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『イネゲノムが明かす日本人のDNA』

村上和雄

 

 村上和雄
 1936生まれ。京都大学大学院農学研究科農芸科学専攻課程修了。オレゴン医学大学、京都大学農学部、バンダービルト大学医学部などを経て、78年より筑波大学応用生物科学系教授。同大学遺伝子実験センター長、先端学際領域研究センター長などを務め、99年に退官。83年、高血圧の原因となる酵素「レニン」の遺伝子解読に成功し、世界的な注目を集めた。96年、日本学士院賞受賞。現在、国際科学振興財団専務理事、茨城県工業技術センター長。著書に『バイオテクノロジー』『生命のバカ力』(以上、講談社)『科学は常識破りが面白い』(光文社)『生命の暗号』(サンマーク出版)『イネゲノムが明かす日本人のDNA』(家の光協会)などがある。

  2002年12月18日、東京でイネゲノム塩基配列解読の記念式典が行なわれました。小泉純一郎首相は、この式典にビデオメッセージを送り、解読終了を宣言するとともに、「2年前のヒトゲノムの解読に並ぶ画期的な成果」であると称えました。また、ジョージ・ブッシュ米大統領や、DNAの二重らせん構造の発見者であるジェームス・ワトソン博士からも祝福のメッセージが寄せられました。
 日本では、すでに1991年からイネの全遺伝子情報(イネゲノム)解読に関する研究を開始していました。そして、97年には、日本、アメリカ、中国、台湾、フランス、インド、韓国、ブラジル、タイ、イギリスの9か国1地域と共同の国際プロジェクトが発足され、日本は世界をリードする形で解読に取り組んできました。
 科学の世界で、日本の研究陣が世界中の頭脳を相手にして、リーダーシップをとった例は、ノーベル賞を受賞された小柴昌俊東大名誉教授のスーパーカミオカンデの業績を除けば、近年ではほとんどないことであり、そういう意味でも、10年以上にもわたる研究の終了宣言は、言葉では表せないほどのすばらしい瞬間でした。

 実は、この私も、大学を定年退官後、このイネゲノム解読という国家プロジェクトに参加することになったのです。
 私は、20年以上にもわたって高血圧の発症に深く関係する酵素・ホルモン(レニン・アンジオテンシン)系の遺伝子の研究に従事してきました。高血圧の研究とコメの研究は、一見まったく関係がないように思われるかもしれません。しかし、私にとっては、それほど不自然なことではなかったのです。というのも、私は農学研究科を終了した後、一時、コメタンパク質の研究に従事したことがあったからです。しかも、遺伝子という点で、私の研究は一貫しています。
 しかし、そのように自分がこれまで研究してきたこととの関連だけでなく、私がイネゲノムの解読に積極的にかかわりたいと思った理由が、大きく二つありました。

食料の増産に貢献する
 ひとつは、21世紀に入って、世界中でもっとも懸念されている食料問題とのかかわりです。
 現在、世界の人口は約60億人ですが、国連の推定では、2050年には89億人にまで増加すると予測されています。飽食が問題になっているわが国の現状を見るかぎり、将来、食料危機が訪れることは想像しにくいことです。けれども、世界に目を向けると、世界の4分の1の人々には、いまでも十分な食料が行き渡っていません。そこに、さらに30億人がプラスされるわけです。加えて、日本の食料自給率は、カロリーベースで約40%にまで低下しています。つまり、私たちの胃袋は、60%が海外からの輸入食料によって支えられているのです。いまのところ、日本は世界の注目を引き付けてやまない優良マーケットということになっていますが、未来永劫、安定的にこうした状況が続くとは考えにくいでしょう。
 大幅な人口増加が招く不測の事態に対し、いかなる方策で立ち向かっていくかが、各国政府を挙げての関心事となっています。そうしたなか、日本政府は、対策の中心に、バイオテクノロジーの研究開発を置いて、その成果に期待を寄せています。

 その第一歩として、1999年7月に当時の5省庁(農林水産省、通商産業省、厚生省、文部省、科学技術庁)が、「バイオテクノロジー産業の創造に向けた基本戦略」を発表しました。各省庁が、申し合わせて共同事業へ取り組むことにしたのは、日本政府では異例の事態であり、政府がいかに本腰を入れて、バイオテクノロジーに将来の食料事情を託そうとしているかが見てとれます。
 さらに2000年には、「ミレニアム・プロジェクト」として特別なゲノム関連予算が設けられ、2000年度に640億円が投入されました。

遺伝子組み換え作物のメリットとデメリット
 バイオテクノロジーといえば、私たちの生活に直結するものとしては、まず遺伝子組み換え食品や作物などが頭に浮かびます。
 ところが、日本では、遺伝子組み換え作物・食品は、かならずしも消費者に双手をあげて受け入れられているとはいえません。むしろ、不自然なモノを食べさせられる不快感が先に立って、健康被害や環境への悪影響を懸念する声のほうが高いというのが現状です。 
 確かに、「遺伝子組み換え食品が、100パーセント安全か?」といわれれば、それは断言できません。それは、「100パーセント危険があるか?」と問われたら、そうともいえないのと同じことです。
 けれども、もし、遺伝子組み換え作物を作るメリットとデメリットとを問われれば、私は、断然「メリットのある」ほうに軍配を上げます。

 いま問題になっているのは、除草剤耐性ダイズや害虫抵抗性ジャガイモなどですが、実際、国家予算が少ないために、農薬が使えないような国では、害虫抵抗性のある作物をたいへん必要としています。たとえば、除草剤耐性ダイズを使うと、通常3〜5回は必要な雑草防除が1、2回ですみ、除草剤の使用量が平均して2割以上減ります。しかも、雑草のコントロールがうまくゆけば、平均5%の増収が見込まれているのです。
 また、発展途上国を救うために、食べるワクチンの開発も進められています。一例を挙げれば、世界中で現在、年間100万人の人々がビタミン不足で命を失っているのですが、それを救うための手段として、ビタミンAの前駆体を強化したゴールデンライスが研究開発され、近い将来、途上国に供与されることになっています。

 遺伝子組み換えの技術は、なにも、途上国に向けてばかりではありません。
 農林水産省のスーパーライス計画のなかから生まれた「ミルキークイーン」は、粘りが強く、光沢、味がよく、明らかに食味が優れているといわれ、「コシヒカリを超えるコメ」と高く評価されています。
 また、農業生物資源研究所では、イネの胚乳に、スギ花粉抗原タンパクの一部分が蓄積されるように指示した遺伝子が組み込まれたコメを開発し、3〜4年後の実用化に向けて研究中です。完成すれば、スギ花粉症はこのコメを食べることで症状が改善され、予防されることになります。
 これらは、私たちにとって歓迎すべき現象ではないでしょうか。バイオテクノロジーは、人類にとっては食料増産、環境問題の解決、新しい医療の開発に大いに貢献する可能性を持っているのです。

日本人としてコメへのこだわり
 もうひとつの理由としては、コメというか稲作が、日本の文化や日本人のアイデンティティに深くかかわっているということが挙げられます。
 私たちの祖先は、イネに魂があると考えてきました。私が小さい頃なども、コメ1粒に3人の神様がいて、コメ粒を無駄にすると罰が当たると言われていたものです。
 2003年の5月、私は、数十年ぶりに伊勢神宮を参拝し、ご縁あって北白川道久神宮大宮司にもお目に掛かってきました。伊勢神宮では、春には種籾を播き、若苗を育てて、それを神田に植えて豊穣を祈ります。秋には収穫をして、神様にお供えをし、豊作に感謝する行事を2000年にわたって続けておられます。神事のほとんどすべてが稲作と深く結びついています。
 コメは昔から、日本の風土や文化を象徴する食物であり、四季折々の生活パターンや行事は、すべてイネの収穫サイクルにのっとって進められてきました。このように、日本人にとって特別な意味のあるイネゲノムの研究は、ぜひ日本が中心となってやらなくてはならないと思ったわけです。
 私は20年以上にわたり、ヒトやイネの遺伝子暗号解読の研究に取り組んできました。この分野の最近の進歩は目覚ましいものがあります。そして日本は、イネゲノムの解読では世界をリードする国となりました。そのことに、私は日本人のひとりとして誇りを覚えます。しかし、この遺伝子の解明は、「スーパーライス」のような品種の創出に結びつけることが大切で、それはこれからの研究にかかっているのです。

生命への畏敬を根本に
 私は、遺伝子という超ミクロの世界を日々のぞいてきました。そのたびに、これだけ精巧微細、しかも美しくさえある生命の設計図を描いたのは、いったいだれだろうかという思いにとらわれています。
 これらの精妙な自然の摂理は、私たち科学者が創造したものではありません。科学者は、すでに存在している自然の摂理を見つけたにすぎないのです。ここはどうしても、人間の通常の働きを超えた巨大な存在を意識せざるをえません。私は、この超越した存在を「サムシング・グレート(偉大なるもの)」と呼んでいます。
「近代化」という時代の変革には、光と影とがあり、20世紀においては、工業化・機械化が陽の当たる部分をひとり占めしてきました。その結果として、私たちは便利さや豊かさを手に入れました。しかし、その一方では、人類の長い歴史のなかでも類を見ない戦争による大量殺人と、産業汚染による広範囲な自然の破壊を招いています。
 そして、いま、私たちは、生命の秘密を説き明かし、生命の営みにまで手を加えようとしています。生命の複製も難しいことではなくなりました。けれども、生命の複製を人工的にこしらえることは、人間が自然の摂理に大きく介入することであり、生命の尊厳を傷つける事態にもなりかねません。

 こうした危機に立ち向かうためには、科学に携わる者がモラルを超えて暴走しないように、自重することも大切ですが、一般人も交えたチェック機能をきちんと作って、しっかりした倫理観を確立する必要があります。
 このモラルの問題を考えるとき、クローズアップされるのは、生命の根源、生命の営みといった自然の摂理を畏敬し、自然を大切にする心です。
 21世紀は、「農業の世紀」といわれます。これは、工業化・機械化によって、前世紀で荒れ果ててしまった自然と人間の心を、農業によって回復させようという意味が含まれているのではないでしょうか。
 それは、まさに伊勢神宮が2000年にわたって守り続けてきた風習、まさに「サムシング・グレート」とでも呼ぶべき大自然とわれわれ人間とが、習慣として共存する世界です。
 自然に感謝し、自然とともに生きる日本の伝統文化とともに、科学や経済力を合わせ持ち、そのバランスが取れる国、高い理想を掲げ、良識を世界に広げる国になることが、これからの日本の使命であると、イネゲノムの解読に関わったことを通して、私はいま深く実感しています(談)。

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