パプアニューギニアに稲作を普及する
有機農法のラバウル人材基地

オイスカ・ラバウル・エコテック研修センター

パプアニューギニアという国
 日本から南下して赤道を少し越えたあたりに位置する国、パプアニューギニア(以下、PNG)。日本の約1.2倍の国土面積に住む人口はおよそ570万人です。部族社会の伝統は、いまも農村地帯や山間奥地に色濃く残っています。日本のTV番組などで時々、はんぶん裸の男が顔や胴体を派手に彩って、羽根飾りや弓矢などを持って、闊歩している姿が紹介されますが、あれは祭事などの時だけのスタイルで、PNGはあの「原始的」な人たちばかりが暮らす国だ、と考えるのはまちがいです。
 人類がはじめてPNGの地へ辿り着いたのは、紀元前5万年頃と推定されており、紀元前8000年頃には農耕をしていたことを示す遺跡も見つかっています。欧米人で最初にPNGを訪れたのはポルトガル人航海者ドン・メネセスで、1526年の上陸時に、その地に暮らす人の風貌から「パプア」と命名(「パプア」はマレー語で「縮れた毛」の意味)しました。第二次世界大戦で日本と連合軍の激戦地区となった後、1946年にオーストラリアを施政権者とする国連の信託統治地域となり、1975年に独立しました。
 同国はオーストラリアの影響を大きく受けており、それは稲作関連の政策についても例外ではありません。PNGは、元来はイモ食文化の中心ですが、近年は都市部での非農業人口の増加や食生活の変化により、コメの需要が高まっています。また、今後、見込まれる同国の人口増加に対応するためにも、栄養価が高く単位面積当たりの人口扶養力も大きい、コメの生産拡大は不可欠とされています。
 コメは熱帯性の植物であり、気候風土的にはPNGでも稲作は十分に可能です。しかしこれまでは、オーストラリアの輸出政策に基づく意図的なキャンペーン(「PNGでは稲作は不可能」)により、オーストラリア産のコメを輸入してきました。PNGで放映されるテレビでは、筋肉隆々の男が登場して、「コメを食べたらこんなに逞しくなる」と宣伝するオーストラリア産米のCMが頻繁に流されています。
 貿易収支を改善するためにも、コメの輸入量を減らして、その自給を高めることは、PNGの農業・経済政策のなかで優先順位の高い課題になっています。そこで、PNG国内で農業分野の人材育成に努めているNGO・オイスカに期待が寄せられています。

オイスカの農業研修事業と稲作普及
 オイスカは1987年、ニューブリテン島にある東ニューブリテン州のラバウルに「オイスカ・ラバウル・エコテック研修センター」を設立して、農業を中心に地域開発に取り組む青年の育成に努めています(エコテックとは、Ecological Technologyの略称)。私は2001年から約1年間、ここでスタッフとして活動しました。現在はオイスカ東京本部(東京都杉並区)に勤務し、PNGを相手国とする業務の調整を担当しています。
 今年で17年目を迎えるオイスカ・ラバウル・エコテック研修センターは、有機・循環農業が学べるほとんど唯一の場所として、PNG各地から、青年が研修を受けに集まってきます。はじめは少人数で始まった研修も、現在では長期(2年間)や短期(半年や3か月など)コースなどを含めると、常時100人近い研修生がいます。
 研修生たちにとって、スケジュールに沿った規則正しい生活は初めてのことが多く、とまどう場面も少なくありません。約160haの敷地のなかに、水田、畑、養鶏、養豚、養魚、ワニやチョウの養殖、植林用の樹木の育苗など、バラエティー豊かな農業研修科目があり、作業は肉体的にきついものがあります。それでも、午後の作業が終わって夕方になり、サッカー、ラグビー、ソフトボールなどのスポーツに興じる研修生たちの様子を見ていると、その元気さに感心してしまいます。夜は日本語クラスや農業講義もあります。
 稲作には、研修センター設立当初から積極的に取り組んできた経緯があります。研修センター内に1haほどの水田を造成し、数年後にはモデル水田として、一応の成功は収めました。しかし、当時の農法は化学肥料や農薬に頼っていたのも事実で、そうした資材を購入する経済力のない周辺農家へ、そのまま普及させるには無理がありました。現所長の荏原美知勝が着任してからは、有機農法への転換を進めて、一時はウンカやカメムシの大発生など壊滅的な打撃を受け、研修生やスタッフも農法に疑問を呈するなど幾多の試練がありました。しかし、研修センター内で出る豚糞を堆肥に利用するなどの工夫をこらし、90年代末頃には、センターの水田に豊かな稲穂が稔るようになりました。
 2001年から、オイスカではJICA(国際協力機構)、DAL(PNG農業省)と協力して、稲作普及活動を対象とした委託短期研修を実施しています。各地域でDALが選出した青年が稲作の研修を1か月間受けるもので、いままでに9州からの200人近い卒業生を送り出しています。彼らは自分の村に戻り、モデルファーマーとして農民たちに稲作を広める務めがあります。帰郷後の彼らの活動ぶりをみるモニタリング調査も、2002年から始まり、ある州では8人のモデルファーマーが精力的に普及活動を続け、前例にない速さで、稲作が普及していると聞きました。

まず「人材」ありき
 研修の成果が出て、稲作を自分の肌で会得した人材が育っています。その1人、フランシス・トレバは、いまでは「ライス・スペシャリスト」と呼ばれ、PNGの農業関係者の間では有名人。研修センターの第一期研修生だった彼は、日本にあるオイスカの研修センターでも1年間学び、その後はラバウルの研修センターで稲作の指導者に育ち、稲作研修の責任者として、自分から率先して田んぼに入って指導するほか、大学での講師も勤めています。

 トレバの出身地である東ニューブリテン州ポミオ地区は、ラバウルから船で1日がかりで到達するような場所で、電気・ガスの供給がまったくありません。山が海岸近くまで迫る地形で、焼き畑以外の方法で作物を栽培することが困難であり、村人の多くは樹木の伐採、ココナツの収穫、漁業などで生計を立てています。数年前、エルニーニョ現象の影響による大干ばつで、PNG全体が打撃を受けました。この地域の人々も飢餓状態を経験したことにより、比較的安定した収穫が見込めるコメの栽培には、地元にとっても、大きな期待がもたれています。彼は自分の出身地でも、稲作の普及を試みています。
 地形的に水田稲作をすぐに行うには無理があるため、トレバは研修センターから種籾の提供を受けて、村人への陸稲栽培指導を4年前から始めました。これまでに収穫されたのは籾にして約7トン。移動をしない耕地での稲作栽培が普及すれば、粗放な焼畑耕作が減ることにもなります。結果的に森林保全にも寄与することから、その意義も認められ、2001年からはコスモ石油の支援を頂くことになり、同地区へ精米機の寄贈を受けました。稲作のいっそうの普及が見込まれ、彼は忙しくなる一方です。
 フランシスのほかにも、研修の卒業生がラバウル近郊のヴダル農業大学の稲作責任者として採用されました。

コメの可能性
 食料自給率が40%を下回っていながら、コメの消費量が減っている日本は別として、世界各地、とくに発展途上地域では、コメの生産拡大や栽培普及に期待がかけられています。「国際コメ年日本委員会」は、「コメは世界の人口の半分以上の人々を養う作物。コメを持続可能かつ効率的に生産することは、食糧安全保障や貧困緩和に不可欠であり、基礎的食料としてのコメの重要性を広く認識してもらうことが、『国際コメ年』の目的」と趣意に述べています。
 コメは、単位面積当たりの生産量が多くて栄養価も高いため、アジアをはじめ世界中の農村で進められている稲作普及・改善プロジェクトは、いままで以上に注目されていくべきです。PNGも、その潮流の一端に位置しており、コメの栽培普及の必要性が高まっていることは先に述べたとおりです。オイスカがPNGで長年実践している取り組みも、その一事例として、今後ますます膨らむ期待に応えていくことが今後の課題です。
(文責 オイスカ本部 地域第3部スタッフ  ロメル池田)

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