〈体に栄養 心に教養〉
“医者の不養生”という言葉には耳が痛い。何故か。医者は健康の専門家である。専門家とは「その分野において高度の知識や技能を持つ人のこと(大辞林)」であるが、その知識を教養として自らの肥やしにしていない専門家は、この皮肉のきいた諺で揶揄される。そう、知識と教養は別物だ。教養とは「単なる知識ではなく、人が精神的に発展するために学び養われる学問(大辞林)」である。
さて、本誌を愛読される皆様は農学専門家、あるいは私のようにまだそう名乗るには早すぎるものの、こと農学に関しては他より多くの知識をお持ちの方がほとんどであろう。しかし、その知識を教養として身につけているかと問われたとき、全ての読者が、自信を持ってYESと答えられるか、私には分からない。もっとも、稔りある稲穂は頭を垂れるという意味でYESとはお答えにならない方が多いのである。私などは粃として、まさにNOである。だから私は耳が痛い。
この諺は、何も専門家を戒めるためだけにあるのではない。環境の世紀といわれる今日、環境に関する情報は日本で普通に生活していれば当たり前に入ってくる。世界の農業事情や日本の自給率といった事は、一般知識ともいえよう。だが、それは一般教養とは成りえていない。たとえば、それは我々の食生活や水利用に見て取れる。
飽食日本。日本の食料の4割は食べ残しとなる。具体的な数値は知らずとも、食べ残しが多いということは誰でも知っている。が、知っているだけで、相も変わらず飽食のままである。栄養不足で苦しむ人々がいることを知っている人々が、肥満で苦しんでいる。体の栄養は十分でも、心の栄養は不十分。それは知識があっても、教養はないからだ。
節水という言葉は、いつから当たり前のように使われるようになったのだろう。思うに、水を大切に使うことが当たり前でなくなっていった頃からではないだろうか。
平成6年の渇水の際、ダムの貯水状況を映すテレビを見た人が、その数分後に蛇口ひねりっ放しで食器を洗う。断水が始まってから仕方なしに節水する。断水が始まる前に、普段の1割でも節水できた人はどれ程いただろうか。その人たちのなかで、その後2年3年と、節水を続けた人が何人いただろうか。2003年夏、関東は電力不足が予想されているが、果たして……。
農学部に籍を置き、水資源計画学の名を冠する私の研究室の面々も、実生活は惨憺たるものである。我々が食べ物や水を大切に使ったからといって、世界の食料・水事情が今すぐどうこうなるわけではない。医者が自分の健康に気を使ったからといって、患者が治るものでもないのと同様に。だが、医者が病気なら、治る患者も治らないのも、また事実である。本誌で紹介しているような優れた知見や技術を、何とか自分の教養にしていきたいと思う。
たとえるなら、知識とは落ち葉だ。分解等の諸作用を経て、はじめて植物をはぐくむ養分となる。集めてきた落ち葉は、自分を稔らせる養分となっているか。もう一度“自分自身”を戒める意味を込めて、この文章を綴った。
東京農工大学大学院
農学研究科 修士課程1年 原 郁生
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