世界食料危機に日本はどのように対処すべきか
石川県立大学 教授 辻井 博
世界の穀物輸出価格は2007年より、過去50年間の暴騰の例を大幅に超えて上昇した。小麦のシカゴ先物価格は08年3月に13ドル/ブッシェルのピークを付け、05年頭と比べ4倍、大豆のピーク価格は08年7月で15ドルとなり3.09倍、トウモロコシは同じ月に6.5ドルほどで3.25倍ほどになった。農産物貿易はアメリカの主導下に自由化されてきたので、この急騰は多くの発展途上国の国内穀物価格の急騰も引き起こした。途上国には世界人口65億のうち55億人が住むが、彼らの大部分は非常に貧しく、主として穀物からカロリーを摂取する。途上国の飢餓人口は8億人強とされているが、穀物価格の急騰は、この飢餓を悪化させ、食料安全保障を破綻させた。これは、世界食料危機であり、昨年から今年にかけて多くの途上国で食料暴動が発生した。世界穀物価格の急騰は先進国にも食料価格の上昇、インフレ、経済停滞をもたらし、とくに食料自給率が低い日本にとっては、食料安全保障上のリスクを上昇させた。
1.世界の穀物価格の急騰の発生要因
世界の穀物価格の急騰は図1に示される。第2次大戦後の世界穀物価格の3度(74年、81年、96年)の急騰は全て凶作が主要因であった。しかし、今回の穀物価格高騰の要因は凶作ではなかった。近年、世界の主要輸出国のオーストラリア、EU、ウクライナ、アメリカ、カナダ、ロシア、ベトナムにおいて穀物凶作があったが、それらは他の主要穀物輸出国の生産増で補われた。オーストラリアとEUなどの穀物凶作の最近の世界穀物価格の急騰への影響はなかったといえる。2000〜07年までの(バイオ燃料の消費を除く)世界の穀物消費量の増加は年率1.7%で生産の増加率と均衡していた。
今回の急騰の短期的要因として検討されるべきは、「アメリカでのトウモロコシ、ブラジルでのサトウキビ、EUでの菜種を原料とするバイオ燃料生産の急増」、「アメリカのサブプライム・ローン危機が引き起こした国際投機資金の商品市場への流入」、「ドル安」、「重油価格の急騰による穀物生産費と輸送費の上昇」、「BRICsの経済成長による穀物輸入の急増」、「主要穀物輸出国の輸出規制」の六つである。さらに、この急騰の背景には、より長期的な要因である、人口爆発、食肉需要の増加による飼料穀物需要の急増、農業技術進歩の停滞、耕地や水など自然資源の不足、穀物在庫率の傾向的低下といった要因がある。
これら短期的要因のいずれが重要であるかは諸説があるが、まだ解明されていない。とくに投機要因が論争の中心であり、その解明は研究と政策において重要な位置を占める。筆者は本年8月18日から、母校であるアメリカのイリノイ大学へ、これら要因の研究に行った。現在、イリノイ大学を含み、世界でこれら要因の比較研究が多くの研究者によってなされ、その成果は、世界食料危機の適切な解決に役立つことになる。以下、最近の世界の文献から、世界の食料危機の主要因と影響、そして日本の取るべき対策についてまとめてみる。
(1)バイオ燃料の影響
バイオ燃料のうち、とくにアメリカのバイオエタノール需要の急増が、その原料であるトウモロコシの需要を急増させて、世界の穀物価格を大幅に引き上げた。世界の穀物価格が急騰した2004〜07年の期間、世界のトウモロコシの増産量の70%がバイオエタノールの原料として使用され、その年増加率は36%にもなるのに対し、トウモロコシの飼料需要の年増加率は1.5%にとどまっている。2007/08年の世界のバイオエタノール生産に使用されるトウモロコシは8600万トンで、そのうちアメリカは8100万トンを占めるガリバーである。
アメリカのバイオエタノール生産が世界の食料危機の主要因となるのは、同国が世界トウモロコシ生産の三分の一、世界のトウモロコシ輸出の三分の二、そして自国のトウモロコシの2007/08年生産の25%をバイオエタノールに使用したからである。同国では連作障害対策のためトウモロコシと大豆は輪作され、それらの作付面積は2000年から06年までほぼ3000万haで均衡していた。しかし、2007年にはバイオエタノールの原料需要の急増により、大豆の作付面積がトウモロコシに変わり、トウモロコシが3500万ha、大豆が2500万ha前後となった。つまり、連作障害の危険を冒して、トウモロコシが大幅に増産されたのである。実際、9月に400kmほどの長距離視察を行ったが、大豆ではかなりの連作障害が発生していた。
バイオディーゼルは主としてEUで生産され、世界の2007年の植物油脂生産量1億3200万トンのうち860万トンがその原料として使用されたのみであった。2004〜07年の期間に、植物油脂の需要は2100万トン増加し、そのうちバイオエタノールを含む工業用需要は年15%で増加し、食用は年4.2%の増加であった。総需要に占めるバイオディーゼルを含む工業用需要のシェアは、14%から19%へと増加した。これらの状況から、世界穀物価格の急騰へのバイオディーゼルの影響はあまり大きくないといえる。
ブラジルのサトウキビは、バイオエタノールと砂糖の生産にほぼ二分される。サトウキビの生産増は十分で、2000〜07年の期間に砂糖生産を倍増させ、砂糖輸出を3倍増させた。世界の砂糖輸出に占めるブラジルのシェアは20%から40%へと拡大し、世界の砂糖価格の上昇を抑えた。ブラジルのバイオエタノールは輸出もされるが、アメリカのバイオエタノール生産量に比べると非常に少ない。こうした状況から、ブラジルのバイオエタノールの増産は世界の穀物価格の急騰には、あまり影響を与えなかったといえる。
以上から、アメリカのバイオエタノール生産の急増が世界の穀物価格急騰の大きな要因と考えられる。問題はこのバイオエタノール生産の急増が、アメリカの2005年と07年の法律に基づく補助金とバイオエタノール使用義務によることである。07年の「エネルギー独立安全保障法」の名前が示すように、エネルギー戦略のため、05年からバイオエタノール使用に補助金を出し、一方で使用義務を課して増産させてきた。08年のバイオエタノール混合業者への補助金は0.51ドル/ガロン、輸入税は0.54ドル/ガロンである。使用義務は、22年までにトウモロコシからのバイオエタノールで150億ガロンになっている。この使用義務はアメリカのバイオエタノール生産を2倍以上に増加させなければならない量で、トウモロコシの増産がこれに対応できなければ、その輸出量が激減し、世界の畜産にさらなる飼料価格の上昇という問題をもたらす。このようなアメリカのエネルギー戦略が世界の穀物価格の急騰をもたらし、「自動車の燃料」と「途上国の飢餓人口の食料」とのトレードオフという、倫理的問題を引き起こした。8億の飢餓人口を前にして、膨大な食料を燃やして自動車を走らせ、世界穀物価格の急騰を引き起こすことが許されるかということである。
バイオ燃料生産の急増は穀物価格の急騰の主な要因と考えられるが、これまでの研究ではまだ定量的に示されるには至っていない。ある論文は(ミッチェル:Michell, 2008/注1)、世界穀物価格の急騰の60〜65%がバイオ燃料生産の急増、投機、輸出制限によっており、20%がドルの減価、15〜20%は原油価格の急騰による生産費と輸送費の増加によるとしている。
(2)投機の影響
日本の商業誌、アメリカの学会と市場関係者の一部は、今回の穀物価格の急騰の主たる原因は、アメリカのサブプライム・ローン問題に起因する世界の投機資金の商品先物市場への流入によるとしている。筆者もイリノイ大学に行くまではそう考えていた。しかし、同大学の私のカウンターパートであるアーウィン博士らは、この説に真っ向から反対する論文を書き、また世界各国で投機主因説に反する研究結果が出てきているという。
(3)ドルの減価
2世紀前の貨幣数量説は、貨幣の供給量が増えれば物価水準は比例して上昇するとし、現在でも本説は基本的に成り立つ。つまり、貨幣供給量の増加が、当該貨幣価値を低下させる。ドルの他の通貨との交換価値の低下は、アメリカの物価水準の上昇をもたらすし、アメリカ経済において重要性が非常に高い原油の国際および国内価格も上昇すると考えられる。上掲の論文でミッチェルは過去の研究結果を統合して、ドル減価の穀物価格急騰に対する影響は20%程度とした。
(4)原油価格の急騰による穀物生産費と輸送費の上昇
原油価格の高騰は穀物生産費を大幅に上昇させた。前掲のミッチェルの論文では、国内生産費の上昇率は2000〜07年の期間で、アメリカの小麦、トウモロコシ、大豆において11.5%である。原油価格の急騰は穀物輸送費も上昇させ、それは生産地と輸出港の価格差から10.2%とされた。合わせると21.7%になるが、価格差には輸送費以外も含まれているので、それを除いて、15〜20%としている。
(5)BRICsの穀物輸入の急増
ブラジル、ロシア、インド、中国はその経済成長の非常な高さと人口規模から、穀物輸入も急増してきたと考えられてきた。しかしこれは事実に反する。FAOの文献、前掲のミッチェルの論文、FAOの文献(注2)及びFAOのデータによれば、中国ないし中国とインドの合計の穀物純輸出量は、1980〜96年までは年平均マイナス1000万トンほど、つまりこれだけの純輸入量であったのが、1997〜2005年の年平均は、中国はほぼゼロ、中国とインドの合計はプラス700万トンほどとかなりの純輸出量になった。06年以降、穀物需給や穀物政策に大幅な変更はないので、中国とインドの穀物純輸入量の急増が、21世紀最初の10年の後半の、世界穀物価格の急騰をもたらした原因とは考えられない。
(6)主要穀物輸出国の輸出規制
FAOの報告書(注3)によれば、最近の穀物価格急騰に対して、穀物輸出制限措置をした国は24か国になる。そのうち、主要穀物輸出国は中国、インド、タイ、ベトナム、アルゼンチン、ブラジル、ロシア、ウクライナである。これらは、穀物価格の急騰にかなりの影響を与えたと考えられる。しかし、2008年の春から夏にかけて、これら輸出規制のかなりが廃止された。
2.世界の穀物価格急騰の影響
(1)世界穀物価格急騰が飢餓人口の食料安全保障の破綻をもたらした
穀物価格の急騰の最大の問題点は、途上諸国に集中する約8億人の飢餓人口に、飢餓や貧困の悪化をもたらすことである。飢餓人口やそれを含む貧困人口のエンゲル係数(消費支出の中の食料費の割合)は9割にも達し、摂取カロリーのほとんどを穀物に依存している。その穀物の貿易価格の急騰は、世界のほとんどの国々の国内穀物価格を高騰させ、途上諸国の膨大な飢餓人口をさらに増やし、飢餓を悪化させた。最近、国連事務総長は穀物価格の急騰が世界の飢餓人口を5000万人増加させると公表した。この穀物価格の急騰が膨大な飢餓人口へもたらす影響は、多くの途上国で暴動を引き起こし、価格安定政策および輸出規制政策をもたらした。ちなみに暴動はフィリピン、インドネシア、ベトナム、バングラデシュ、イエメン、ウズベキスタン、モザンビーク、セネガル、エジプト、ハイチ、メキシコ、ボリビアなど20か国で発生している。大部分の穀物輸入国で、そして一部の主要穀物輸出国でも、輸入関税引き下げや補助金政策による国内穀物価格の引き下げ政策が実施された。
(2)先進国に対する影響
原油や金属などの資源価格の急騰もあって、先進国ではかなりのインフレが発生してきた。しかし、途上国のように膨大な飢餓および貧困人口は存在しないから、食料安全保障の破綻には至っていない。一方、消費行動の引き締めから、不況に発展する可能性は高い。
先進国のなかで唯一食料自給率が低下し続け、カロリーベースで40%と非常に低水準にある日本にとっては、穀物価格の急騰は国民の食料不安感を高め、食料安全保障水準維持への政治的要望が強くなってきている。
この食料不安には、倫理的側面と経済的側面がある。前者は、長く世界最大の農水産物輸入国であった日本の膨大な食料輸入が引き起こす食料価格の上昇が、世界の飢餓および貧困人口にもたらす悪影響である。後者は、日本が長期的に大量の食料を輸入できる経済力を維持できるかという問題である。これら食料不安要因、食料安全保障の破綻のリスクおよび農業の多面的機能を考えると、日本は食料自給率を大幅に引き上げる必要がある。
3.世界穀物価格の急騰にどう対処すべきか
以上、急騰の要因を検討してきたが、「バイオ燃料生産の急増」、「国際投機資金の商品市場への流入」、「ドル安」、「穀物生産費および輸送費の上昇」、「主要穀物輸出国の輸出規制」の五つであるという結論を得た。
次いで対処すべき課題であるが、まず穀物価格の急騰は、途上国の膨大な飢餓人口の食料安全保障を破綻させるから、制御されなければならない。そして、穀物価格の急騰の主な要因はバイオ燃料の増産といえる。そうであるなら、日本は、アメリカやブラジルのような「食料を原料とするバイオ燃料の政策的増産」を止めさせる国際交渉をすべきである。最近の食料サミットや洞爺湖サミットでは、そのような交渉はなされていない。また日本としても「食料からのバイオ燃料生産」は制限して、「セルロースからの生産」に、農業および技術政策を方向づけるべきであろう。
バイオ燃料以外の4つの要因が、穀物価格の急騰にどれだけ影響したかは、厳密には不明であるが、至急解明されるべきである。解明される要因の比重に応じて、日本はこれら要因の影響を制御する制度を、国際金融、マクロ経済政策、エネルギー戦略に関わる国際交渉によって、構築するよう動くべきではないだろうか。主要穀物輸出国の輸出規制は、それが穀物価格の急騰に大きな影響を与えるのなら、日本の食料安全保障にも影響するから、わが国は輸出規制禁止のための国際規律をGATTに書き込む交渉も視野に入れるべきであろう。同時に、食料安全保障と農業の多面的機能保全のために、真に食料自給率向上をもたらすような日本農政の確立を期待したい。
(注1)Donald Michell, A Note on Rising Food Prices, PRWP 4682, Develop-ment Prospect Group, The World Bank, July 2008.
(注2)FAO, Soaring Food Prices: Facts, Perspectives, Impacts, and Actions Required, Presented at High-level Conference on World Food Security: The Challenges of Climate Change and Bioenergy, Rome,3-5 June 2008.
(注3)FAO, Crop Prospects and Food Situation, No.3, July 2008, pp. 6-21. |