世界の水資源と穀物生産
丸紅経済研究所
所長 柴田明夫
世界の食料市場ではここ数年、穀物需給の逼迫(ひっぱく)傾向が強まっている。旺盛な消費に生産が追いつかず、世界在庫が取り崩されているためである。この背景には、中国の急速かつ持続的な経済発展に伴う食料需要の拡大がある。とくに、原油価格の高騰を背景とした世界的なバイオマス燃料ブームは、今後、世界の食料市場で、(1) 国家間、(2) 食料とエネルギー間、(3) 水と土地をめぐる農業部門と工業部門間の「3つの争奪戦」を強めることになろう。なかでも、21世紀は水を巡る争いが先鋭化する恐れが強い。
逼迫する世界の穀物需給
シカゴ穀物市場では、2006年8月まで1ブッシェル(約27.2kg)3ドル台で推移していた小麦が、07年に10ドルを突破し、過去最高であった1996年の7.7ドルを上回ったのに続き、08年に入ると大豆が13ドルを付け、73年の史上最高値12.90ドルを34年ぶりに更新した。トウモロコシも5ドル台に達するなど、ここ数年で価格は倍以上になっている。
この背景には、世界の食料市場において2000年以降、旺盛な消費に生産が追いつかず、世界の穀物在庫が急速に取り崩されているという構図がある。
図2は、アメリカ農務省(USDA)需給報告(08年2月発表、以下数字は2月報告を使用)から、世界の穀物市場における長期的な需要、供給および期末在庫率(期末在庫量/年間消費量)の推移をみたものである。これによると、07/08年度{07/08年度といった場合、おおむね07年後半から08年前半を指す。こうした表示以外は暦年である}の世界の穀物の期末在庫率は14.7%と、2000年の30%台から急低下し、1970年代初めのレベルをも下回る見通しだ。ちなみに国連食糧農業機関(FAO)は、食料危機が騒がれた70年代初めに、適正在庫について年間消費量の2か月分に当たる17〜18%{FAOが1974年に掲げた作物ごとの適正在庫率は、小麦25〜26%、飼料作物15%、コメ14〜15%}という数字を掲げている。
世界的な需給逼迫は小麦市場で始まった。06年、アメリカの小麦生産の7割を占める冬小麦地帯が高温乾燥天候にみまわれ、06/07年度小麦生産高は4932万トンと前年度の5728万トンから大幅に減少した。さらに、07年にはヨーロッパ、バルト海沿岸、カナダなど北半球の主要小麦産地が干ばつにみまわれた。オーストラリアも8月以降、干ばつと熱風が続き、当初2300万トン程度への回復が見込まれていた生産は1300万トンに下方修正された。この結果、世界的な小麦の供給不足が深刻化し、01/02年度末に35%近くあった世界の期末在庫率は、07/08年度末には18%を割り込み、過去最低レベルに低下する見通しとなった。期末在庫も、1億1093万トンと75/76年度以来32年ぶりの低水準となる見込みである。
一方、世界的な在庫不足が深刻化するなかで、07年にはインド、エジプト、バングラデシュ、フィリピンなどが、アメリカからパニック的な買い付けを行った。このため、08年6月末のアメリカの期末在庫は60年ぶりの低水準に落ち込む見通しである。また、07年に入って、欧州連合(EU-27)が、小麦の輸入課徴金をゼロにし、国内在庫の積み上げを図っているのに加え、ロシアやアルゼンチンなども国内需要を優先するため輸出を抑制する動きにある。この背景には、中国やインドをはじめ、アジア諸国での食生活が多様化・高度化し、小麦を主原料とするパン、即席ラーメーン、パスタ、菓子類などの消費が拡大していることがある。
通常、小麦は、食用に供されると同時に規格落ちのものは飼料用に回され、トウモロコシと価格の引っ張り合いをする。しかし、小麦市場における変調は、単に小麦在庫の逼迫に留まらず、飼料用に供される規格落ち小麦の供給減少を通じてトウモロコシ需給に影響を与え、更に近年のトウモロコシのエタノール向け需要の拡大と相まって、大豆の需給を引き締めるなど、需給逼迫が伝播しつつある。
トウモロコシ市場でも、消費の急増に生産が追いつかず、世界の穀物在庫が取り崩されている構図は変わらない。ちなみに、07/08年度は、生産量7億6672万トンで前年度の7億385万トンから大幅に増加した。これは、エタノール・ブームに沸くアメリカで、トウモロコシ生産が3億3209万トンと前年度の2億6700万トンから大幅に増加したためである。にもかかわらず、世界のトウモロコシ消費量は7億7272万トンと生産を上回っている。これに伴い、00/01年度末に1億7367万トンあった期末在庫量は、07/08年度末1億133万トンと約4割減少する見通しで、期末在庫率も13%台と歴史的低水準に落ち込む。
一方、大豆の場合は、06/07年度の世界生産は2億3557万トンで3年連続拡大して過去最高となり、期末在庫量も6158万トン(同在庫率27.4%)と増加傾向をたどった。これは、ブラジル、アルゼンチンでの増産によるものである。ちなみに、両国の大豆生産は、06/07年度各5900万トン、4720万トンで合計1億620万トンとなり、アメリカの8677万トンを上回っている。しかし、07/08年度の世界大豆生産は2億2034万トンに留まる一方、消費が2億3526万トンと生産を上回ることから、期末在庫量は4624万トンに減少。期末在庫率も19.7%と20%を割り込む見通しである。とくに、07/08年度は、中国の大豆輸入が3400万トン(世界輸入量の45%)と初めて3000万トンを突破するなど、大きな需給逼迫要因となっている。
食料需給逼迫に追い討ちをかけるバイオ燃料ブーム
こうしたなか、新たな需給逼迫要因として懸念されるのが、世界的なバイオ燃料ブームである。とくに、注目されるのがアメリカにおけるトウモロコシ・エタノール生産の急増だ。アメリカでは05年8月に成立した包括エネルギー政策法で、燃焼時の環境汚染が少ない燃料の国内供給量を増やすため、ガソリンと混合するエタノールの増産が義務付けられた。トウモロコシ・エタノールの生産に当っては、連邦政府・州政府レベルでさまざまな助成措置がとられている。こうしたなか、ブッシュ大統領は07年1月の一般教書演説で、17年までにトウモロコシを中心とする再生可能燃料を350億ガロン(1ガロン=3.8リットル){エタノール1ガロンを生産するのに必要なトウモロコシは0.35ブッシェルである。したがって、100億ガロンでは35億ブッシェル、350億ガロンでは122億ブッシェルとなる}生産し、ガソリンの消費量を20%削減する計画を打ち出している。
一般に、現在のエタノール工場は、1ブッシェルのトウモロコシから約3ガロンのエタノールを生産する。したがって、350億ガロンでは、ほぼ現在のトウモロコシ生産量に匹敵する120億ブッシェル強が原料として使われることになり、ブッシュ大統領の発言はあくまでも机上の空論ともいえる数字として捉えられていた。しかし、アメリカでは、原油やガソリン価格の高騰を背景に、トウモロコシ・エタノールの生産が急増している。バイオ燃料の業界団体である再生可能燃料協会(RFA)によると、アメリカのエタノールの生産量は2000年の16億ガロンから05年には40億ガロンに拡大、ブラジル(サトウキビが原料)を抜き世界最大のエタノール生産国になった。さらに、06年には51億ガロン、07年68億ガロンと生産は急増している(図3)。エタノール工場の数も06年末の95から07年9月末で129となり、更に建設および増設中の86工場を加えると、生産能力は136億ガロンに達することになる。もっとも、アメリカのガソリン消費量は、年間1450億ガロン弱であるから、これら生産能力がすべて稼動したとしても、ガソリン消費量の10%にも満たない計算だ。
問題は、こうしたエタノール生産の急増が、アメリカのトウモロコシの輸出余力の低下につながりかねないことである。すでに、06年にトウモロコシ輸出がエタノール向け需要と並び、07年にはエタノール向け需要が輸出を大幅に上回り、生産量全体の3割近くに達する見通しである。さらに、最近の原油価格の高騰を背景とした、世界的なバイオディーゼル需要の拡大により、アメリカでは大豆油を原料としたバイオディーゼルの生産も拡大し始めたことから、今後、世界の大豆需給も急速に引き締まる公算が大きい。
背景にある人口30億人のBRICsの工業化と「3つの争奪戦」
ところで、こうした穀物需給の逼迫・価格高騰現象は、ここ数年における原油や非鉄価格の高騰と無関係ではない。この背景には、2000年代に入って、世界経済の牽引役がBRICs(ブラジル、ロシア、インド、チャイナ)に代表される新興国に移っていることがある。実際、04年から07年の世界経済成長予測は5.1%とみられるが、このうち、日欧米の寄与度は1.0%程度あり、4%強がBRICsをはじめとする新興国によるものである。すなわち、いまや世界経済を牽引しているのは人口8億人弱の先進国ではなく、人口約30億人の新興国経済である。これら人口大国が本格的な工業化の過程に突入し、猛スピードで先進諸国へのキャッチアップ{開発途上国が先進国に追いつこうとすること}を進め始めたことが、穀物の需給逼迫をもたらした主要因といえよう。
なかでも気がかりは、アメリカに次ぎ世界第2位のトウモロコシ生産国である中国の動向だ。同国の07年のトウモロコシ生産は1億4500万トンと過去最高となった。にもかかわらず、飼料用をはじめエタノール、コーンスターチなどの需要が急増し、国内需給が逼迫している。アメリカ農務省によると、99年に1億2000万トンあったトウモロコシ在庫は2000年代に入って急減し、07年末には2858万トンと4分の1以下に落ち込んでいる。国内価格も、06年前半のトン当たり1200元台から08年初めには1700元を突破している(パシフィックグレンセンター調査)。これに伴い、02年に約1500万トンありアメリカに次ぐ世界第2位の地位にあった輸出は、100万トン程度まで急減し、早晩、純輸入国に転じる可能性が強まっている。
バイオ燃料の増加や中国の穀物輸入拡大により、今後、世界では限られた食料をめぐって、3つの面での争奪戦が強まる可能性が強い。
第1は、国家間の争奪戦である。これまで「世界のパン籠」として世界の食料供給を柔軟に行ってきたアメリカが、国内市場の拡大により輸出余力を失う一方、成長著しい中国がすでに新たな食料輸入大国となりつつある。とくに、争奪戦は今後、トウモロコシ市場において先鋭化する可能性が高い。これまで、アメリカはトウモロコシ生産量のうち、約4分の3を国内で消費し、残り4分の1を輸出に供していた。しかし、エタノール向け需要の急増に伴い、近い将来、国内需要が9割近くに達し、輸出に回すことのできる量が1割程度に落ち込む可能性が高い。アメリカは世界のトウモロコシ生産の4割強、輸出量の7割近くを占める「トウモロコシ大国」であり、同国の規模に匹敵する輸出大国が見当たらない。
第2は、エネルギー市場と食料市場との争奪戦である。急速に進む地球温暖化対策と原油価格の高騰を背景に、世界中でクリーンな燃料でガソリン代替材としてエタノールに代表されるバイオ燃料の導入が始まった。アメリカのトウモロコシ・エタノールや大豆油を原料とするバイオディーゼルの導入をはじめ、ブラジルではサトウキビ・エタノールの生産が急増。ヨーロッパでは菜種油から、東南アジアではパームオイルを原料とするバイオディーゼルの生産が拡大している。エタノール需要の拡大は、原料トウモロコシ価格を高騰させ、直接的に貧困層の飢えを拡大させかねないほか、家畜の餌料代に跳ね返り、最終的には食肉価格を押し上げる。
第3は、工業部門と農業部門での水と土の争奪戦である。工業化は工業用水や生活用水、工場用地や住宅地を拡大する結果、工業に比べ付加価値生産性の低い農業は、次第に限界地に追いやられる。ちなみに、水の総需要量に対する農業用水の比率は、アメリカでは約40%であり、日本は約60%であるが、アジアでは約70%から80%と高い。とくに、今後、争奪戦が強まるとみられるのは、中国においてであろう。急速な工業化が進む中国では、すでに北部を中心に水不足が深刻化している。
21世紀は水を巡る争いが先鋭化する
上記の3つの争奪戦のなかでも、21世紀は水を巡る争いが先鋭化する恐れが強い。地球は「水の惑星」と称され、地球上には14億km3もの水資源がある。ただし、地球上の水のうち淡水は2.5%にすぎず、その大半は極地などの氷や地下水である。我々が利用しやすい状態にある河川や湖に存在する地表水は、淡水のわずか0.3%だ。しかも、その分布は、地域的にも、時期的にも偏りがある。水資源の配分は、石油や金属資源にもまして不平等なのである。
一方、現在利用されている淡水の7〜8割は食料を生産するために利用されている。いいかえれば、食料生産には大量の水が必要とされるのだ。図4は、主要農産物1kgを生産するのに必要な水の量である。小麦では1150リットル、コメでは2656リットル、穀物平均では1kgを生産するのに1000倍の水が必要とされている。これまでの地球規模の食料予測モデルでは、水供給量の制約を考えていない。その結果、将来の食料供給は過度に楽観的なシナリオとなっているものが多い。しかし、最近は高まる将来の食料不安に対して、世界中で食料生産を拡大する動きが強まっているが、それは一方で、砂漠化や水源の枯渇など、地球上で新たな「水ストレス」をまねくことになる。この意味では、21世紀初頭の世界の食料生産は、「水」が最大の制約要因となることはまちがいない。
おわりに
食料争奪の世界では、これまで、「高い値段を払えば食料はいくらでも手に入ると思っている」日本人、あるいは「より高品質で安全・安心な食料を求める」日本人が、「買い負ける」可能性も出てきた。いまこそ、食料自給率の向上、WTO(国際貿易機関)協定に基づく多国間協議やFTA(自由貿易協定)、農業技術、環境対応、人材育成などあらゆる組み合わせによる食料の安定調達に向けた対応が急務である。 |