着土の思想
福井県立大学
学長 祖田修
土着から離陸へ、そして着土へ
「着土」という耳慣れない用語について、まず最小限ふれておく必要があるだろう。これは私の造語で、長い間敬愛してきた今はなき農家の古老の教えを、この一
語に凝縮したのである。その意図するところは、「人は改めて自覚的に土に着き、大地・自然、農業・農村にしっかりと根を下ろし、現代文明・文化を再構築すべき“着土”のときではないか」ということである。
他方「土着」は、自然に教えられ、自然に叱られ、自然とともに生きる、かつての私たちの祖先の姿である。しかし、その後近代社会に入って、人間と自然を明別するデカルトなどの思想に基づき、科学は発展し工業は急速に膨張して、現代文明が華開いた。私たちが、それをほとんど手放しで喜んでいた時期に、ロストウという経済学者も、まさにそれを「離陸」(take
off)と呼んで、人類の比類なき成果とし、途上国も急ぎ向かうべき方向としたのであった。
だが現代文明の繁栄は、その離陸の頂点において、人間関係や環境に複雑で困難な影を落とし、私たちはまだその解決策を見出してはいない。私たちは土着から離陸した。しかし禁断の果実を食した今、もはや再び土着に戻ることは不可能である。だが人類は、可能な限り、改めて土に着く「着土」の世界へと向かわなければ、後のない時を迎えている。
発展途上諸国の経済成長
主要な発展途上国をはじめ、今世界は怒涛の勢いで経済成長を遂げつつある。特に中国、東南アジア諸国、インド、ロシアなどが注目されている。先進国も再び経済活力を取り戻そうとしている。これらのことはいったい何をもたらすか、注意深く見守る必要がある。
私は中国を毎年のように訪れているが、先進国に追いつき追い越せで、人々の目の色が変わっている。“年々”成長を遂げるというより、“日々”発展変貌を遂げているといったほうが正確である。西暦2000年を境に、中国からの輸出が、アメリカ貿易赤字の20%前後を占めるようになり、その後拡大している。「世界の工場」といわれた日本の地位は、すでに中国に移った。
中国の人口は約13億人だが、インドは10億人余で、しかも人口成長率は10年間1.8%平均を保っており、なお膨張を続けている。経済の方も2002年で4.4%、インフレ3.2%といった状況にあり、すでに世界経済の一角に、その大きな姿を現しつつある。さらに東南アジア諸国も、連年5%前後の成長を続けており、「21世紀はアジアの世紀」を具体的に裏付ける動きをしている。また人口規模は1億4500万人だが、急速に経済成長を遂げているのが、プーチン率いるロシアである。
このように書いてくると、地球規模で人類が躍進しているように見えるが、実はそれは人類の大きな問題を増幅している。
資源戦争の激化
地球人口は現在63億人だが、途上国を中心に年々1億人近い膨張を続け、やがて90億人は確実と見られている。これらの人口増は、多くの食糧生産を要請する。そして、経済成長と所得の高まりとともに肉食が進む。牛肉で100カロリーを摂取しようとすれば、およそ1400カロリー分の飼料穀物を必要とし、草地を利用すれば穀物生産用の何倍もの農地が必要だ。他の需要も含めて、1990年代には世界の森林の2.4%が消滅したが、今後もそれを上回る減少が予想される。
中国は石油、天然ガスを求めて奔走しているが、先述の東南アジア、インド、ロシアなども同様だ。人類のエネルギー需要は膨大化し、それをどう賄うか、今世界各国の最大関心事となっている。しかし先進国が、途上国の経済発展を制限するどのような権利もない。もし権利ありというなら、それは己のみ助かるために、「天国への蜘蛛の糸」を切ることである。
食糧、エネルギーに続き、水資源も枯渇し始め、工業用水はもちろん、まともな飲み水の確保が、大きな問題となってくることは間違いない。5年前にロンドンの書店で、刊行されたばかりのWater
Wars(水戦争)と題する分厚い本を見たが、水だけでなく、まさしく全面的なResource Wars(資源戦争)が始まっているのである。
経済・環境・技術の絡み合い
人類全体の生存に関わるこれらの資源をめぐる争いは、ますます激化するであろう。「人類の生存」などという一般的な甘い発想の前に、国家と民族の生存を賭けた争いが始まるかもしれないことは、現在の世界状況を見れば直ちに了解されるであろう。途上国も環境について認識がないわけではなく、種々の対応をしている。しかし人口増加と経済成長のスピードは速く、環境は悪化している。環境保全的技術の開発が、それを補う可能性もあるが、地球全体としては環境悪化のスピードに勝ててはいない。今後この三者すなわち、「人口と経済成長−環境−技術」の追いかけっこの中で事態は展開するであろう。
かつて1997年に地球環境を守るべく、CO2削減に向かって採択された京都議定書は、世界の指導者を自認するアメリカによって「わが国の利益にあわない」として批准されず、宙に浮くありさまである。また各国とも、割り当てられた削減量をこなすのが容易でないことから、CO2を地中深く埋めて封印する方法など、危なっかしいやり方が模索されている。
アメリカ国防総省の資料(鳥取環境大翻訳・解説)によれば、地球温暖化はすでに閾値に達し、海水淡水化、海水の熱塩循環の崩壊、海流の変化、それによるヨーロッパの寒冷化など予想外の事態が次々起こり、人類は食料や資源を求めて、紛争が生活の常態と化す、というのである。
悪く考えればきりがないが、当面の問題に目を奪われ、日々をすごしているうちに、人類は崖っぷちに立つことになる。かつて私が書いたように、人類は近代に入って、まるでバッタの大発生と同じように人口爆発を繰り返してきた。そしてバッタは生存のために、植物と見れば当たりかまわず食い散らして進み、やがて一気に滅び行くのである。
21世紀市民の生き方
このように見てくると、もう一つ重要なことがある。
それは私たち一人ひとりに課せられた、生き方に関わる倫理的課題である。環境倫理学が登場してきたゆえんである。それらはW.リースの『満足の限界』に見る豊かさの意味の問い直し、S.ヴァグネルの『簡素な生活』のいう心の簡素と生活の簡素、W.ワーズワースの「低く暮らし、高く思う」といった心情などに通じるものである。ここで私が思い起こすのは、「少欲知足」という、すでに2000年以上前にインド仏教、中国老荘思想のそれぞれで育まれた東洋的思想である。私は20年前「着土」の考えにいたってから、次々とこのような類似の思想に行き当たり、共感してきた。
今日本でも世界でも、今までまったく稀有と思われた奇怪な宗教や事件、犯罪の低年齢化、尽きることのない憎しみと憎悪、その短絡した表現など、文明の高度化とは逆に、人間性の退化を思わせる現実が次々とあらわになっている。文明が発展するにつれ、私たちは土の温かさや土の匂いを忘れ、大地・自然の摂理から遠く離れた。冒頭に述べたように、私たちは改めて自覚的に土に着き、大地・自然、農業・農村をベースにした文明と文化の再生を目指さなければならない。
*本稿関連著書に『着土の思想』『着土の世界』(いずれも家の光協会刊)があります。
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