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かあちゃんと思いっ切り作る「おとこまい」

 

 長男だけど、何だか四つんばいで草取りしているのがイヤんなって、家出した。川崎で肥料を混ぜる仕事をした。体をこわすほどにつらいけど銭になった。その分、かけ事もした。結局、1年もせず村に戻った。その後も出稼ぎを続けた。都会の経営者が考えるような規模拡大は、そのとき刺激されたんだろう……。

青森県五所川原市 農業 笠井 実さん

 1人当たりの耕地面積が小さく、農地の集積が難しいといわれる日本の稲作。しかし、青森県五所川原市で自らの経営規模を50ヘクタールまで広げるとともに、200ヘクタールある集落の農地の1/2を集積するという快挙を成し遂げた農家がある。しかし、その秘訣を聞くと、いたって簡潔な答えがかえってきた。「自分のこと、目先のことばかりかんげて(考えて)いては、まいねぇな(ダメだね)。相手の立場に立たねば」―。北の大地で、地域農業について熱く語る農家を訪ねた。

 青森県五所川原市で農業を営む笠井実さん(67)は、36ヘクタールの経営面積をもつ大規模農家だ。できたコメは「おとこまい」というブランドで全量を直接販売している。行き先はレストランチェーン、病院、消費者グループと幅広い。その量は年間3300俵。本人のコメだけでは足らず、地元の農家からの仕入れもしている。「おとこまい」というネーミングは実さん自身がつけた。「コメのネーミングは『あきたこまち』に代表されるように、女性のイメージでつけられたものが多い。だから、わ(私)は男のイメージにしてみた。『男前』(おとこまえ)にも発音が似ているし(笑)」
 その横で、津軽美人の奥さん、知子さん(60)がやさしく微笑んでいる。「わ(私)は、ひたすら突っ走ってきた人間だども、一緒についてくるのはたいへんだったと思う」―実さんの口から、知子さんへのねぎらいの言葉がさらっと出てきた。実際、知子さんの支えがあったからこそ、次々に経営規模を拡大し、地域のまとめ役として農地集積に奔走することができたのかもしれない。知子さんと二人三脚で歩んできたほぼ50年、そこには数々のドラマがあった。

 

家出が経営者としての肥料に

 実さんは昭和12年、農家の長男として生まれた。水田2.8ヘクタール、リンゴ園1.2ヘクタールという比較的大きな農家だった。当たり前のように、子どもの頃から農作業を手伝い、中学生にもなると1人前の仕事をした。当時、高校に進む生徒はクラスで10人か、15人に1人。実さんも高校に進みたかったが、ほとんどの親がそうであったように「農家に教育は要らない」と言われた。それでも諦め切れず、「田植えと稲刈りの時は10日ずつ学校を休んで手伝うから」という条件で、五所川原農林高校への進学を許してもらった。みごとに親との約束を果たし、高校に通い続けた。

 卒業後すぐに就農。ところが1年たって突然、家を飛び出してしまう。
 「四つんばいで草取りをする農業に嫌気がさしたんだな。地元出身の議員さんが川崎市にいることを知っていて、会ったこともなかったけども、ともかくその笠井儀郎さんのところに行った」

 一面識もない青年が突然現れ、笠井氏はたいそう驚いた表情だったことを実さんは覚えているという。だが、黙って青年の話に耳を傾け、川崎肥料という配合肥料の製造を請け負う会社を紹介してくれた。すぐさま仕事についた。
 肥料を混ぜるのは、すべて手仕事。100キロの骨粉の入った麻袋を担いで、歩み板を渡るという作業もザラだった。これが朝7時から夜9時まで続いた。
 「言葉にできないほどツラかった。ところが、『農業はで十分ツライ経験をしているので、どんな仕事も耐えられます』と啖呵を切ってお願いした手前、すぐに帰るわけにもいかなかった」 
 気力を振り絞って仕事に向かった。するといつしか、気力に体がついてくるようになり、やがてキツさを感じなくなってきた。日当も魅力だった。キツイとはいえ750円が支給された。当時、これだけのお金は地元で土方をして手にできる日当の5倍だったという。

 「いま思えば、儀郎さんは世の中の厳しさを教えるために、あえてツライ仕事を紹介してくれたんだと思う」と振り返る。ある日、弱音ひとつ吐かず、踏ん張っている実さんを呼んで、儀郎氏はこう話した。「なかなか根性があるな。だが、お前は長男だ。良くても悪くても、田舎にかえって農業をしろ。都会で仕事がしたいなら冬に来ればいい」
 結局、1年もしないうちに再び五所川原に戻り、まもなく知子さんと結婚。だが、昭和40年代に入り規模拡大に着手するまでの足掛け8年間、冬になると川崎に出た。この出稼ぎが、笠井さんのその後の経営を大きく変えるきっかけになった。

 五所川原市と川崎市を行き来していた昭和30年代といえば、米価が上がり続けていた時代だ。当時、農家の経営努力といえば唯一、技術を磨いて収量を1〜2割増やすことだった。肥料会社の仕事は実さんに、人並み以上の仕事をすれば、何倍もの収入が得られることを教えた。きつい仕事に耐えうる体力や気力があるという自信も持てた。
 だがなによりも、実さんのなかで大きく変わったことは、農業への考え方だった。「働き方次第で収入は大きく変わるというのは、農業にも当てはまるのではないか」―そして「飛躍的に経営を伸ばすには反収を上げるだけでなく、別の方法があるはずだ」という結論に達した。
 折りしも、昭和40年前後から除草剤が普及し、機械化も進んだ。もう、四つんばい農業に縛られる必要はない。実さんの心は固まった。「これからは、規模拡大で経営を伸ばしていこう」

囲碁を通じて経営術を学ぶ

 規模拡大といっても、米価が上がり続けていた昭和40年代初め、水田を買うことも借りることも容易ではなかった。そこで、実さんは自らのリンゴ園を水田として開田しようと考えた。だが、「稲作一本に絞り、土地生産性を高めていくことが今後の経営として有望」と考える実さんと、「土地生産性の高いリンゴのほうがいい」という、父政司さんの考え方の違いは埋まる余地はなかった。
 ある日、実さんはリンゴの木をすべて切り倒すという大胆な行動に出た。さら地になったリンゴ園を見た政司さんは、「驚きのあまり、なすすべを知らないという感じで立ち尽くしていた」(実さん)という。だが、数年してコメづくりが軌道に乗ってくると、ようやく政司さんも納得してくれたという。

 その後、飛躍的に規模を拡大していく。昭和50年代前半には、国の制度資金を利用して農地を取得。4町村から約16ヘクタールを購入。離農者から農地を買う場合は無制限で融資が受けられる(後に、上限が定められた)「農業者年金基金」という制度を活用した。昭和50年代後半から平成初期にかけては、借地による規模拡大を図った。こうして、50ヘクタール近い耕作面積をもつようになった。

 すべてが順風満帆だったわけではない。昭和55、56年と2年連続で見舞われた大冷害の影響で資金繰りが滞り、倒産寸前まで追い込まれた。農協に融資を依頼するものの、「限度額を超えている」と取り合ってくれなかった。切羽つまった実さんは、遠縁に銀行の支店長をやっている人がいることに気づいた。知子さんを連れて、その支店長を訪ねた。懸命に説明し、融資してもらい、倒産を免れたこともあった。

 だが、そうしたことを教訓にしながらも、ひるまずに規模拡大を続けたところに、実さんの芯の強さがある。しかも、毎年のように規模を広げていった。

 昭和50年代半ば以降、米価が下がり、周辺の稲作農家の経営意欲が後退してきた面はある。とはいえ、すんなりと農地を貸してくれる農家は多いはずはなかった。なぜ、実さんにはそれができたのか。それは、彼の経営姿勢と深く結びついている。
 借地に着手した昭和57年当時、転作奨励金は10アール当たり5万円。つまり、これ以上の小作料を払わなければ、相手は農地を貸したがらないということだ。実さんは加算金を心積もりした上で、個別の農家を訪ねた。ただし、最初の一言は、「多く払うから貸してくれ」ではなかった。
 実さんは「現在の収益がどのぐらいあるのか」、「転作をする場合はいくらになるか」、「貸したらどうなるのか」ということをシミュレーションし、農家にとって最良の方法を一緒に考えていった。その上で、「それならば、貸したほうがいい」と決断した相手から借りた。
「お互いの利益が上がらないと、上手くいかない。借りるために努力したというより、相手のために最善の策を考えた結果、規模が広がった」

 じつは、こうした考え方の原点は、囲碁にあるのだという。中学校から習い始め、農業を始めて本格的に習いだした囲碁が、折に触れて経営に役立っているそうだ。
「囲碁っていうのは、碁盤の上の一部分で勝っても、全体では勝ったことにならない。全体がよくなって、ようやく勝つことができる」この考え方が、やがて地域の農業の在り方まで変えていくことになる。

パイは取り合わず、皆で大きくする

「笠井ファーム」の代表としての顔のほかに、笠井さんにはもう一つの顔がある。地域の農地を取りまとめる、リーダーとしての顔だ。
 水田の規模拡大が一段落した平成3年頃から、自身の農業経営から地域の農業に目を広げていくようになった。そして地元、桜田集落の63戸の稲作農家に呼びかけて、「五所川原農業フォーラム」という勉強会を年に数回もつようになった。単に定期的に集まって、勉強会をするだけではなく、「行政に頼らないで村を変えていこう」というスローガンを掲げ、目に見えることを行動に移していこうということになった。
 実さんは「我々の田んぼは、みな分散している。これをまとめていかないか」と投げかけた。返ってきた答えは「そんなことできるはずない」。すかさず、実さんは「できるかできないか、やってみよう」と応酬した。

 農地をまとめるということは、ある農家が田を手放し、別の農家に売り渡すこと、あるいは農地を交換することを意味する。農家にとって田んぼを手放すことは、破産を意味するようなものだ。どの農家も拒否反応を示すことは、実さんも重々わかっていた。だが個別に農家を訪ねて、話しを聞いてみると、経営的に苦しい農家もあり、いまのままで農業を続ければ赤字が増えるばかりで、悩んでいる農家がいることがわかった。
 そこで、農地を借りた時のように、各農家にとっての最善策を農家と一緒に考えていった。すると、7戸の農家が「売ってもいい」と名乗りを上げた。この結果、196ヘクタールある集落を売買、貸借、交換耕作によって全体の55%にあたる109ヘクタールをまとめることができた。この取り組みは農地流動化の先行事例として、平成5年度の農業白書にも紹介された。
「われも、われもと、個別の利益のためだけに争うと、全体の利益が少なくなってしまう。それよりも利益の絶対額を増やすほうが、それぞれの農家にとってもいいはずなんだ」
 一つのパイを取り合うのではなく、パイそのものを大きくするほうがいい。おそらく稲作地帯の農家のほとんどが、こう思っているはずだ。だが、それを実現するためには、農家と農家をつなぐ「仲介者」の存在が欠かせない。農家の軒先に上がりこんで、経営の中味まで聞き出せる人間でなければならない。その仲介者も一歩間違えば、「他人の家のことなど放っておいて」といわれかねない。実さんがそういわれなかったのは、実直な性格と、これまで真剣に農業と向き合ってきた彼自身の振る舞いが、周りの農家に評価されていたからこそなのだろう。

 

青森に「魚沼」をつくりたい

 実さんのことを高く評価しているのは、農家ばかりではない。農水省関係の役人にも実さんのファンは多い。日ごろから情報収集に余念がなく、知りえたことや自らの考えを書き記している。これらは時折、新聞などで取り上げられているが、農家の立場で、農政についても歯に衣着せぬ率直なコメントをするため、「現場の立場で話を聞かせてほしい」と公的な場所に呼ばれることも多い。
 実さんの書いた文章を読んで感じるのは、規模拡大を始めた昭和40年以来、視点がまったくぶれていないことだ。コメを取り巻く環境も政策も時代とともに変わってきているが、常にベースとしてあるのは、「自分にとっても、相手にとってもいいことを実行する」ということだ。
 いろんな会合に招かれるたびに、農水省の役人から芸能人まで知り合いの数はどんどん増えていく。だが、農家というスタンスを決して崩さず、出会った人と記念写真をとっては喜び、大事に保管している。この自然体で飾らない人柄が、周りからの信頼を集めているのだろう。

 さて、取材当日に知子さんが作ってくれた手料理と「おとこまい」の昼食は格別の味だった。「いま、わが関心を持っているのは、青森県のコメの販売」だという。青森県のコメの食味は確実にアップしてきている。外食業者の間では高い評価をされているものの、新潟や他の東北のコメどころと比べ、一般消費者の知名度は低い。行政もそれなりに消費拡大運動をしているが、「そういった通り一遍の運動では需要はひろがらないんです」ときっぱりいう。
 笠井構想はこうだ。「青森県でコメのいちばんおいしい場所を選ぶ。そこを新潟県の魚沼のようなイメージで売っていく」
「ここのコメはおいしい」ということが伝われば、消費者の青森県産のコメに対する見方が変わる。「そうなれば“量”を多くとることより“質”で勝負していこうと、生産者も変わるはずだ」
 青森のコメのイメージアップに向け、実さんは再び走り続けていくことになる。どんな結果が出るのか、まだわからない。だが、これまでそうだったように、必ず何らかの結果を出していくだろう。青森の魚沼の誕生が、いまから楽しみだ。
(農業ジャーナリスト 青山浩子)

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