世界水フォーラムと水の市場経済化に関する議論
世界水会議(WWC)理事、日本水土総合研究所 技術顧問
中村良太
最近、水資源の分配に市場原理を用いる議論が盛んである。これは1992年のダブリン会議において主要な問題として提起されたのに始まり、その後、第2回世界水フォーラムではもっとも主要なテーマとなった。第3回水フォーラムに至って幾分薄められたとはいえ、それは十分に引き継がれ、一つの重要な論点であった。私はエンジニアであって、経済学の専門家ではないが、それにしても、このような議論について、感想を持つことは許されるであろう。ここでは、一般の経済学における市場機構経済に対する賛否の諸論が、水の問題についての議論と関係が深いのではないか、という筆者の技術者の立場からの印象を述べる。
1.水市場と一般経済学との関係;水市場形成への傾向
水資源についての議論には、一般の経済財について経済学の分野で論じられていることと共通する面が多い。水には一般の経済財と共通点を持つ一面がある。知る限りで、水の問題の一般経済財との関連について、以下に述べる。
水の経済財としての考えを、日本ではじめて本格的に取り上げたのは、きわめて古いことで、安井正巳の1975年の著書『水の経済学』であった。安井は、この本で、水価格の形成、水の供給曲線、水市場の形成、水資源の移転による最適配分などを細かに論じている。その後、これに反対の立場をとる玉城哲との論争があった。論争は、安井が、農家の納める「水利費」を水が経済財としての性格を持つことの一つの表われであるとしたことに端を発している。すなわち、安井によれば、水利費を、使用している水量で割れば、単位体積(たとえば1立方メートル)当りの価格になるので、水そのものが売買されているのと考えて差し支えない、とする。これに対し、玉城は「水利費」は、施設を管理(あるいは建設)するための費用であって、基本的には施設の中を流れる水についての値段ではない、とするものである。安井正巳が途中で亡くなったことで、この論争は中途半端に終わっている。安井の本には、流域でのダムによる水資源開発が進むにつれて、単位体積の開発水量当りのダム建設費が上昇することも触れられており、これは、後に志村博康の、流域の水資源開発段階論に影響を及ぼした。
このように、日本における水の経済財性に関する1970年代の議論は、かなり盛んであった。これがもし英語でなされていれば、現在の世界の水経済議論にも大きな貢献をしたであろうことが、惜しまれる。
世界においても、おそらくかなり古くから水の経済財的性格についての議論は行われていたと推測できるが、確認はしていない。目に付くのは、ここ10年来、世界水フォーラムに関連して、世界的に水の経済財化についての議論が盛んなことである。これには、世界銀行などのかねてからの主張が、大きな影響を持っている。
これは、一般経済学の分野における市場メカニズムを重視する流れと関係が深い。言うまでもなく、よく知られたことであるが、完全な市場機構(メカニズム)が働いていれば、各個人が経済的に最適を求めて行動すれば、国民経済としてももっとも効率がよくなる、という利点を主張した新古典派に対し、その修正を試みた諸学派が勢いを失い、以後、いろいろに形をかえての市場主義が、再び大きく一般への影響力を広めたことと無縁ではない。最近の、ソ連邦の崩壊によって、中央集権的な計画経済システムの歴史的試みが勢いを失った現在、この市場主義は一段と力を得ていると思われる。
この新古典派について思い出すのは、私が若い頃、あるいは学生時代に読んだ幾つかの経済学関係の入門書である。たとえば、サミュエルソンの Economics では、たしか冒頭の部分で、ニューヨーク市では、毎日何万という種類の品物を消費しているが、それらが一つの過不足もなく遅れもなく、流れるようにニューヨークに入ってくるのは、すべての商品が市場機構によって流入しているおかげで、これは大したものだ、という記述があった。もう一つ思い出すのは、ロバート・マンデルのMan and Economics で、この本で経済学に入門するとしたらどんなに幸福だろうという推薦文を見て、読んだものである。内容は、世の中に want(前後関係から見ると「何かを求めるという心のはたらき、欲求」とでも訳されるか)があれば、つねにそこには経済が存在し、したがって市場の働きがある、という意味のことが書いてあった。世の中のほとんどすべての場面で市場の働きがある、という話で、市場機構に対するきわめて強い信頼がそのままに語られていた。経済学者をしてこのように言わしめるほど、たしかに市場機構の影響力は大きいのであろうが、ここまで来ると、一種の信仰とともいえるほどの信念の強さを感じた。これが背景となって、政府の干渉はなるべく小さくして市場の自由な競争にまかせるのをよしとするレーガン政権にも、あるいはサッチャー政権などにも影響を及ぼしたものであろう。それが、水の分野にも影響が遅れて及んで来ているという一面がある。
さらに、このような信念に併せて、各種の水に関係する国際機関の主張がある。21世紀の水資源不足が予想されるのに、環境への配慮からダムを造ることは主張しにくくなっている。いきおいもっとも多量の水資源を消費している農業用水を節減しなければならない、農業用水は水を非効率に使っており、それは水をきわめて安い価格で使っているからだ、とする主張になり、これが先の市場機構への信念と合わさって、いっそう水の経済財化あるいは市場化の議論を強めていることは、言うまでもない。
2.一般経済学における市場経済の弊害に着目する論点
このように、いろいろの経済学者に支持されて、経済学の本流ともなっている市場機構を中心とする経済の考え方であるが、これに対して、経済学者の間には、この市場機構のマイナス面につよく関心を寄せる人々がいる。
経済学一般の問題としての市場経済主義の限界の指摘は、歴史的にその系譜はきわめて古く、これに注目する「アンチ市場経済派」とでも呼ぶべき一団の人々がある。資本主義への疑問まで話を広げれば、古くはマルクスなどがあることは言うまでもない。市場機構経済に限るとしても、経済の専門家でない我々でも、1900年代初頭以後のソースティン・ヴェブレン、カール・ポランニー、さらに最近のアマルティア・セン、宇沢弘文、などの名前は聞いている。
これらの人々について少し見てみる。まず、ソースティン・ヴェブレンについては、資本主義の本質の、少し角度を変えての深い洞察により、資本主義の限界について論じていると思われる。ヴェブレンはガルブレイスに影響を与えたと言われるが、さらに後述の宇沢弘文にも大きな影響を与えている。
カール・ポランニーは、市場経済存立の過程をもとめて、ギリシャの古代社会について、さらにアフリカの未開地の経済も調査した。これは、現在のような市場機構を基礎としない経済の可能性を探るという意味も持っていた。ギリシャについていえば、市場経済が行われたのは、意外におそく、それ以前は市場なしに立派に物々交換による経済が発展し交易が行われていた。ただし、その場合の交易における物々交換については、皇帝によって交換の比率が定められていたというようなことが書いてある。
アマルティア・センは、単に経済だけでなくもっと人間らしい判断をする人間像を画き、経済的な利益を最大にすることだけを目指して行動する人間を基礎とする新古典派的な経済学の限界を提示した(センは、インド人であり、東洋人として初めて経済学分野でノーベル賞を受賞した)。
宇沢弘文は、市場機構による経済の限界を強く認識し、その著書『社会的共通資本』で、「このような(市場機構を重視する)新古典派的な経済思想、ないしはそれにもとづく政策的命題がいかに非現実的であり、また反社会的な性格をもっているかは改めて言及するまでもない」と述べており、十分にラディカルである。そして市場経済機構では処理しきれないもの(と、とりあえず私は要約しておくが)、それは主として環境・インフラストラクチャー・制度資本などであるが、それをまとめて「社会的共通資本」と命名している。著書においても、この資本の管理運営は、専門家の職業的規律によるべきであり、決して政府によって規定された基準、あるいは市場的基準によって行われるべきものではない、という意見である。
さらに、市場機構経済の結果として生じるグローバリゼーションに対して批判的で、より人間を中心とした経済学についてのまとめをしている西川潤なども、これらの流れのなかの一人であろう。
もちろん、水資源の配分を考慮しなければならない我々に関心のあるのは、これは上に述べた各人の、議論のなかでときどき見られる、資源の配分の話である。残念ながら、上記の各人の研究のなかで、資源の配分の重要性は指摘されても、具体的な配分の方法の提案は少ない。アマルティア・センのそれにいくらかでも関係する記述を探すと、(資源の配分に先立ってその基礎をなす)民主主義と人権の価値の形成は、「開かれた市民の公共議論」によってなされるべきである、という記述を見出すことができる。さらに宇沢は、「資本主義の制度的特徴はいうまでもなく、資源配分と所得分配とが市場機構を通じて行われることである」、と述べていて、資源配分について十分な関心は示しているが、しかし、資源の具体的な配分方法については、わずかに、「社会的な協約」によってという単語を見出すに過ぎない。それも、無理からぬところで、というのは、もともと、経済学にとって、もし市場機構による資源の配分方法を使用しなければ、どんな配分の規範を用いたらよいか、ということは、大問題である。それほど簡単に一般的な答えが出せる問題ではない。
3.水についての私的な論点
とくに水の場合に限って、水資源の配分については、どうであろうか。宇沢などの指摘と関連する形で、水自体の市場経済化議論には、弊害も伴うことは明らかである。たとえば、競争力のない人から最低限の必要な水を取り上げる、環境への影響が無視される、水に関係する風習・文化が保存されない、等が起こるおそれがあることである。これは、市場機構による経済の不足部分の議論と重なる部分が多い。
一般経済学からの視点は以上である。しかし、とくに水について、私は、幾つかの事実を指摘したい。たとえば、平成6年のようなまれに見るような大渇水で、とくに農業用水の配分については、どのようなことが起こったか、といえば、各地の農業用水で見られたのは、歴史的な昔から伝わっている、古来の分水の風習の復活であった。たとえば、大渇水のときには時間を決めて順番に配水するという「番水」の慣行も、ところによっては、昔ながらの箱に入った時計を持ち出しての時間の厳守が行われたりしたことは、記憶に新しい。
安井正巳は、愛知用水の場合を例にとって、水の配分の実例で、支払いが滞って、経済的な契約が実効を失ったとき、それを補うのは、無数と言ってもよいほど沢山の協定の積み重なりであったことを、細かに記している。
これらの事実から推測すれば、とくに水の場合について、市場機構による配分方法が使用できない場合、それに変わる配分の方法は、「ディスカッション(相談あるいは議論)の積み重ねによる協定」である、と考えることはできないか。単純に考えても、市場機構などの配分の規範が用いられないような非常事態が起これば、あとは、上に述べたように、協議(ディスカッション)をして分けるほかない。それも、ディスカッションの結果の協定が、十分に実効をもつには、十分な量のディスカッションの積み重ねがなされる必要があるように思われる。大渇水時に起こる昔から伝わる慣習を復活させての分水を、かつての大渇水の際に多大な量のディスカッションの(それは、流血を見るような紛争を調停するといった形でなされた場合すらあったであろう)が協定となって残っていたために、それが威力を発揮したものと、解釈する。そしてこれを変更するのには、かってを上回るディスカッションの量を必要とする故に、それができない場合には、かつての協定に従うしかなかった。
ディスカッションについてもう少し細かく見ると、ディスカッションも、ボトムアップのディスカッションである必要がある。この市場機構が働かない場合の資源配分をいかにするか、であるが、この点に関して、前述のカール・ポランニーは、古代ギリシャにおいて、皇帝が配分を定めた、という事実を指摘していた。しかし、それ以後、時代は移り、ソ連邦の崩壊によって、集権的な配分機構についての歴史的な実験は失敗に終わった。現在では、政府の集権的なトップダウンの決定には、反対する議論が多くなっているように見受けられる。
したがって、同じディスカッションの積み重ねといっても、とくに「ボトムアップ」のディスカッション、と条件をつけた方が好ましい。これらから考えて、私は、市場機構に代わる現在の配分の規範は、現場底辺で実際に水を扱う人々からの「ボトムアップのディスカッションの積み重ね」による決定であるとする。
このボトムアップのディスカッションは参加による方法、すなわち一種のパーティシペーションであり、ステークホルダー(利害関係者)が参加することである。これは農業用水あるいは水資源について、最近国際的にもとくに重要といわれてきたことであり、以上の議論は、これらが必要であるとする主張を、一面で裏付ける。
さらに、そう思って見ると、上で述べた一般経済学のアンチ市場経済派の各人の主張のなかにも、それをサポートするような記述を幾つか見出すことができる。
上に述べた宇沢の場合も、社会的共通資源の管理には、政府の管理は適当でない、という記述があるし、「社会的コンセンサス」の重要性という記述もある。アマルティア・センは、民主主義や人権の普遍的価値を形成するのは、「開かれた市民の公共議論」である、と言っている。これらは、いずれも市民レベルからの議論を意味しており、ボトムアップと呼ぶことができる。
4.水経済に関する今後の方向
仮に、これを是認して、水の配分に「ボトムアップのディスカッションの積み重ね」を、一つの規範とするとして、現代に住む我々は、どうしたらよいか。渇水で大議論がまき起こるのを待っているだけという訳にも行かない。現在の状況は、このディスカッションを恣意的に広く起こす必要性を抱いている。その際、ディスカッションの内容には、経済学の本流である市場主義の経済的要素も含まれうる。農業用水だけあまりにも安い費用しか分担していないとする一般の考えがあるときには、その修正も要素として含まれる可能性がある。環境・文化に関する配慮も含まれ、それらをすべて包括したものとなる。むしろ、現在において、とくに日本のような湿潤な気候の地域では、水に関する市場は、できたとしても不完全なものであろう。とすると、その不完全さを補うものは、このボトムアップのディスカッションであるとの位置づけも可能である。
最後に付け加えれば、将来の問題として、ボトムアップからのディスカッションの積み重ねによる協定を、水資源配分の規範として行動したらどうなるか。必要となるのは、ディスカッションをするための「組織」である。余談であるが、新しく住民のボトムアップからディスカッション・グループ形成をする経験が豊富なのは、都市計画の分野であろう。マスタープラン作成などにおいて、環境問題を含めての将来計画を立てる際のワークショップで力を発揮するのは、その地域の市民の団体である。これらが存在するときは、比較的に合意形成の作業が容易になるという。このような住民・市民を計画に参加させるのは、これに役立つ団体をどのように育成し、どのように組織化するかが、今後の重要な課題となることが想像できる。その組織の中に、都市的な要素をどう取り込んで行くかも一つの重要な要素になるであろう。
5.まとめ
以上、種々述べてきたが、要は、市場経済の是非については一般経済学で相当な議論の蓄積があることである。もし、我が国が水の市場経済化について反対の立場を取るとすれば、これらの市場反対議論のなかで、利用できるものは、利用して議論を進めるべきである。とくに最近においては、水といえども、希少資源であるという性格が強くなっており、その配分については、経済学一般の議論との対比は今後十分になされるべきかと思われる。広く、経済学の専門家を中心としつつも、技術者も協力しての十分な検討が望まれる。
〈参考文献〉
Paul Samuelson, Economics, 17th Edition, MacGraw Hill, 2001
Robert A. Mundell, Man and Economics, MacGraw Hill, 1971
K. ポランニー、玉野井芳郎他訳、『人間の経済 I, II』、岩波現代選書、1980
西川潤、『人間のための経済学』、岩波書店、2000
アマルティア・セン、大石りら訳、『貧困の克服』、集英社新書、2002
宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000
宇沢弘文、『ヴェブレン』、岩波書店、2000
ソースティン・ヴェブレン、高哲男訳、『有閑階級の理論』、ちくま学芸文庫、1998
安井正巳、新沢嘉芽統監修、『水の経済学』、日本経済新聞社、1975
玉城哲、『水の思想』、論創社、1979
志村博康、『現代農業水利と水資源』、東京大学出版会、1977
付記:この一文は第34回農業土木学会中央研修会(平成14年)における講演テキストの一部に加筆したものである。 |