エチオピアにおける農民祭と一村一品の取組み
農林水産省 関東農政局整備部 次長(前エチオピア派遣JICA専門家) 八木正広
1.農民祭を立ち上げるまで
農民祭実施のきっかけは当地で活動するNGOの笹川アフリカ協会から、「エチオピアにはアジス・アベバまで出回っていないけれども、地域固有の良い農産品がいろいろあるので、それらのプロモーションのためにJICA後援ブースとして、アジス・アベバ市内の大手スーパーに展示スペースを設けるようなことができないだろうか?」との相談を受けたことである。「良い農産品がいろいろあるのに、単にプロモーションの機会がないだけなら」と、すぐに思い浮かんだのが130年間続いて、ますます盛んになっている秋田県の「種苗交換会」であった。
写真1 エチオピアの農家の住居
写真2 エチオピアの農耕風景
「種苗交換会」は、「展示会(優れた種苗、農産品、農業技術/機械)」、「優れた農産品を生産した農民の表彰式」、「農民と行政や関係団体との意見交換会」の3部構成になっている(写真3)。130年前の発足の経緯は、かぎられた古老だけが優良種苗を所有していて、一般農民は低収量に悩んでいた状況を打開するために県当局が「種苗交換会」を開催して、入札でそれを必要とする農民に広く提供し、もって県全体の農業振興と農民が大多数を占める県民の所得向上を図ることにあった。当初は、その名のとおり種苗の入札による交換だけの会であったが、年々盛んになり、上記のような構成に拡大して、現在に至っている。開催期間1週間で集客数は県人口を上回る百数十万人になることもあり、日本で最大規模の農業の祭典である。
写真3 秋田県の種苗交換会
日本の農業の発展はもちろん個々の農業技術によるものだが、それを根幹で支えていたものがこのような農業の祭典で、全国各地に大なり小なり存在していた。その心は、「来年は今年より、良くなりたい」という農民の切実な思いである。「農民の生活が、今年より来年が良くなるにはどうしたらよいか?」―優良な種苗や種子を導入するか優れた農業技術を導入するしか、他に手段はないのである。
明治、大正、昭和、平成という4つの年号をまたぐ130年の間に、秋田県も激動の時代を過ごしてきた。昭和恐慌の洗礼も受けたし、第二次大戦での空襲で焼け野原になる経験もしたが、県民は何が起こってもこの 「種苗交換会」だけは、1回たりとも休止することはなかった。なぜか? これを休止すれば、来年の自らの発展はないからである。「種苗交換会」は日本の農業発展の根幹であり、私はこれがエチオピアに定着すれば、日本の農業技術の土台を、精神も含めて、丸ごと技術移転できると考えた。
しかし、単に日本に「種苗交換会」のような例があるからといって、それをエチオピアで実施する理由にはならない。2003年に策定されたエチオピアの基本政策である「農業開発に牽引された産業化(ADLI: Agricultural Development-Led Industrialization)」は、一言でいえば「自給農民を商業農民に変革し、農産物輸出を拡大して、農民所得の向上を実現する」というものである。しかし、「輸出を増やそうと思えば、その前に国内販売をまず拡大する必要があるが、その施策が不足していること」および「政府はADLIの成果を主張するが、それが具体的に見えないため、国民のADLIに対する求心力も形成されず、ドナーたちから総スカンを食う事態になっていること(私は日本の発展過程はADLIでありADLIが正しいと認識しているが、ドナーたちはADLIは逆で『産業化に牽引された農業開発』が正しいと主張している)」から、政府が主張している農民たちの成果を一堂に集めて、国民に示し、ADLIへの求心力を強化することをコンセプトとし、その手段として秋田県の「種苗交換会」の方式を採用することにした。
パワーポイントで15ページのコンセプトペーパーを、配属先の農業農村開発省の副大臣に説明した。時間は10分。副大臣は即座に「日本の農業発展のエッセンスがわかった。大臣(兼副首相)には、自分が説明して了解を取るので進めてくれ」と言った。即断に驚かされたが、JICA、日本政府の面子にかけて失敗は許されない事態となり、以後、半年間はこの実現に専念した。
(1)第1回農民祭(2006年12月開催)
4日間にわたる第1回農民祭(開催地はアムハラ州都のバハルダール)は首相、副首相が参加する大規模なイベントとなり、マスコミにも連日大々的に報道され、展示会の集客数も多かった(写真4)。首相は「毎年の恒例行事として、場所を変えて開催する」と宣言したので、1県と1国のちがいはあるにせよ、図らずも秋田県と同じ巡回方式となった。構成は、「種苗交換会」に準じて「展示会(政府農業研究機関の研究成果、農産品、農業技術/機械)」、「モデル農民の表彰式」、「セミナーおよび農民意見交換会」の3部となったが、根本的に「種苗交換会」とは異なるねじれをはらんでいた。
写真4 メレス首相(中央)によるモデル農民表彰式(第1回農民祭)
「種苗交換会」では展示会に出展農産品から審査により優良な生産者を表彰し、それら生産者と県当局が意見交換をするもので、構成3部がすべて連関している。しかし、農民祭の「モデル農民の表彰式」は展示会とは無関係に、首相府の指示のもとに各州が選定した農民であった。首相府の意図は農民層の支持基盤の拡大であり、副大臣から大臣(副首相)に上げられた本企画が首相府の意図にタイミングよく合致したということであろう。当国では行政組織末端の郡、村の長は与党関係者のポストで、村ごとに設置されている農業普及のための農民訓練センターも選挙時には政治集会に使われており、選定基準である「大きな農業所得を上げ、地域の模範となっているモデル農民」も純粋にそれだけではないように思われた。
第1回農民祭の反省点としては、本来意図していた「農民の成果の展示」が少なかったことである。農民は他の農民の成果に極めて敏感で、同じ農民がやっていることなので、自分にも「できる」という思いが強い。農民にそのような刺激を与え、切磋琢磨を促すことが農民祭の最大の目的であったので、それが少なかったのは残念であったが、初めての開催としては止むを得ないと評価した。回数を重ねれば、必ず秋田県のように改善され、発展していくと考えていた。なお、「セミナー」の部でJICAは農業農村開発省副大臣をモデレーター、一村一品視察研修でタイ国へ派遣した研修生たちをプレゼンターとする一村一品セミナーを開催した。このセミナーもTV、ラジオで大きく報道され、「一村一品」の名が一気に全国普及するなど効果は大きかった(写真5)。
写真5 JICA主催の一村一品セミナー(第1回農民祭)
(2)第2回農民祭(2008年1月開催)
第2回農民祭(開催地は南部州都のアワサ)の開催と運営はエチオピア政府だけで実施するようになり、JICAとしての技術移転は終了した。しかし、第1回目は連邦政府各省庁が一丸となって推進したので力が入っていたが、第2回目は農業農村開発省が南部州政府に実施を丸投げしたため、南部州政府はおそらく祭の主旨もよく理解できないまま、第1回目の経験も引き継がないまま開催することになった。
とくに展示会については、第1回目よりもさらに「農民の成果の展示」が少なくなり、政府農業関係機関の成果(主にグラフと写真)の展示が主体の内容となった。政府農業関係機関はよほど自分たちの活動成果をPRしたいようであるが、農民にとっては「他の優れた農民がどのような種苗、技術を使って、どのような生産物を作っているか」に興味があるのであって、政府農業関係機関の活動成果など、何の魅力もないことがわかっていないようである。運営面でも広報活動が全く行われておらず、開催地のアワサ市民でさえ、何が行われているか知らない状況であった。
そうしたなかにあって、JICAの一村一品展示は農民自らの活動紹介で、かつ実演、試食、販売を伴っていたので一般観客にとっても楽しく学べる、魅力的な展示であったと思っている。アワサの祭実行委員は開催前には「資金的な貢献もしないで、これだけ大きな展示スペースを使用しているのはJICAだけだ」と非難したが、開催後は「JICAが参加してくれて助かった。JICAが参加していなかったら、あまりの不人気に責任問題が発生していたところだった」と正直な感想を語ってくれた(写真6)。
写真6 JICA一村一品(コメ製品)の展示販売風景(第2回農民祭)
第3回以降も一村一品普及、および祭を盛り上げる観点から参画して行く方針ではあるが、第2回目のような明確なコンセプトもない政府農業関係機関の成果展示会であれば開催意義は乏しく、早くも開催中止が懸念される状況となっている。農業農村開発省の祭責任者には、以下を提言したが、第3回目(2009年2月)の盛況を期待したい。
・開催地周辺に住む優良農民の成果の展示(参加のための農民への資金補助)
・ドナー支援農民の成果の展示(ドナー資金による展示会参加)
2.一村一品について
JICAとして一村一品のアフリカへの普及に力を入れていることもあって、創始者である平松元大分県知事の講演も含めて、一村一品についての理解を深める機会には恵まれた。自分なりに理解するところでは、一村一品とは突きつめると、「失敗は成功の母」+「継続は力なり」の農村コミュニティ版のことである。失敗しても、その教訓を学んで、改善を続ければ、いつかは成功に至ることができよう。成功に至るまで、「チャレンジ(challenging spirit)」、「改革(innovative mind)」、「自立(self-resiliance)」の精神をもって継続しようということである。一言でいえば「あきらめない!(Never give up!)」である。
大分県の一村一品運動は高度経済成長期の終わりに生じた都市と農村の大きな経済的格差を埋めて、農村に自信と活力を持たせる方策として生まれた。しかし、当時の農村住民は経済的に劣位ではあっても、「日本総中流階級」という言葉が生まれたように、農村部でも衣食住は一定水準に達しており、失敗してもリベンジできるだけの経済力も学力も有していた。一方、エチオピアの農村住民に一定レベルの経済力も学力も、現時点ではあるとは思われない。小規模な投資でも失敗して、リベンジできる経済力、学力があるとも思われない。大分県が資金的な支援をせずに済んだのも、県民にすでに経済力があったからである。
このように考えてくると大分県で生まれた本来の一村一品運動は、日本のように住民が一定レベルの経済力も学力も獲得した場合に初めて実現できるのではないだろうか。発展途上国のように、住民が経済力も学力も獲得していない場合は「支援」が前提であり、最初から「自立」ではあり得ず、同じ「一村一品」という言葉を使っても、大分県の一村一品とは似て非なるものにしかならないのであろう。
さて、農民祭は上記のとおり一村一品的な優良農産品のプロモーションを目的として開催したが、JICAとしては第1回農民祭での「一村一品セミナー」の開催、第2回農民祭での「一村一品展示」で一村一品自体のプロモーションも行ってきた。
第2回農民祭の「一村一品展示」では、エチオピアで活動中の技術協力プロジェクトの専門家、青年海外協力隊員、およびNGOの協力を得て試行的に開発した複数の農産品の展示、実演、試食、販売を行った。そのなかで、青年海外協力隊員が取り組んだ干し魚製作について紹介する。
写真7 ナイル川源流のタナ湖と漁船とペリカン
3.青年海外協力隊員の干し魚作り
バハルダール大学配属の協力隊員(指導分野:コンピュータ)が地元漁協とテラピアの干し魚を開発することになった(写真7)。活動は、あくまで本務に支障のない範囲内である。製品は隊員の知恵とアイデアでスムースに開発できた(写真8、9)。農民祭という1回限りの展示販売では、もの珍しさもあって製造した製品は完売でき、漁協組合員の意気は上がった。しかし、タナ湖に隣接したバハルダールは新鮮な生魚が豊富で安い。干し魚は加工に材料費、労賃がかかるうえに、量も乾燥して小さくなるので住民には割高感が強く、地元での販売は全く不調であった。また、もともと収入も少なく生活に余裕もない漁協組合員が、自ら率先して本来の漁業活動の時間を干魚製作に回し、さらに材料費になけなしの資金を投資するかといえば、決してそうではなく、「自らのビジネス」という意識が育つには至っていない。
写真8 タナ湖畔の干し魚製造所
写真9 干し魚(製品)
干し魚は在留邦人の間では好評であったが、船の燃料代の高騰で魚の価格も上がり、テラピアでは販売価格が高くなって割高感がいっそう強まるため、原料をテラピアから身が大きく単価が安いコイに切り替えて、販売価格の上昇を抑えた。原料切り替えに合わせて、当初のエチオピア製唐辛子味に加えて、和風照り焼き味とニンニク味を追加し、味付けの種類を増やす工夫をした。
首都アジス・アベバでの委託販売を請負う代理店と交渉を行い、いざ契約締結という段階で、6〜9月の雨期にあっては、製品にわずか2週間でカビが発生することが明らかとなった。テラピア干し魚の製造開始は乾期の初めであったため、雨期のカビ問題は想定していなかった。製品ラベルには消費期限を6か月と表示していたが、不正表示となるだけでなく、一般に販売した場合に食品災害を起こしかねない事態となり、雨期の製造は中止するとともに、代理店契約はいったん白紙に戻すことになった。
そうこうしているうちに、タナ湖の漁獲量の減少が著しくなって、漁協は休漁を決定し、干し魚製造再開のめどが立たないまま、現在に至っている。これがスタートから1年間の経緯である。下に、この干し魚作りから得た教訓を整理してみる。
・製品の製造はそれほど難しくはなくても、販売は難しい。
・マーケットを開発して、安定的な販売ができないかぎり、漁協側に経営意識を醸成することは難しい。
・ビジネスでは、想定外のことは必ず発生する。
・1年間のトライアル経費はJICAが支援したが、「あきらめない!」の精神での継続を期待することには無理がある。
・漁協側の発意に基づく取組みでなかったことが、活動不調の一因であると思われる。
4.まとめ
エチオピアでは、農業農村開発省を実施機関とする一村一品技術協力プロジェクトが間もなく開始される予定である。しかし、全く新しい製品開発は干し魚の経験からも容易ではない。お金、帳簿の管理などの基礎ビジネス訓練、加工の技術訓練、原料の仕入れ、マーケッティングなど、ビジネス経験のない農民たちには難しい話であり、相当に手厚い支援の継続が必要になる。ポテンシャルの高い地域ではそれもよいのであろうが、一方で幹線道路沿いには農産物を並べて売っている農民たちが大勢いる。何の案内もないので、車で通り過ぎてしまうと、誰も戻ってまで買おうとしない。これらの農民たちをグループ化し、道路沿いに共同販売区画と駐車場、案内看板を設置する。すなわち、簡易な「道の駅」を設置するものである。エチオピアの一村一品は、こうしたところからスタートすれば、大きな失敗は少ないのではないだろうか。 |