21世紀のランドスケープ

東京大学大学院・新領域創成科学研究科
博士課程 藤田直子
東京大学大学院
工学系研究科
博士課程 川添善行
東京大学大学院
農学生命科学研究科
修士課程 矢野初美

― ランドスケープについては、それぞれにお考えがあるでしょうが、キーワードを3つあげて下さいますか。
川添 川、緑、人です。
藤田 自然、文化、社会です。
矢野 生き物、環境基盤、人の価値観です。

― マイナスの意味で、気になっているランドスケープをあげて下さいますか。そこから、いまのキーワードがつながっていくと思います。

川添 汐留に近い浜離宮から浅草まで、船で上るというツアーがありました。川から両岸を見ると、まるで陸から拒絶されている感があります。誰も川の近くでは遊ばないし、建物も背を向けているようです。浜離宮は海の干満を生かし、庭園の表情が刻一刻、変化するのです。つまり、人が自然を上手に生かしている。それは、人が自然と向かい合っていたからこそできた技なのでしょう。
 しかし、近代のコンクリート護岸は川と陸をひたすら隔絶するものでした。川と陸と人がなじむ、そんな方向にできればと思います。日本橋では老舗のおじいさんや若旦那たちが、日本橋川でボートをこいでみたりしている。みこしを担いだりもする。新たに、何かハードなものを造るのではなく、すでにあるものを生かした、ソフトなランドスケープづくりに取り組んでいます。何が大切であるかを決めるのは、人の意識なのです。

藤田 見た目のランドスケープですと、押しつけがましい借景が気になります。本来、借景といえばプラス効果なのですが、いやでも目に飛び込んでくる巨大建築物があります。品川や汐留が典型で、そこに立つと自分の視線ではもう回避できません。後楽園もそうです。ドームの巨大な丸屋根に圧倒されます。建てる側のまなざしだけで、それが完成したとき外からどう映るのか、他人の視線への配慮がないのです。
川添 その通りだと思います。東京ドームは空気を入れて風船のように膨らませて造るという、最先端の技術です。設計した人たちは、それを見せたいのです。「私の設計はすごいでしょ」と。でも周囲から見ると、必ずしも受け容れられない。しかし、日本の建築行政は違法性がなければ、何でも建てられるのです。極論ですが、ドイツでは基本的には建ててはいけないのです。街並み全体に調和するものだけ、許可されるわけです。

矢野 私はつい最近、新幹線に乗る機会がありました。駅が近づくにつれて、どこでも、似たような街並みが展開してきます。もう少し、地域性を大切にできないでしょうか。都市的な利便性のみを求めると、そうなりがちなのでしょうか。地方自治体とそこで生活をする人々が、都市追随ではなく地域を愛して、地域の独自性を生かした展開ができないのでしょうか。都会的要素があって、仕事があるだけではなく、遊べる場もある。そういう願いも当然でしょうが、東京の表情をまねる必要はないと思います。生き物とそれを支えている、地形や地質にとって無理のないランドスケープが望ましいと思います。

― 自分の家でしたら、気になるところは直せばよいのでしょうが、ランドスケープは多くの人々が、どのような価値観を、どこまで共有できるかに左右されてくるようですが。

藤田 ランドスケープの良し悪しを判断する価値観は、つまるところ日本人の自然観にいきつくのではないかと思っています。私は「都市にも緑が必要」という前提で、ものごとを考えていますが、時折、「都市に緑なんか必要なの?」と言われたりします。前提の価値観が正反対だと、「えっ?どうしてそんなことを思うの」というわけで、自分とはちがう価値観を思い知らされます。どうしたら、どこまで価値観を共有できるのか、難しい課題です。

川添 「在るべき」で良し悪しを判断するより、「在るがまま」を見つめて評価すれば、そのランドスケープの特長を活かして、経済性に乗った方向で修正していけます。たとえば埼玉県の川越市。蔵の建ち並ぶ歴史あるところなのですが、戦後に駅が蔵の街並みから離れたところにできたり、大きなデパートがそちらにできたりして、市の中心部が移ってしまいました。こうして廃れていったのですが、蔵の町をよみがえらせようと、電柱を撤去して、電線は地下を通し、蔵づくりに手入れをしたら、観光客が訪れるようになり、商業的にも復活しました。地域資源を評価して、価値を付加して、経済性に乗せた事例です。文化とか環境だけでなく、そこに生活する人々の利便性も十二分に配慮する必要があります。

藤田 私もそう思います。東京に住んでいる人々が、自分たちは都市の利便性や文化を満喫していながら、遠くの里山や棚田は素晴しいものだから保全してくださいと言っても、地元の人の耳には受け容れられません。「そんなら、あなた方もこっちへ来て汗流して保全活動してみたら」という気持ちがあるでしょう。田舎だって、コンビニが欲しい。「美しき日本」という憧憬から、「あって欲しい」ランドスケープを地方に一方的に押しつけても、それは無理です。自然だけでものを見ない、文化だけでもない、社会だけでもない、むしろこの3つをつなぐのがランドスケープだと思います。

― 最後に、「これからのランドスケープ」ということで。

川添 オランダで調査・研究をしていたことがあります。午後も3時すぎになると、働きざかりのおじさんたちが、けっこうスーパーに買い物に来てたりする。そして、運河沿いで、気持よさそうにビールなんか飲んでいるんです。ワークシェアリングで労働時間が短いのです。運河、そして古いビルといったランドスケープを楽しんでいる。何も新しいビルを建てなくたって、十分に楽しい生き方がある。日本はきっと無理です。フルタイム組みに入るか、失業するかでワークシェアリングは社会的になかなか、受け容れられない。頑張って、ガンバッテ、勝ち組か負け組かしか考えない。経済成長を求めたり、何か高層ビルを建てても、ハッピーにはなれない、そのことに早く気づくといいですね。

藤田 私も、すでにあるランドスケープを評価して、今日の、そして未来の価値を見い出していくことが大切だと思います。ノスタルジーで封じ込めたランドスケープを残していくのは難しいでしょう。先にもありましたが、必要な価値は付加して、経済性に乗せればいい。何もかもを、新しくつくっていく必要はありません。

矢野 人はその価値観によって、ランドスケープを変えることができます。だからこそ、よく考えて現状を維持したり、改善したり、新しく創造していかなくてはいけないと思います。最初から完成されたものでなくても、よいのでないでしょうか。もっと現実的になれと言われるかもしれませんが、それぞれの環境基盤や生き物が各々ペースを持っていることを念頭において、その特性を引き出して、ゆっくりと時間をかければ、やがて心地よいと感じられるものになるのではないでしょうか。私は、生きた「呼吸するランドスケープ」にできたらいいなと思います。

(2004年7月6日実施 文責編集事務局)

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