下する。
もう一つの特徴は季節的な変動である。ナイル川の流量は夏季に多くて冬季に少ない。これは夏季に青ナイル流域で発生する洪水によるものである。エジプトではこの洪水を利用した「ベイスン灌漑」が古来より行われてきた。これは、洪水をナイル川周辺の土地に引き込んで貯水し、水が引いた後の水分を含んだ土地に種を播き作物を育てる農法である。このため、洪水の到来時期やその量を知ることが重要であり、河川水位を観測する施設(ナイロメーター)がナイル川各所に設置された(写真1)。
(筆者撮影)
ナイル川の水利用は1971年に完成したアスワンハイダムによって一変する。このダムはエジプト南部のアスワン地点に建設されたものであり、夏季の洪水を巨大なダム湖(ナセル湖)に貯水する。ダムの完成によって、エジプト国内を流れるナイル川の流量を人工的にコントロールすることが可能になり、年間を通して水資源が利用できるようになった。その結果、年一作のみのベイスン灌漑は完全に姿を消し、年二作(夏季作、冬季作)を基本とする作付パターンが確立して、農業生産は増大した。図1にナイル川の水利系統の模式図を示す。アスワンハイダムから放流された水は下流の堰(Barrage)で取水され農地に配水されている。
(図中の数字は年間流量(単位:10億トン))
一方、ダム建設に伴い新たな問題も発生した。エジプトのように雨のない乾燥地域において灌漑だけ行うと、灌漑水や土中に含まれている塩分が水が蒸発した後に地表に残って塩害を引き起こす。ベイスン灌漑の時代は、地表の塩分は夏季の洪水によって流され、農地に蓄積していくことはなかったが、洪水がなくなったことにより塩害が発生するようになったのである。この問題に対処するため、排水施設の整備が国家プロジェクトとして実施された。これは、農地の中に有孔の排水管(暗渠)を入れて地下水の上昇を抑制するものであり、暗渠の敷設や暗渠からの排水を受ける排水路の整備などが行われた。このように、エジプトにおいては灌漑だけでなく排水も重要であり、水資源灌漑省には排水対策を所管する専門の部局(排水庁)が置かれている。
次に水利用の状況について説明する。少し古いデータであるが、1997年時点のナイル川の水収支を図2に示す。ナイル川からエジプトには年間555億トンの水が流れ込んでくる。これにエジプト国内の降雨を足して568億トン、これが利用できる水の総量である。一方で農業用水を含む各セクターで取水している総量はこれを上回る。これは水を反復利用していることを示している。従って、未利用のまま海まで流れていく水は基本的にはない。
水を最も消費しているのが農業セクターである。農業における消費水量とは主に蒸発散により失われる水量のことであるが、エジプトの灌漑方式は日本の水田と同じく湛水灌漑(農地に水を溜めて灌漑する方式)が基本であるため、蒸発散の量が多い。
(2) 地下水
エジプトの水資源の大部分はナイル川に依存しているが、地下水の利用も一部で行われている。ナイル川の西側に広がる砂漠地帯には地下水を含む地層(ヌビア砂岩層)があり、この地下水が自噴する場所や浅い井戸で利用できる場所がオアシスと呼ばれ、古来より人間の生活が営まれてきた。西部の砂漠地帯にはこのようなオアシスが点在している。
今は動力を使ってこの地下水をくみ上げることが可能であるので、砂漠に深い井戸を掘り、センタピポット方式で灌漑を行う企業的農業が一部で実施されている。この地下水は化石水であり、過剰使用により枯渇してしまう懸念があり、エジプト政府は慎重にその利用拡大を検討している。
3 農業生産と食料輸入
エジプトの主な農作物は、夏季作でメイズ(飼料用トウモロコシ)、コメなど、冬季作で小麦、牧草(クローバー)などである。このうちエジプト人の主食として最も重要な作物は小麦であり、アエーシと呼ばれる薄い円形のパンとして日常生活で消費されている。しかし、小麦の自給は達成されておらず、2020年の小麦の自給率は41%に過ぎない1。そして、エジプトは世界最大の小麦輸入国の一つとなっている(図3)。
輸入先としては、ウクライナ、ロシアに多くの量(70~80%程度2)を頼っているとされている。ウクライナ危機の勃発により、今後、両国からの小麦の安定的な輸入は不透明な情勢になったと言わざるを得ないだろう。エジプトの新聞情報によれば、エジプト政府は調達国の多角化や貯蔵施設(サイロ)の増設に取り組んでいるとのことである。
小麦価格の高騰も気になるところである。エジプト政府は補助金を出して国民の基本食であるアエーシの価格を低く抑えているが、今後、財政負担が増大することが懸念される。今回のウクライナ危機は、国民の主食を輸入に頼らざるを得ないエジプトの脆弱性を食料安全保障という観点から改めて再確認する出来事であると言える。
4 水資源政策と近代灌漑の導入
エジプトにおいては、水資源政策は重要な国家政策であり、長期計画が策定され、定期的に更新されている。直近の計画が国家水資源計画2037(National Water Resource Plan 2037)である。これは2037年を目標年とした2017年からの20年間の計画であり、「水の安全保障(Water Security for All)」をメインテーマとして、「目標達成に向けた環境整備(Create Enabling Environment)」、「水資源の開発(Develop Water Resources)」、「水質の改善(Enhance Water Quality)」、「水利用の合理化(Rationalize Water Use)」の4つの柱から構成されている。筆者在任中は承認手続き中であり、公表されていたのは概要のみであったが、具体的な政策については、その実施計画的な位置づけである水資源灌漑省が策定した「水資源の開発と管理に関する戦略計画2050(Water Resources Development and Management Strategy to 2050)」で確認することができる。
戦略計画2050においては、農業用水について「限られた水資源しかないことが農地の拡大を進めていく最大の課題の一つであり、農業用水の水利用の効率化を高めることが必要」であるとした上で、「基幹から末端までのすべてのレベルにおいて水の送水と分配の効率性を高めること、水の便益を最大化するため単位当たりの水から収穫される農作物を増大させること、フードギャップ(国内消費量と国内生産量とのギャップ)を減少させることを目的として取り組む」としている。そして、具体的政策として、
・近代灌漑の導入など灌漑方式の近代化
・干ばつや塩害に強い新品種や栽培期間が短い新品種の育成
・消費水量が多い作物(コメ)の栽培抑制と水消費の少ない作物栽培の奨励
・排水再利用のさらなる促進
・水利組合による灌漑と節水の重要性についての農家に対する教育プログラムの実施
等が示されている。
このうち、エジプト政府が特に力を入れて取り組んでいるのが近代灌漑である。エジプトにおける近代灌漑とは、点滴灌漑やスプリンクラー灌漑などの消費水量の小さい灌漑方式のことを指すが、エジプト政府は、新たに水を引いて開発する農地(New Landと呼んでいる)においては、近代灌漑を義務的に導入させるとともに、従来からの農地(Old Land)においても湛水灌漑から近代灌漑に切り替えていこうとしている。
しかしながらOld Landにおける近代灌漑の導入は、なかなか進んでおらず、特にデルタ地域においてはほとんど導入されていないのが現状である。その要因としては、近代灌漑に要する新たな設備投資が農家の負担になること、用排水路等の水利施設の構造が近代灌漑に適合していないことに加えて、重粘土地帯であるデルタにおいては、近代灌漑が塩害を引き起こしてしまう恐れがあることも挙げられる。また、近代灌漑にかかる技術的な研究や普及の体制整備も緒に就いたばかりである。
筆者は、水資源灌漑省傘下の水管理研究所(Water Management Research Institute)と協力してデルタにおける点滴灌漑の栽培試験を実施した。1年間という短期間の試験であったため、その適否を判断するまでに至っていないが、品目によっては湛水灌漑並みの収量が得られた一方で塩類の集積も観測された。今後、同研究所において研究成果をさらに蓄積していくことを期待している。また、試行的に近代灌漑にかかる水資源灌漑省職員に対する研修も実施した。
5 おわりに
繰り返しになるが、エジプトにおける農業の制約条件は水である。温暖で日照があり、降水量が少ないエジプトの気候は作物栽培に最適であり、単収も高い。水さえあれば砂漠は優良農地に生まれ変わる。ただし「水さえあれば」である。エジプトの食料問題は水問題であるといっても過言ではない。
このようななか、水資源を巡る新たな国際問題がおきている。青ナイルにおいてエチオピアが建設したグレート・エチオピアン・ルネサンスダム(GERD)問題である。このダムは発電用のダムであり、水を消費してしまうものではないが、ナイル川上流のこのダム建設に対して、下流国のエジプトとスーダンは強く反発している。両国は、ダムへの最初の貯水と貯水後のダムの操作方法について、3カ国間で拘束力を持つ国際約束を締結すべきだと主張しているが、エチオピアはそれを国の主権を侵害するものであるとして拒否している。3年前にはダムへの貯水も開始され、エジプトとスーダンの要請により、国連安全保障理事会で協議される事態にまでエスカレートしている。この問題が円満に解決できるかどうかまだ不透明な状況である。
日本は長年にわたりエジプトに対する灌漑分野協力を実施してきた。この分野は息の長い協力が必要である。今後とも灌漑分野の協力を続け、エジプトの食料安全保障と地域の安定に貢献していくことが求められていると考える。
新聞記事としては、例えば, ahram online; What the future holds for Egypt’s wheat supply amid global food crisis (23 May 2022)