人間の心の中に木を植える
-森は海を海は森を恋ながら悠久よりの愛紡ぎゆく-

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「美しいランドスケープを守る」ということに、異論を唱える人はほとんどいない。しかし、実際にそのランドスケープを守り再生するために、具体的な行動を求められると、賛同者はぐっと減る。しかも、単発的な行動だけでは、永続的にランドスケープを守ることにつながらないという難しさもある。
 本来ならば、その土地に暮らす人々の日々の営みのなかで、農地や森林に人の手が加えられ、結果的にそれが、彼らの生活の糧にもなり、同時にランドスケープも守られるという姿が理想だ。近年、保全運動が高まっている里山も、本来は、近隣農家が堆肥を作るために落ち葉かきをし、間伐材を炭焼きするという営みのなかで、結果的に守られてきた。それが、化学肥料と石油エネルギーの登場で、利用価値がなくなり、徐々に存在を忘れられてきた。昭和30年代、全国各地で植林された杉や檜も、輸入材の増加で利用価値を失い、森林は放置されるようになった。
 しかし、山里に暮らす人々にとっては利用価値がなくなり、見捨てられた山々に、新たな存在価値を見い出した人たちがいる。山を水源として流れる川の終着点、海に住む漁民たちだ。1988年、「魚付き林」を再生しようと、北海道漁連を中心に山への植林運動が始まり、その後、各地の漁連へと運動が波及していったことは、よく知られている。
 同じ88年、宮城県気仙沼湾の牡蠣養殖業者たちの間でも、独自の植林運動が始まっていた。森と川、そして海の有機的なつながりを表した「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、全国的に有名になった「牡蠣の森を慕う会」の人々の活動である。

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「山の森」と「海の森」
 植林を呼びかけたのは、全国屈指の養殖牡蠣産地、気仙沼湾で牡蠣養殖業を営む畠山重篤さんだ。その畠山さんは言う。「気仙沼湾では、牡蠣、ホタテ貝、ワカメ、昆布などが養殖されていますが、育てるためにエサや肥料を与えることは一切ないんです。種苗をつり下げておけば、ひとりでに育ってくれる。漁師たちは、そのエサや養分は、すべて外海の潮が運んでくると思ってきた。ところが、実はちがったんですね。河川水が流れ込む海と、そうでない海とでは、植物プランクトンの発生が30倍から100倍もちがうことが分かったんです」
 森林の腐葉土に染み込んだ雨水は、腐葉土の養分をたっぷりと含み、さらに土中の岩石のミネラル分ももらいながら、河川に流れ込む。その河川水の養分が海に注ぎ、海藻や魚介類を育てているというのだ。雪や雨が降らないと、魚介類の育ちが悪くなることに、漁民たちは経験から気づいていたという。

畠山重篤さん畠山重篤さん

山の森林と同じように、海の中にも森がある。河川から流れ込む淡水と海水が混じり合う河口域だ。淡水でも海水でもないこの水域は、「汽水域」と呼ばれる。
 汽水域には海藻が繁茂して森(海中林)をつくる。植物プランクトンも大量に生息して、山の森林と同様に光合成を行っている。その力は、森林のCO2吸収力に匹敵するとも言われる。
 その汽水域こそが、海の恵みの宝庫なのだ、と畠山さんは言う。
 つまり、山の森の豊かさは、川を通じて、海の森の豊かさも育んでいるのだ。山の森が荒れれば、合わせ鏡のように海の森も荒れる。そして、この二つの森をつなぐ川が汚れても、海の森は汚れる。「その点、牡蠣という生き物は、貝のなかでも、ものすごく象徴的な生き物なんです」と畠山さんが教えてくれた。「牡蠣は、ワタをとれないでしょう。しかも生で食べる。川が汚れても、他の貝はワタをとるから食品として、それほど影響がありませんが、牡蠣はそうはいかないんです」

森は海の恋人
 畠山さんたちが、植林運動を始める以前、昭和40年代には、すでに、気仙沼湾の海の森には異変が起きていた。それまで全国的に評価の高かった気仙沼の海苔養殖が、水質悪化によって全滅した。夏には赤潮もたびたび発生するようになり、赤潮プランクトンによって牡蠣の身が真っ赤になる“血牡蠣”が発生するようになった。気仙沼湾に流れ込む大川が、護岸工事によってコンクリートで固められ、水を浄化してくれる水生生物が減少したほか、生活排水や農業排水の流入も原因となっていた。
 さらに、88年、気仙沼湾に注ぐ大川の河口からわずか8キロ上流にダムを建設する最終計画案が公表された。

 河川環境が保全されているフランスの牡蠣養殖場などを視察し、河川の豊かさと漁場環境との関係を感じとっていた畠山さんは、漁場を守るためには、河川と上流の森林を守る必要があることを訴え、植林を呼びかけた。この呼びかけに、唐桑漁協の組合長をはじめ、70人の漁民が応じた。
 全長27キロあまりの大川は、宮城県の県境を越えた岩手県室根村の山々が水源になっている。その山のなかでも象徴的なのが、漁民たちが航海安全を祈願する室根神社を擁する室根山だった。
「牡蠣の森を慕う会」の植林は、この室根山が最初の舞台となった。畠山さんたちは「ダム建設反対」ののぼりを掲げるかわりに、色とりどりの大漁旗を何百枚も室根山に掲げ、植樹祭を始めた。「もちろん、1〜2ヘクタールに木を植えて、水質が簡単に変わるわけもないですよ」と畠山さんは笑う。「ねらいは、流域の住民の方々に、森と川と海がつながっているという意識を持ってもらうということでした。それと、自然はつながっているわけだから、宮城県と岩手県という違いはないんだと、行政にも訴えたかった。15年前には、岩手県と宮城県、県境を超えた運動は珍しかったんですよ」
 流域に住む人々に訴えかけるキャッチフレーズにこだわったのも、そのせいだ。畠山さんは、海と大川上流の関係を調べに流域一帯に足を運ぶうち、中央歌壇でも評価の高かった昭和初期の歌人・熊谷武雄の生家が手長山の麓にあることを知った。孫娘の龍子さんが、今もそこに住んで、やはり歌人として活躍していた。
 龍子さんを尋ねた畠山さんは、海を守るために室根山への植林運動を計画していることを話し、人の心を打つような表題をつくるのに力を貸して欲しいと頼んだ。何度も海に招いて船から室根山や手長山を見てもらい、養殖筏や海底の様子も観察してもらった。そこから、この一句が生まれた。

 森は海を海は森を恋ながら
  悠久よりの愛紡ぎゆく

 運動のキャッチフレーズは決まった。「森は海の恋人」と大きく書かれた看板が、ダム建設予定地に近い大川の中流域に立てられた。

“山の民”が変わり始めた
 言葉の力は大きい。看板に書かれたこの言葉が、上流域の室根村に暮らすひとりの農家の心を大きく揺さぶり、その後の生き方まで変えてしまったのである。当時30歳代で、室根村12区自治会の産業部長を務めていた小野寺寛さんだ。

小野寺寛さん小野寺寛さん


「なんだか、その言葉ひとつに、自分のやりたい農業が集約されているような気がしてさ」と、小野寺さんは振り返る。当時は養鶏農家だった。室根村は、全国でもブロイラー導入の早い地域で、小野寺さんも73年、ブロイラー養鶏を始めた。「最初は採卵鶏の鶏舎のように、ただ金網を張ればいいような鶏舎だった。冬になると水が凍ってね(笑)。出荷時の鶏の体重も1.5キロ程度。今の半分くらいしかなかった」と笑う。
 その後、経営効率化のなかでウィンドレス鶏舎が登場し、規模拡大が進む。食肉消費が急増した70年代は、出荷すればするだけ売れた。「その頃は、ブロイラーのおかげで生活できると思っていた。翌日にヒナが来るからと、その準備に夜中の1時過ぎまでかかっても、大変だと思わなかった。頑張れば収入につながる。やりがいのある時代ではあったよね」
 ところが、500羽規模では小さい、さらには1000羽規模でも将来危ないと、養鶏業界では急テンポで規模拡大が進んでいく。そのテンポについていけない農家は養鶏から離れていき、室根村でも養鶏農家は減少していった。
 小野寺さんは、5万羽まで拡大した。ところが、その後すぐに「年間25万〜30万羽規模でなければ将来危ない」と言われる時代に突入する。「正直に言うと、その頃は薬と病気のいたちごっこだった。それに、人間というのは太陽の恵みをいただいて、そこで育ったものを吸収して生きるんだと、農家として肌で感じてきたのに、ウィンドレス鶏舎で育てるブロイラーは、太陽とは全く無縁の産物だったんだよね。粉塵のなかでの作業が、私自身のからだを壊す原因にもなった」
 さらに規模拡大するか、それとも養鶏をやめるか。気持ちが揺れていた。「自分がめざしていた農業とはちがうのではないか。そんな気持ちでいるときに、畠山さんが立てた『森は海の恋人』の看板に出会ったわけさ」と小野寺さんは振り返る。

 室根村は、人口が約6800人、林野率72%という典型的な山間地で、村全域が特定農山村地域の指定を受けている。主産業は農林業だが、他の山間地と同様に、高齢化と後継者不足のなかで、耕作放棄地が目立ち始めていた。
 もちろん、20キロも離れた気仙沼湾の人々と、川を通してつながっているという発想も、それまでなかった。畠山さんたちが初めて植林を行った年、室根村の住民の参加者は、数えるほどしかいなかった。

農業が変わり、
漁村と農村の交流が生まれた

 転機を作ったのは、小野寺さんだった。91年、室根村12区自治会で、畠山さんを講師に招き「森は海の恋人」をテーマに講演会を開いたのだ。「そのときに、畠山さんの『上流に対する感謝の気持ち』っていうのに出会ったのね。今まで、下流から感謝されたことなんて、なかったんだよ。それまで、下流のことを考えて行動を起こすことなどなかったんだけれど、ありがとうっていう感謝に対して、私らのお返しの気持ちが自然に出てきたんだよね」
 12区自治会は、矢越地区という集落が中心で、もともと地域活動が活発な地域だった。畠山さんの講演をきっかけに、すぐに小野寺さんや会長の小岩邦彦さんたちが動き始めた。

 矢越地区には、標高約600メートルの矢越山がある。矢越地区の水源であり、気仙沼湾に注ぐ大川の上流でもある。小野寺さんたちは、93年、その矢越山に自分たちで植林運動を始め、畠山さんら漁業関係者にも協力を呼びかけた。その後、毎年6月に行われる「森は海の恋人」植樹祭は、この矢越山が中心となる。
 植林地は「ひこばえの森」と名付けられ、その面積は約11ヘクタールまで広がっている。参加者も、大川流域の住民、地元の小学生、さらには仙台市周辺や首都圏の消費者たちまで広がり、開始から16年を経た今年も約750人が植樹祭に集まった。


 植林する場所は、「分収制度」を利用して村が提供した。「分収制度」とは、植林した木が成長した後、伐採・販売して得た収入を村と植林者で分ける制度だ。もちろん、「植えたのは広葉樹で、成長しても商品価値は低いですから、伐採するつもりはありません」(室根村農林課)というから、実質的には村の無償提供である。

 植林とともに、自治会で年2回行っている河川敷の草刈りも変わっていった。従来は水際まですべて刈り取って、草は川岸に放置して下流に流れるままにしていたのを、水際1メートルは草を残し、刈り取った草も持ち帰るようになった。
 大雨になると、これらの草が大量に気仙沼湾に流れ込み、海辺ではその除去作業に苦労していることを知ったからだった。また、水辺の草を残すと、そこは、水を浄化してくれる水生生物たちの住み家にもなる。
 この動きは、その後、12区自治会から村内全域に広がり、河口に流れ込む草は目に見えて少なくなった。
 さらに稲作でも、なるべく水を汚さない配慮から、環境保全型に変化していった。除草剤の使用は初期のみで、あとは除草機を使う低農薬栽培に切り換える農家が増えた。
 これと平行して、矢越地区の12区自治会では、92年に「水車のある集落づくり構想」を作った。矢越山のふもとに水車小屋を復元し、生態系に沿った農業や生活のあり方を見直すシンボルにしよう。それを地域興しの核にしようという構想だった。93年には住民手作りの水車小屋が完成し、「こっとんこ」と名付けられた。
 この水車小屋は、現実に室根村の地域興しの起爆剤になった。この水車小屋を中心に、「森は海の恋人植樹祭」に合わせて水車フェスティバルが行われ、毎月1回、地場産品を直売する「こっとんこ市」も始まったのだ。
 こっとんこ市には、室根村の農産物だけでなく、植林を通じて交流が深まった気仙沼湾の漁師たちの魚介類も、破格の値段で並ぶ。仙台をはじめ県外からも、この市を目当てに人々が室根村に訪れるようになった。「最初は、水車小屋で地域興しなんて、地元の人たちも半信半疑だった。でも、水車小屋が完成すると、水車そのものを見に来る人が、次から次と来るようになった。そういう人たちを見ると、日本人には原風景に対する思いがあるんだな、その風景を大切にするのは、悪いことではないなと、地元のみんなが思うようになってきた」と小野寺さんが言うように、漁民による植林運動は、全国各地に見られるようになったが、その運動が上流にある村の地域興しにまでつながったケースは、この室根村が初めてではないだろうか。
 そんな室根村を評して、畠山さんはこう言う。「室根村は、意味のないハコモノを造るようなこともなく健全なんです。いろいろな意味で、あそこに住む人たちは文化度が高い。それが下地にあって、こういう運動を理解してくれたんじゃないか。それと、もともと室根神社の祭を通して、付き合いがあったのも大きかったでしょうね」
 室根神社は漁師にとっても航海祈願の神であり、4年に1度行われる室根神社大祭では、畠山さんの住む唐桑町舞根地区の住民が「神役」という役目を担ってきた。海の沖合で竹筒に水を汲み、その水を神社に奉納する役目で、1270年あまり前から続けられてきた儀式だ。この祭を通じて、古代から漁民と室根村の交流は続いていたのである。

水田の存在意義を見直す
 これらの地域活動のなかで、小野寺さんはブロイラー養鶏をやめた。実は、養鶏のほかに、80年代から和牛繁殖も手がけていたが、これも徐々に頭数を減らし、最後にはやめてしまった。「ブロイラーをやっていると、いろいろと食肉業界の情報が入って来る。そのなかで、先進主要国で牛肉の消費量が少ないのは日本だけだという情報があったんだよね。これからは鶏肉だけでなく牛肉も伸びると。それで、和牛改良組合が室根村にもできて、青年部長をやったりもしていたんだけど」

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 小野寺さんは話す。「でも、日本の食生活を考えたときに、先進主要国の牛肉の消費量に追いつく必要が、どれくらいあったんだろう。本当に、そこまで伸びなければならないことなのかと疑問が出てきてね」
 疑問が生じたのは、米自由化論議が高まった80年代後半、「まずは現場」とカリフォルニア米の産地に視察に行ったのがきっかけだった。行ってみると、カリフォルニアではすでに、成人病や肥満の増加の中で、日本食ブームが起きていた。「それを目の当たりにして、これは、日本で牛肉の消費量が先進国並みになるというのは難しい話だなと感じたわけさ」

 それでは、何を生活の糧にするか。小野寺さんが選んだのは、稲作だった。「上流も下流も、水を大事にするという生き方が可能な農業は何か。そう考えると、広葉樹の森も水瓶だけれど、日本に広がった水田稲作というのも、大きな保水力があり、国土保全には欠かすことのできない産業のはずです。ところが、転作や後継者不足で、基盤整備が進んでいる室根村でも休耕地が増えていた。どうしても、水田稲作を無くしてはいけないという思いは強かった」
 もともと農薬・化学肥料を多用する農業に疑問を持っていた小野寺さんは、87年、特別栽培米制度が発足して以降、80アールの自作地で低農薬米を作り、産直宅配を始めていた。アトピーに悩む母親たちの要望で、アイガモ稲作による無農薬・有機栽培米も作っていた。
 養鶏をやめた小野寺さんは、村内の休耕田を借り、低農薬栽培、自然天日乾燥の米の生産・販売に踏み切る。借りた水田は約4ヘクタール。山間地に分散する農地を回り、しかも、すべてはさ掛けの天日乾燥だから、かなりの重労働だったにちがいない

人間の心の中に木を植える
 減反強化の中、稲作単独経営は難しくなった。その小野寺さんが、今、力を入れているのは、昨年、村にオープンしたばかりの直売所「旬菜館」の運営だ。現在、直売組織の副会長だ。
 自宅そばの鶏舎で平飼い採卵養鶏を営み、80アールの水田で米を作り、育苗用ハウスでは夏から冬にかけてネギを栽培する。米は顧客への宅配だが、その他はすべて、直売所に持ち込む。矢越地域の伝統野菜、矢越カブを使った郷土食「カブぶかし」も作り、直売所に並べる。「直売所は、小農家、中農家の集まる場所なんだ。大農家が育ってほしいというのも事実だけれど、中小農家が農業をやり続けて農地を守るのも、中山間地では大事なことだと思う。山手のほうからだんだん耕作放棄になって、それが里まで広がって、見るに見かねる風景になってしまったら、これはすごく寂しいことさ。里に水田稲作があって、山に向かって畑が広がって、そこできちんと作物が作られて、お年寄りも元気よく暮らせたら、それも活気のある農村の姿。それを可能にするのが、産直の場じゃないかなと思うんだよね」と小野寺さんは言う。

小学生の体験学習の準備をする
畠山さんの三男の信さん夫妻

 一方、「森は海の恋人」運動の立て役者、畠山さんは、養殖業と平行して、小中学生への環境教育に力を入れている。室根村の子どもたちも、ほぼ全員、畠山さんが営む水山養殖場を訪れて、海と川と森のつながりについて話を聞いている。「結論からいえば、山に木を植えても、50年くらいたたなければ役立たないでしょう。木を育てるより、人間のほうが早く育ちますよ。15歳の子は10年たてば、25歳になりますからね」

 94年に発行された畠山さんの著書『森は海の恋人』は、今、英訳化が検討されているという。近著の『日本汽水紀行』は、今年の日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。
 淡水と海水が交差し、生き物が交差する汽水域を基点に、そこから川、森との連関を考え、そこに暮らす人間のあり方を考えるという視点は、国内外で注目され始めている。「我々がやってきたことは、植林によって水の成分がどうなるかという、科学的題材として取り上げられることが多かった。でも、突き詰めていくと、人間とは何かということにたどり着く。森を良くする、川を良くする、海を良くするというのは、人間の心の中に木を植えることが一番の問題なんですよ。そこまで視野に入れて考えると、いろんなものが見えてくるし、文明論にもつながっていくと思うんです」
(農業ジャーナリスト 榊田みどり)

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