〜新しい人生の夢とあそび〜
独りぼっちの木の根運動

三重大学
名誉教授 梅林正直

○ 敗戦の日、チェンマイでの戦没者慰霊
  平成18年8月15日(火)午前10時(日本時間正午)、タイ王国チェンマイ市のムンサーン寺院にある日本人戦没者慰霊碑の前に56名の人たちが集まっていた。日本武道館で行われている全国戦没者追悼式典の黙祷に合わせて、平和の祈りを捧げる1分間の黙祷を行った。戦争で亡くなった日本人、タイ人、山岳民族の霊を慰めるのだ。
  第2次大戦の当時、同盟国だったタイ王国から、日本軍がミャンマー(当時のビルマ)を経てインドに攻め入ったインパール作戦では、いろいろな形で山岳民族の助けを受けた。大敗残の末にビルマとタイの国境地帯から逃げのびた多くの負傷兵は、途中で亡くなったり、山岳民族に助けられた。チェンマイのムンサーン寺院も最初は軍の司令部や造幣所として使われていたが、後には陸軍病院として数多くの病人を抱えていたのである。
  慰霊碑を建立した戦友たちはもう齢八十を越える頃になって、慰霊にも来られなくなった。このことを住職から聞き及んだ私は、10年前からメイドと二人で、敗戦の日の黙祷を短波ラジオを聴きながら続けてきた。
  4年ほど前からは、チェンマイをはじめとするタイ在住の方々にも声をかけるようになった。昨年、満60年の敗戦記念日には、50名を越える参詣者が集まり、翌日には日本のテレビニュースでも報道された。
  本年の慰霊祭には、カナダ、アメリカの方も3名参加され、だんだん国際的になってきた。チェンマイの日本語フリーペーパー「チャオ・チェンマイ」紙上で風景夫氏(チェンマイでロングステイ中、フリーライター)からは、竹山道雄著『ビルマの竪琴』の水島上等兵の心境に似ているのではとの指摘を受けた。我が意を得た思いである。また「60年前に起った不幸な出来事は、日本人とタイ人が戦争の痛みを分かち合い、助け合い、友好関係を築いた」との、一昨年の慰霊祭でのチェンマイ県副知事の言葉も更めて思い出される。

△ ゴールデン・トライアングル▽
  タイ、ラオス、ミャンマーの三つの国がメコン川で国境を接する山岳地帯は、ケシ栽培が古くから盛んに行われ、世界最大のアヘン生産地として悪名高い。黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)とも呼ばれてきた。
  タイの北部山岳地帯を訪れると、10年ほど前には赤や白の花が咲き乱れる山畑を目にすることがあった。美しい光景だが、その実がアヘンの原料になるケシの花である。国際的な麻薬マフィアが暗躍していた中で、タイ政府は10数年前からケシ栽培を禁止してきた。だが、適当な代替作物がなかなか見つからないこともあって、完全に根絶させるのは困難であった。
  その後アフガニスタンに移ったケシ栽培を再びゴールデン・トライアングルへ復活させようとする密かな動きもあり、厳重な監視が必要となっている。
  20年以上も前に、私が一人で黄金の三角地帯のチェンセンのメコン川沿いを散策中に、四つ手網で小魚を獲っていた母子との会話をはっきりと思い出す。「ついこの前も、殺されたファラン(タイ語で欧米人のこと)が浮かんで流れていったんだよ!」夕食のおかずを獲りながらの、怖い話であった。

○ 国際避難民としての山岳民族
  この山岳地帯に住んでいるのが山岳民族と呼ばれる少数民族だ。大きく分けて9民族(モン族、ヤオ族、アカ族、ラフ族、カレン族、ミエン族、カム族、ラワ族など)あり、それぞれ独自の文化・言語・衣装などを守って生活していて、タイ全土で75万人、北部タイの山岳地帯には55万人が住んでいる。中国の辛亥革命以前から始まり、第2次大戦、国民政府軍と中共軍との戦争、周辺諸国の革命や内戦などで犠牲を強いられ、流れてきた。彼らは120年間にわたる国際避難民であり、経済的にはもっとも貧しく差別されてきた。
  一方、13世紀頃に中国南部から移ってきて、スコタイ王朝、アユタヤ王朝を形成したタイ人の大部分は、水田稲作を主体とする低地民である。このために避難してきた高地民である山岳民族とは、住み分けがある程度行われてきた。長期間にわたってかなりの数の避難民を受け入れることができたのは、このためではないかと考えられる。

○ ボランティアとは?
  英語の辞書を引いてみると分かるが、ボランティアの原義は、志願兵や義勇兵のことで、自らの自由意志で参加して無償で生命をかけて戦う者をいう。今はやりの「ボランティアをやっていますのよ!」という、かっこいい流行性症候群とは、まったく違う。アフガニスタンやイラクなどの戦いに周辺の国々から湧くように参集したアラブの義勇兵たちが、決死の覚悟のボランティアだといえる。
  また私自身の信条として、自分で働いて得たおカネと頭と身体を使って現地に赴き、汗をかくことが、本当のボランティアではないかと考えている。そういう気持ちで、タイの山へ梅やマナオ(タイのライム)などの植樹をしている。これには戦争で迷惑をかけた人々に対する贖罪の気持も含まれている。

○ 独りぼっちの木の根運動
  平成7年5月、「チェンマイ大学植物バイオテクノロジー研究計画」でチェンマイに赴任していた時のことである。青年海外協力隊の女性に、「高地に植える果物で、何か良いものはないですか?」と尋ねられた。「梅でもどうですか!」と答えたのがきっかけで、ミャンマーとの国境に近いチェンライ県のパンコーン村に、梅の苗300本を寄贈・植樹した。当時、タイ王室のプロジェクトとして、台湾原産の梅がタイ国内で育苗され始めていた。

最初の梅の植樹。
写真1 最初の梅の植樹。チェンライ県パンコーン村にて、平成7年6月15日

  村までの道は、雨期には四輪駆動の車でも立ち往生してしまう泥んこ道で、もう想像を絶するほどの悪路だ。新鮮な果実は運び出せなかったり、運搬中に傷ついたりするため、塩漬けや果実酒などに加工できる梅がよいのではと考えた。
気候の厳しい山岳地帯でも適応できると思って始めたが、正直、成功するかどうかは自信がなかった。「桃栗3年、柿8年、梅はスイスイ13年!」と言われていたからだ。
 ところが50cmの苗が、植えてから1年半後に3〜4mほどの高さに生長していた。丁度、平成9年3月末に三重大学を定年退官する時に当たっていたので、新しい人生を「独りぼっちの木の根運動」にかけてみようと決心した。多人数で行う「草の根運動」に、少々対抗する気持ちで名付けてみた。
タイの北部山岳地帯の中心都市「北方のバラ」と呼ばれるチェンマイに家を借りて、自分の働きで得るおカネを年に150万円ずつ当てて活動することにした。

○ ケシ畑の中に植えた梅
 乾期と雨期にそれぞれ3か月ずつ、1年に合わせて半年間タイ在して、1,500m以上の高地には梅を、低地や梅の合わない土地にはマナオ(タイのライム)を植えて11年。11,000本の梅と9,000本のマナオを、北部タイ6県20数か村に寄贈・植樹してきた。

1年半後の梅、まだケシの花が残っている。
写真2 1年半後の梅、まだケシの花が残っている。パンコーン村にて、平成9年2月7日

  最初に300本植えた頃は、まだ一部にケシが残っていて、白や赤紫色の花が咲いていた畑に植えていった。その頃の村人は一体いつ頃実がなるのかと心配していた。植えてから3年半後の平成11年2月。初めての梅の実がなった時には、村人とともに大喜びだった。中国風の梅干しや砂糖漬けの材料として、桃より高く売れた。
 平成14年にはパンコーン村で1トンの梅の実が収穫できた。付加価値を高めるために、タイの人にも愛飲してもらえる梅酒の研究も、チェンマイ大学の教官と始めた。最近はマナオの実の価格が急騰して、マナオを植えたいという希望が増加してきた。

初めてなった梅の実、3年半後。 写真3
初めてなった梅の実、3年半後。
パンコーン村の村長、平成11年2月7日

 

○ 夢と遊びのニューライフ!
  定年退官したあとは、第二の人生ではなくてニューライフ。自立して、自分の意志で参加して自己実現をはかる。その心は遊び! 遊びの「あ」は遊び心と飽くなき好奇心を持って、「そ」は創造する喜びを、「び」は美と美味を求めることにした。この10年間は、これに合致する夢を追い続けている。
  まず、タイの山奥に梅やマナオを植えることや、平成15年から、自らのホームページ「おどろきタイ Talk」http://www.h5.dion.ne.jp/~dr_manaoでタイの食や文化を紹介したり、アマチュア写真を趣味にしたりして、すべて「あそび」の心につながるものをやっている。

梅と筆者梅林、4年半後。
写真4 梅と筆者梅林、4年半後。パンコーン村にて、平成12年3月5日

○ 志を伝え遺して、歴史に!
 昨今はあらゆる点で遺伝子全盛の時代であるが、人間の心や意志も忘れてはならない。自分から何かをやろうとする意志がなければ、いくら遺伝子がよくてもダメだ。また志を伝えて遺す努力をする「遺伝志」も重要である。
 大学生の方々にこのボランティア活動の話をしている。志が伝えられ、それが積み重なって大きな歴史になっていく「遺伝史」が教育の原点ではないかと考えている。
 本年度の日本女子大学学術交流研究事業として、私の講演「独りぼっちの木の根運動〜北部タイ山岳地帯での梅とマナオの植樹ボランティア活動〜」が取り上げられた。詳細は次の通りである。
 10月27日(金)16:30〜18:00、日本女子大学西生田キャンパス九十年館10番教室にて。学外者の聴講も可。入場無料(直接会場へ)。問い合わせは同大学教育学科(044-952-6870)あるいは西生田生涯学習センター(044-945-3323)へ。

○ 73歳のハタラク!
「ケシをケシに来たケシからん奴はケシてしまえ!」と麻薬マフィアに狙われる可能性もあった。このことを怖れずに、自分で働いて得たおカネをこの10年間に毎年150万円、合計1,500万円使って、戦争の贖罪を続けている。年金や生活費には絶対に手をつけず、日本の家には車もなく、クーラーもやっと昨年入った。
「ハタ(傍)の者をラク(楽)にするのが、本当の働くことだぞ!」といつも教えられた亡き親父の言葉を思い出している。家族のため生活のために41年間の国家公務員を勤め上げさせて頂けた後は、無限の「愛」をタンブン(善行)する幸せをかみしめている。この「愛」は与えれば与えるほど、多くを受け取ることが出来る。
 初めての人は必ず車酔いする悪路を、ベテラン運転手に命を預けて山村を走り回って来た。幸い、これまでは腰痛には悩まされたが無事故であった。
 ほかの人があまりやらないこのような独りぼっちのボランティア活動は珍しいとみえる。NHKテレビ「新アジア発見(平成10年10月18日放映)」をはじめ、民放テレビやNHKラジオ深夜便などでも紹介された。その度にボランティア希望者が多数申し出られるが、生命の安全と保証が出来ないため、独りぼっちで気の長い木の根運動を続けている。

○ チェンマイ七夕植樹祭

第2回チェンマイ七夕植樹祭、マナオの植樹。
写真5 第2回チェンマイ七夕植樹祭、マナオの植樹。
チェンマイ県クアンパーク村にて、平成14年7月7日

 毎年、7月7日の七夕に近い日曜日に、チェンマイ七夕植樹祭を続けている。チェンマイ郊外のクアンパーク村や寺院学園(中学・高校)、村の小学校などが参加して行うが、今年はもう6回目になった。
 平成18年7月9日(日)、総勢35名(タイ在住日本人10名、日本からのツアーなどの参加者21名、タイ人4名)が、クアンパーク小学校の生徒達と苗を一緒に植え、七夕の歌を合唱した。この時には400本のマナオの苗を寄贈した。日本語やタイ語や英語で書かれた色とりどりの短冊が10本の七夕飾りにつけられて村の空にひるがえり、継続は力なりと強く感じた。

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