用水の体積当たり課金制度の有効性を左右する諸条件
中村・水と農研究所 代表 中村良太
1. はじめに
ARDEC編集部から、Water Pricing について書くようにとの依頼である。Water Pricing といっても、今回はとくに、水の体積(たとえば1 立方メートル)当たりの課金制度(以下、WPと略記)に、話を限ることとする。以下ここでは、第一段で、準備としてWPの最近までの国際的な論調を概観し、第二段においては、灌漑の地域差について気候的要素から考察し、第三段において、それらの条件が農業用水のWPとどのように関連するかについて、最後に、この関連の無理解から生じる問題について論じる。
2. 国際的なWPに関する議論の動向
(1) 「体積当たり課金」論の歴史
ここ十数年来、ウォーター・ポリシー(水政策)の分野の議論が、とくに盛んに行われるようになってきた。1つには、世界的な水資源の逼迫から、資源の配分問題などの政策論の重要性が増してきていることによるであろう。WP も、そのウォーター・ポリシーのなかに含まれる1項目である。
いうまでもなく、昔から世間一般の認識として、「農業が水を無駄使いしている」という考えがある。それが「体積当たり幾ら」ということで課金するようにすれば、用水の無駄使いが減少するという考えに結び付く。
筆者の推測であるが、この考えは1 9 5 0 年代後半にすでにあった。当時、日本は愛知用水の建設に当たって世界銀行(世銀)の融資を受けたが、その折、世銀から、水の体積による課金をするようにとの指導があったようである。農水省において、それに関しての委員会が設置され、種々の議論がなされたが、結果的に、そのままの形では採用されていない。これは、筆者が、当時委員長であった東京大学の福田仁志先生の書類の整理を行ったとき、その記録があったことを記憶していることによる。これは、5 0 年も以前の話であるが、その後も、世銀などは長きにわたり、この「体積当たりによる課金制度」を世界中で勧め続けてきていた。
その後の時代、水政策に関する議論は、世銀、アジア開発銀行、OECDなどの国際機関でもっぱら行われていた。しかし、1 9 9 0 年代に至って、世界経済の膨張から、世界的に水資源の不足感を認識する場面が多くなり、国連を含む国際的な場で広くウォーター・ポリシーが論じられ始めた。その第一が、9 2 年にダブリンで行われた国連の「水と環境に関する国際会議」である。この会議では、水に関して急進的なアイデアがまとめられ、水の量に関して課金するべきことが、強く主張されている。
(2) 「体積当たり課金」論の隆盛
1 9 9 6 年は、ウォーター・ポリシー関係者にとって、記憶すべき年である。すなわち、この年には、既存のほとんどすべての水の専門分野(セクター)をまとめる2つの大きな組織、世界水会議(WWC)と世界水パートナーシップ(GWP)が生まれた。これらの2つの組織などにおいて、ウォーター・ポリシーが盛んに議論されるようになり、ウォーター・ポリシーの議論の中心は、世銀などの国際機関からこれらの組織に移って、いままでより広く一般に開かれるようになった。とくに、WWCによって3年に1度開催される世界水フォーラム(WWF) は、すべての水関係者を数千あるいは数万人と一堂に集める、大きな行事になっている。
WWFのなかで、WPがもっとも盛んに論じられたのは、2 0 0 0 年にオランダで開かれた第2 回フォーラムである。このとき、オランダは、水を経済財として扱うべきことを、会議の主要成果として打ち出そうとした。すなわち、経済学的にいえば、財には自由財と経済財の2通りの財があり、自由財とは、空気のように無限に存在し、ある1人の財の使用が他の人の財の使用に影響を及ぼさないものである。水も以前はこの自由財であったが、水資源が不足して、使用に限界が生じるようになると、かつてのような自由な水使用はできなくなり、したがって、水は経済財(とくにWP)とするべきであるという考えが出てくる。WPにすべきとの議論は、この時代がもっとも盛んであった。
WWFには、一般人が参加するフォーラムに併設して、世界の水関係の大臣が参加する「閣僚級会議(Ministerial Meeting)」が開かれる。第2回フォーラムでは事前に配布される閣僚級会議の合意文書原案において、色濃くこのWP 論が書かれていたと記憶している。しかし、実際の会議になってみると、反対する参加者が多く、その大部分は削除されることになった。ここから、WPに関する議論の退潮が始まったように思われる。
(3) 「体積当たり課金」論の退潮
2 0 0 0 年に至り、国連において発表されたミレニアム開発目標(MDG)では、「1 5 年までに、世界で不幸な状態にある人々の数を半減させること」が目標とされた。それ以来、水に関する国際援助の目標は、すべてこのいわば水の安全保障に力点が置かれるようになってきた。世界で不幸な状態にある人々といえば、もっとも貧しい人々であり、その人々に対して、「水に課金をする」のは誰が見ても適切ではない。むしろ、水は一種のコモンズであるという論調が強くなって、一連の国際会議ではそのように論じられるようになっている。しかし、一方では用水のコスト・リカバリーの重要性も増してきており、経済派とコモンズ派の論争は、依然として国際会議でも、大きな底流としての問題点の1つである。
3. WP採用の可能性に関連する農業用水の操作
(1) 日本などの比較的湿潤な地帯における一般的な操作
近代の一般的な農業用水では、河川の上流部にあるダムから河川に放流された水が、頭首工から長い水路に導かれる。ダムから放流された水が受益地まで到達するには、日本の用水の場合でも、ほぼ1日前後の時間を要することがある。外国の大型の用水の場合、到達時間は数日以上に及ぶことも多い。
灌漑が主目的となっているダムの場合、ダムの放流操作者としては、下流の農業用水の必要とする水量を正確に放流したい。従って、ダムでは、到達時間だけ先の必要水量を、前もって推定して放流する必要がある。しかし、下流の受益地での必要量は、天候に従って時々刻々に変化する。ダムの操作者としては、水が不足して苦情を受ける事態は避けたく、どちらかというと、予測不可能な部分については、やや多めに放流することになりやすく、結果的に取水されなければ、無効放流になる。これは相当に大きい量である
このタイプの無効放流を防ぐのに一番よい方法は、下流の水路の後半に調整池を設置することである。上流部分において、予想に反して時々に取水されなかった余分の水はその調整池で受けておき、それをそこから下流の受益地で用いることができるからである。かつて、湯川清光氏は、愛知用水の東郷調整池から下流部分の幹線水路について、このような事情を明らかにした。用水の建設当時(最初は幹線最下流の知多調整池は設置されていなかった)は、先の原因による送水ロスが相当に大きかった(有効率7 0%前後)が、昭和4 1 年( 1 9 6 6 年)に幹線最下流の知多調整池が運用を開始して以来、劇的に送水ロスが減少し、有効率9 0%以上となったことを示したのである(表1)[湯川清光、愛知用水管理損失の研究 IV 、農土論集、No.41、1972, p42-48〕。
表1 愛知用水幹線水路(東郷調整池より下流部分)の送水有効率
注意すべきは、湿潤および半湿潤地域の場合、降雨の用水路の途中への流入も相当量あることである。筆者は、かつて1 9 8 0 年ごろ、豊川用水の管理所を視察の折、偶然に、台風の直撃の最中に遭遇した。もちろん、豊川用水の幹線の入り口のゲートは全閉してあっても、水路途中からの流入によって幹線水路の流量は増え続ける。管理所では、その水を、支線あるいは放流口に流して幹線水路の越流決壊を防ぎたいところである。そこで管理所の職員は、各支線などに必死で電話連絡して放流の了解を取ろうとするが、支線や下流の側でも水はすでにあふれかけており、なかなか受け入れてもらえなく、たいへんな苦労をされていた。WPの関連でいえば、無理に引き取ってもらった水に対して、課金をすることができないのは、いうまでもない。
(2) 乾燥地帯の操作
上述のような、ダムの放流操作について、私がさらに理論化する研究したのは、1 9 7 0 年代初めである。当時、私の知識の範囲は東南アジアまでで、乾燥地の操作については、知るよしもないままに、操作の論理の基本はどこでも同じであろうと、かなり自信を持っていた。
ところが、1 9 8 0 年に至って、アメリカで有名なカリフォルニア・ウォーターで、その考えを覆さざるをえないような経験をすることになった。カリフォルニア・ウォーターの中流部(マーセド土地改良区)で1週間ほど留まって、用水を視察した時のことである。そこのカリフォルニア・ウォーターの水路の近くに、適当な大きさの池があった。愛知用水の中間に設けられた調整池と、ほとんど同じような位置である。
カリフォルニア・ウォーターの送水ロスをなくすために、さぞかし大いに活用されているものと思って聞いてみると、案に相違して、レクリエーション以外にはまったく使われていない。どうして使わないのかと、不思議に思っていろいろ質問をしてみて、次のような事が分かった。カリフォルニア・ウォーターの幹線水路では、日本の場合とまったく異なって、水位は常にほとんど同じに保たれ、年間でも、ほぼ数センチしか変化しない。それで、流量の変動分を貯留して送水ロスを減らすために調整池が有効であるという私の予想は、完全に当てはまらなかったのであった。
後日、州都サクラメントにあるカリフォルニア・ウォーターの総合操作センターを訪ねたが、この総合操作センターでは、コンピューター制御により、水路の水位の実に細やかな調整を行っていた。それを可能にするのはコンピューター制御のためだけでなく、より重要な要因は、カリフォルニアの降雨の特性であった。以下、それについて述べる。
(3) 乾燥地カリフォルニアの降雨特性
カリフォルニアの中部および南部の乾燥地域は、いわゆる地中海型の気候で、夏場、とくに5.9月は極めて雨量が少なく、平均でも毎月平均1 0mm にはとても届かない(表2)。
表2 サンフランシスコにおける月雨量( 1 9 7 0 年〜9 7 年の平均)
さらに、私見であるが、乾燥地域の降雨は、湿潤地域の降雨パターンから毎月に降る小降雨を取り去り、豪雨のみを残したような、特殊な降雨パターンを示す。すなわち、いったん降るとなるとかなりの降雨になり、それ以外の年には、何年にもわたって、まったく降らない。
筆者は年雨量1 0 0mm の砂漠の都市ラスベガスで、数十mm の大降雨による洪水に遭ったことがあり、またサハラ砂漠南縁のマリで、「先頃、3 0 年ぶりに雨、それも大雨が降った」という後に行ったことがある。パキスタンの砂漠でも、同様の経験をした。よく聞く、「砂漠に水の流れた跡があるのを見た」というのは、この現象の結果である。表2で平均で月に5.5mm といっても、毎年5mm 程度が降るわけではない。すなわち、カリフォルニアの灌漑期間中にはまったく雨が降らない、といっても過言ではない。
4. 農業用水の操作のWP適用可能性の関係
湿潤地域と乾燥地域の降雨特性を比べると、操作条件の違いは明らかである。乾燥地域で、まったく雨が降らないと分かっていれば、農家の方も、その期の初めから必要量は予測できる。また、ダムから放流する方も、予定を立てて、その通りに必要量を放流すると、その通り正確に(少量の浸透など一定の損失はともかくとして)受益地に届く。まったく、途中での天候の変化、あるいは降雨による攪乱はない。総じて、湿潤地域の配水が「随時的」であるのに比べて、乾燥地域の配水はすべて計画が優先し、「計画的」である。先に述べたカリフォルニア・ウォーターの操作センターで話を聞くにつけ、これは、ダムの水を計量桝で1杯、2杯と計りながら受益地に水を与えるのと、まったく同じ正確さで配水している、という実感を強く受けた。
なお、多少の臨時の水使用の増減はカリフォルニア・ウォーターでもやはりあるが、それには水路内の貯留を使って微妙に対応している。配水が計画支配的であるのについては、ダムが大型で貯水が1 0 年などにわたる経年貯留ダムである事情も関係しているが、これらについてはここでは省略する。
カリフォルニアは、本誌他項「カリフォルニアの水管理」で示されるように、昔からWPが盛んであり、水銀行(Water Bank)制度の発祥の地である。先に述べたように、計量桝で計って配るのと同じであれば、それに課金するようにはなりやすいはずである。
5. WP適用条件の無理解から生じる誤解と不都合
「農業用水にWPを適用すればよい」という考えが生じやすい、もう1つの要素として、上水道との混同がある。すなわち、上水道は(途中で汚れた水が流入しては困るので)すべて管水路である。管水路では、末端でバルブを閉めれば、その影響は、瞬時に上流の流入部にフィードバックされ、末端で使う量以上の水は水路に入らない。漏水を除けば、無効放流はゼロである。農業用水の開水路では、いったんダムから放流してしまえば、その水を元にもどすことはできなく、取水されなければ下流に流れてロスとなる。また、開水路の場合、量水施設を設置するのが比較的困難である。これらの認識がないと、簡単に、水道と同じに農業用水にもWPを適用すればよい、ということになりやすい。
湿潤および半湿潤地域では、降雨の少ない時期においても、多少の降雨が頻繁にあることが多い。先に述べたように、もっとも整備された豊川用水でさえ、降雨の水路への流入がある。まして、自然河川の一部分を水路としてそれを堰上げて取水しているような、旧来からよくある形の用水では、降雨の流入は避けられない。その場合、末端に過剰な水を受け取ってもらわなければならない事態が生じる。こうした不要で過剰な水に対しては、同じような課金はできない。
このような湿潤地域の状態において、課金制度を強要するとどうなるか。タイにおいては、2 0 0 0 年にアジア開発銀行の政策に反対する大きなデモがあり、警官隊と衝突して逮捕者を出した。そのなかの主要な主張は農業用水に対する課金への反対であった〔www.nadir.org/nadir/initiativ/agp/free/adb/protests.htm (27 Sept.2009)〕。また、筆者は、かつてタイを訪問した際、農業用水に課金をしようとしたタイ政府職員が、農民に「政府は降ってきた雨水に金を取ろうとしている」、と笑われたといっていたのを思い出す。
6. 結 論
先に述べたように、水を経済財とするか、そうではなくて一種のコモンズと考える安全保障の立場を取るかは、現在も依然として水に関する国際世論を2分する大きな問題である。筆者が国際会議の場で、この件の議論に遭遇したとき、発言をしているのは、以下のような事である。
「水資源というのは、その量の多少によって財としての性格が変化する。無尽蔵にたくさんあれば自由財であるが、若干なりとも限界がみえてくれば、時として経済財になるであろう。しかし、さらに少なくなって、干ばつによって死者が出るような極端な水不足の場合( 1 9 8 4 年頃のアフリカ東部の干ばつでは、死者は100万人に及んだ) にまで、経済的な原則を持ち込めば、貧乏人の子供は死に、金持ちの子供は生き延びる結果となるのは明らかである。経済原則を持ち込むことの限界だけは、明確にしておく必要がある」と。この発言に対しては、会場で賛同の意を表してくれる人も多い。
その中間程度の水資源の窮乏領域について、経済学の専門家のいうところの「水は経済財である」という見解に対しては、総論としてそれを否定するものではない。しかし、それを実際に行おうとしたとき、具体的なあるいは物理的な「可能、不可能を分ける条件」がある。それを無視して、世界一律にWPを適用しようとすることにより、さまざまな不都合を生じる。先に述べた気候条件は、その物理的条件の一例として仮説的に示したもので、さらに検討を深める必要がある。私たちはエンジニアの立場から、「体積課金」の適用を可能あるいは不可能とする具体的条件をさらに明らかにして、5 0 年来の議論に決着を付けるべきであろう。 |