ザンビアのある村の事例から
アフリカの農業を考える

一橋大学 大学院 社会学研究科
教授 児玉谷史朗

アフリカ農業の課題
 ここでは、ザンビアの首都近郊のある村を事例として、ザンビア、そしてアフリカの農業について考えてみたい。事例とする村は、筆者が他の研究者たちと共同で1990年代初めより調査研究してきた所である。

ザンビアの農業
 ザンビアは南部アフリカに位置する内陸国で、面積は日本の2倍だが、人口は約1000万人である。植民地時代の1920年代半ばに銅の大鉱脈が発見されて以来、銅鉱山が経済の中心となり、都市化が進んだ。最近に至るまで輸出の9割近くが銅で、農業は都市住民への食料を供給するのが主な役目であった。しかし1970年代半ばに起きた銅の国際価格の下落をきっかけに、以後長期の経済停滞に苦しんできた。銅依存の経済から脱却するために経済の多角化が課題であり、農業にも大きな期待がかけられてきたが、農業生産の実績は芳しくない。
 ザンビアの主食はトウモロコシ(ホワイトメイズとよばれ、粉にして熱湯で練ったものを食べる)である。トウモロコシの生産量は1980年代後半に150万トン以上まで増加したが、その後は100万トン前後で低迷している。近年輸出農産物として花卉や野菜といった園芸作物の生産が増えているが、その多くは首都近郊の大農場で生産されており、農村人口の多数を占める家族経営の小規模農家への影響は限られている。農村部での貧困削減という点で見れば、小規模農家の生産性向上や生活改善こそが鍵である。
 1990年代以降、ザンビアの農業・農村開発を取り巻く政治経済環境は激変した。経済自由化と政治の民主化である。特に経済自由化は農業にも直接的な影響を与えた。90年代初めまでトウモロコシを中心とする農産物と化学肥料などの投入財は政府が管理・統制する流通システムで取引されていた。それが90年代半ばに自由化され、だれでも自由に取引ができるようになり、価格も市場で決まるようになったのである。

事例の村
 事例として紹介する村は首都のルサカから100kmほど幹線道路を北上し、そこから約5km東に入った所に位置する。村がある場所は、首都ルサカや中央州の州都であるカブウェの町までの距離も遠くないので、農産物の出荷には便利な場所であり、大都市市場向けの野菜生産が盛んである。

ダンボでの野菜生産
 ザンビアでは大農場を別にすれば灌漑は限られている。これはアフリカ全体に共通する特徴である。ところがこの村や周辺では事情が異なっていて、ダンボと呼ばれる低湿地の農業的利用が盛んである。ダンボは雨季には冠水するが、乾季には地表面から水がなくなる。地下水位が高いので、乾季でも作物の生産が可能である。従来ダンボは放牧用の草地として利用される程度であったが、1980年代以降このあたり一帯では、ダンボで乾季にトマトやスイカ等の野菜を生産するようになった。この村の農業経営は、雨季には通常の畑で天水によってトウモロコシを中心とした作物を生産し、乾季にはダンボで野菜を生産するのだ。

整地された灌漑畑
整地された灌漑畑

ダンボ野菜生産とアフリカ農業
 村におけるダンボでの野菜生産は、アフリカの農業を考えるときに示唆的である。第一に、アフリカでは灌漑の普及度は低い。アフリカの課題である農業の生産性向上や集約化には灌漑の普及が不可欠だ。大規模な灌漑計画はコストが高くつき、維持管理にも手間がかかるので、一部の地域や農民に限定されている。期待されているのは小規模灌漑の普及である。この村で見られるような事例は貴重なのである。ごく最近までこの村で行われてきたダンボでの灌漑は、井戸を掘り、そこからバケツで水を汲んで作物の根本にまくという手作業中心である。野菜畑は小さいし、地下水位が高いので水まきは週に一度程度でよいから何とかなるが、重労働である。

 第二に、ダンボの土地の利用法や野菜栽培の技術は政府の農業普及員から教えられたのではなく、農民の間で自生的に広まったものである。村に来る民間商人が農民から野菜を買い付けるだけでなく、農民自身が近くの舗装道路の道端で野菜を売ったり、ルサカの市場商人に販売するなど流通に関与してきた。つまり生産技術や流通で国家の支援や統制がなく、農民や民間商人の力で発展してきたのである。

 第三の意味として、野菜生産が国内の都市向け市場生産だということである。アフリカの農業生産は食料生産、輸出用作物生産ともに伸び率が低く、人口増加率に追いついていないことが問題にされる。確かにその通りであるが、通常問題にされているのは食料ではコメなどの穀物、輸出用換金作物ではコーヒー、ココア、綿花などの伝統的輸出作物である。しかしアフリカでは重要な食用作物であるイモ類(特にキャッサバ)やプランテン・バナナ、そして野菜などの都市向け生産がかなり増加してきたことはあまり注目されていない。これは増大する都市人口への対応として発展してきたもので、国家の支援や統制がなく、農民自身や民間商人によって成長してきたのである。

トウモロコシ生産:「緑の革命」
 トウモロコシ生産は、野菜とは対照的である。トウモロコシは天水で栽培され、生産物、投入財の両面の流通で政府の支援・統制が強かった。政府は改良品種の開発・普及や化学肥料の普及にも力を入れ、トウモロコシの生産を奨励した。アフリカではアジアのコメや小麦で起きたような緑の革命が起きなかったと言われ、これがアジアに大きく後れを取った原因だと言われる。
 しかし、アフリカでも緑の革命に類似した農業変革がなかったわけではない。東南部アフリカにおけるトウモロコシがその例である。東南部アフリカではジンバブエやケニアを中心に、植民地時代の末期頃から白人大農場向けにトウモロコシの改良品種の開発や化学肥料の導入が行われ、独立後アフリカ人の小規模農民に対しても政策的に種子や肥料の普及が進められた。
 これらの国々では、トウモロコシが主食であり、都市化の進展に伴って需要が伸びたので、国策として増産が図られたのである。アジアの緑の革命のような灌漑は伴っていないが、改良品種の種子と化学肥料を農民に購入させて増産を図るという点では同様の要素を持っていた。これらの国々では国営の流通機関が農民に種子と化学肥料を販売し、農民からトウモロコシを買い上げていた。種子や化学肥料の価格もトウモロコシの価格も政府が一律に決めていた。改良品種や化学肥料の普及と国家による農産物、投入財の流通の統制・保護とがセットになっていたのである。

トウモロコシ生産と野菜生産の組み合わせ
 事例の村の農民の多くは、統制市場向けのトウモロコシ生産と自由市場向けの野菜生産を組み合わせて経営してきた。
 最初に調査した1992年には雨季の普通畑でのトウモロコシ生産と乾季のダンボでの野菜生産が組み合わされることで、農業経営の安定と収益の増加が実現されていることが注目された。ダンボでの野菜生産は従来十分使われていなかった土地の有効利用であり、乾季に労働力を有効に活用することにもつながっていた。普通畑とダンボの両方で生産が営まれていることは、リスク分散になっており、またダンボの野菜生産からの現金収入が次の雨季のトウモロコシ生産に必要な投入財の調達や牛、犁、牛車等の購入を可能にしていた。

農業流通自由化の影響
 1990年代中頃まで、トウモロコシ生産と野菜生産をうまく組み合わせていた、事例の村の農業経営であるが、90年代中頃から状況が変化してきた。最も大きな影響を与えたのが、農業流通の自由化である。
 1980年代後半頃からアフリカの多くの国は、世界銀行、国際通貨基金の指導で構造調整政策という経済自由化政策を導入するようになった。この政策の一環として、農業関係の流通の自由化も進められた。ザンビアでは、90年代の初めに農産物と化学肥料などの投入財の流通が自由化された。価格も市場原理に従って変動するようになった。自由化によってトウモロコシの価格よりも化学肥料の価格の方が大きく上昇した。もちろん自由市場になったので、季節や年々の価格変動があり、地域によっても価格は異なるが、自由化以前にはトウモロコシ1袋と化学肥料1袋の価格がほぼ1対1であったものが、1対2から1対3くらいになった。農民にとってトウモロコシ生産は以前ほど魅力的でなくなったのである。特に、都市部から遠く離れ、交通の便も悪い地域の農民にとっては化学肥料を使ったトウモロコシの生産は困難になった。「緑の革命」が自由化によって持続しなくなったのである。アフリカではアジアと比べて農民が貧しく、道路などのインフラが未整備なので、国家の支援なしに農民の財力と市場原理だけで緑の革命を維持するのは難しい。
 事例の村は交通の便のよい所に立地しており、自由化しても大きな不利はないように思われたのだが、この村でも肥料価格の高騰や肥料が入手できないという状況がトウモロコシ生産を制約した。野菜生産に関して言えば、事例の村の農民は自由化政策以前から農産物を自由市場に販売していた。この村の農民にとって自由市場や民間商人は、決して目新しいものではなかった。それにもかかわらずの自由化に対する農民の反応は概して否定的であった。野菜の市場が自由市場であることは当然のこととして前提しているが、トウモロコシについては自由化以前の安定して、確実な制度の方を好むのである。

トマト畑
トマト畑

森林保護区への入植
 農業流通の自由化と同じ頃に、変化がもう一つあった。村の東側には村と接して国有林の森林保護区が設定されている。事例の村自体が1970年代に開拓された新しい村で、それまでは一帯は森林(ただし保護区ではない)であった。ザンビアもアフリカでの例にもれず人口増加率が高く、人口増加に伴って農地が拡大してきた。森林減少の最大の要因は農地への転換である。農業生産の増加は、生産性の向上よりは農地の外延的拡大によってきた。特に事例の村のように便利のよい地域では人口が急速に増加した。この村でも新規村民の流入による人口増加の結果、しだいに土地不足の問題が起きてきた。1992年にはこのあたり一帯を支配する首長が増加する土地係争の背景に土地不足があるとして、村長達に人口増加を抑制するように訴えている。
 村の東にある森林保護区に対して、1994年頃から首長が入植を許可するようになった。本来政府が管理し、国有地である保護区に対して伝統的支配者である首長には入植を認める権限はないのであるが、これをきっかけに、森林保護区の「解禁」が進んだ。周辺の村から森林保護区への入植は急速に進み、97年の時点ではすでに20以上の村ができた。事例の村からも15世帯近くが森林保護区に転出した。2002年頃までには森林保護区の景観は村の景観と変わらないまでになってしまった。

 森林を開墾した直後の土地は肥沃度が高く、化学肥料を施肥しなくても収量は高い。開墾する労働力さえあれば、広い土地を入手できる。森に移った農民が何百袋というトウモロコシを収穫したといった話が事例の村にも伝わってきた。森林保護区への入植は農業流通自由化への対応として起きた訳ではないが、経済自由化に伴う化学肥料の価格上昇や入手困難への対応としては一つの有効な方法となったのである。もっぱら農地の外延的拡大によって農業生産の増加を実現してきたアフリカにおいて緑の革命のような土地生産性の向上は、農地拡大に歯止めをかける意味がある。しかしこの事例に見られるように国家管理の緑の革命が挫折したことで、農地の外延的拡大が進んでいるのである。

援助の導入:足踏みポンプと貯蓄グループ
 森林保護区への入植は村の土地不足を緩和したけれども、多数の農民は村にとどまった。村においても政治経済条件の変化に応じて農民はさまざまな対応をとったが、2001年頃からまた変化が現れた。外部からの援助によって新しい農法や技術が持ち込まれ、農民グループが結成されるようになったのである。
 ある援助で行われたのは、足踏み式ポンプによる灌漑と貯蓄グループの結成である。前に説明したように、従来はバケツ灌漑であった。これに対して足踏み式ポンプによる灌漑では少ない労力で多く給水でき、確実で高い生産性が期待できる。足踏み式ポンプはザンビア各地でNGOや援助機関が普及を試みている。
 事例の村では15世帯程度の農民にグループを結成させ、グループに対する支援という形で援助が行われた。グループの農民は足踏み式ポンプを購入する代金を融資され、これを一定期間内に分割払いで返済する。返済された代金はグループの財産として、銀行に貯金される。グループのメンバーがその後も行う貯金と合わせて、この貯金口座からメンバーは必要なときに融資を受けることができる仕組みである。小規模灌漑の普及とマイクロファイナンスを組み合わせたようなプロジェクトだ。足踏み式ポンプが導入されるだけでなく、整地、施肥量、作物、輪作についてNGOから技術指導があり、合理的な土地利用、農業経営の実現が可能となる。

環境保全型農業の試み
 もう一つ別のプロジェクトを経由して入ってきたのが、環境保全型農業(conservation farming)である。これも1990年代以降ザンビア各地で主に欧米のNGOが普及させている。その内容はいくつかの種類があるが、事例の村に入ってきたのは、最小耕耘法(minimum tillage)と土壌保全である。従来ザンビアの南部、東部、中部で広く行われてきた畑での耕作の仕方は、牛に引かせる犁で耕起するものである。これだと土地を全面的に耕起することになり、すき返された表土が風や雨で流出してしまう。最小耕耘法では、種を蒔く場所だけレンガの大きさくらい四角に掘り、そこに播種し施肥する。このような四角を畑の中にいくつか作るのであるが、それ以外の部分は全く掘り返さない。また根が深くはる特別な草を畑の境界に植えて土壌浸食を防ぐ。事例の村では傾斜地は少ないものの、土壌が砂質で土壌浸食がよく見られるので、一定の効果があるのかもしれない。
 環境保全型農業、有機農業など、いわゆる持続可能な農業をアフリカに普及しようという試みは欧米のNGOを中心に近年盛んである。アフリカでは農業が環境破壊や資源の枯渇を引き起こし、それが農業を制約するという悪循環が存在するという認識が広く受け入れられているからだ。また全般的に環境問題に対する認識が高まっていることもあろう。
 ここには、緑の革命のような農業の近代化と環境保全型の農業のどちらによって、農業問題を解決するべきかという問題がある。
 世界でもアフリカは化学肥料の使用量が最も少ない地域である。化学肥料に限らず、アフリカの小規模農民は農薬、改良品種の種子など、近代的投入財とか購入投入財といわれるものは、ほとんど使用してこなかった。大量の化学肥料や農薬を使ってきたことの反省として、あるいは消費者の健康、安全志向から有機農業が推進されている先進国や、緑の革命があったアジアとは事情がだいぶ違う。アフリカで有機農業が受け入れられているのは、環境的理由からというよりも、経済的、財政的理由からである。多くの農民が高価な化学肥料や農薬を買えず、政府もこれに補助金を出すことは難しい情勢にある。

 一見すると環境保全型農業の方が、高価な化学肥料や農薬に依存することなく、環境にも優しいので、現在のアフリカの状況にあった優れたものであるように見える。確かに化学肥料等の高価な投入財に依存しないので、コストが安くてすむが、さまざまな作業に労働の投入量が多くなり、手間がかかる。また投入コストは安くても収量は必ずしも多くを望めないので、採算の点で優れているとは限らない。化学肥料や農薬は、多投すれば環境破壊を引き起こすが、他方では土地生産性の向上によって少ない面積で同じ収量が達成できれば、耕地の外延的拡大を抑制することができ、森林破壊等の環境破壊も抑える効果がある。生産性を向上させ、同時に環境的に持続可能な農業を実現するのがアフリカ農業の課題といえよう。

前のページに戻る