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水あっての生命という認識を

JT生命誌研究館 館長 中村桂子

 2003年には京都で「第3回世界水フォーラム」が開催されたことでもわかるように、今、世界では水への関心が高い。日本でも1970年代、高度経済成長の影響下、水質汚染が大きな問題になった。とくに、環境問題の原点ともなった水俣病では、廃棄した水銀が物理的な拡散でなく生物濃縮という形で人間に戻ってくるという事実を知らされ、水質汚染の問題が人々の心に刻みこまれた。
 水俣に限らず身近な河川の汚染も進み、一時期は都会を流れる水の悪臭に悩まされることもあったが、人々の意識改革、科学的知識の増大、対策技術の開発などにより身近な海、湖、河川の状況はかなり改善されつつある。幸い日本は、水に恵まれ、しかもそれを巧みに活用する水田を生活の基本にしてきたので、砂漠に暮らす人々とは違い、量的問題を実感することは滅多にない(夏に渇水で給水制限があることもなくはないが)。
 こうして、日常生活の中では、水道水がまずいのでミネラルウォーターを買おうという程度の関心で過ごしているのが、通常の暮らしになっている。そこで、京都フォーラムを機に、世界の実情を知って驚いているというのが平均的日本人(もしかしたら、環境への関心が平均よりもかなり高い日本人かもしれない)の姿である。
 水フォーラムによって知らされた内容については、改めて記述しないが、量的にも質的にも問題は深刻であり、しかも水を巡っての厳しい紛争の報告も絶えない。これまでも、資源の不足については石油を始め多くの問題が指摘されてきたが、水は同じ資源でも非常に特別だ。生きものは、石油なしでも暮らしていけるが、水なしでは生きていけないのだから。生物研究を仕事にしている筆者の立場としては、そもそも水を資源として見ること自体が間違っていると思える。地球上に生物が存在するようになったのは水が存在したからであり、水はわれわれにとって不可欠であるという関係を超えて、水あってのわれわれであるという言い方の方が実態だと思うからだ。
 しかし、世界での水問題の解決のしかたは石油と同じように、資源として、別の言い方をするなら、経済活動の対象として扱おうという方向を持っているように見える。つまり、水も市場原理の中に入れこみ、その中で効率よく利用されるようにしようという考え方だ。
 先に述べたように、われわれ人間を生命あるものとして捉えるなら、水は特別のものであり、それのあり様に従って生き方が決まってきたともいえるものであって、できるだけ人工世界から外しておかなければならないものだ。水について危機感を抱かなければならなくなったとしたら、それは、われわれの暮らし方がどこかおかしいのだと判断すべきなのだ。これまでの社会制度やライフスタイルをそのままに、水を無理矢理にその中へはめこんで、なんとか 褄を合わせようという解決は、更に無理を生むことになるに違いない。
〈機械と火から生命と水へ〉
 20世紀は、石油という資源をもとに電気というエネルギーを豊富に使える状態をつくり、機械を開発することで快適な生活づくりをめざしてきた。しかしその結果、自然破壊が起きた。この場合の自然は、人間にとっての外部、いわゆる環境としての自然だけでなく、人間の内にある自然も含んでのことだ。外部環境の破壊は、すでに地球上のすべての場に及んでいるが、人間の内にある自然の破壊は、近代文明の進んだ国においての方がはなはだしい。身体についても環境ホルモンに代表される問題があるが、それと共に気になるのは、心の破壊と生きものにとって必要な時間の無視である。効率を旨としてきた産業社会は、金融経済の中でますます忙しくなり、考える暇もなく追われる生活の中で、何のために生きているのかがわからない状態になっている。
 一人一人が、それぞれの生活を思いきり生きられる社会にしようという考え方を基本にするなら、機械と火を基本にし、効率至上で量的拡大をする社会から、生命と水を基本に人間としての生活を大切にし、さまざまな事柄の過程を重視し、循環型で組み立てていく社会へと転換することが求められる。水への取り組みは、浮上してきた問題の解決というより、社会の価値観の転換という意識が重要である。
〈農を基本に―食と緑を〉
 水問題が深刻なのは開発途上国であり、日本もその解決に手を貸そうという見方は誤っている。これもすでに指摘されてきているように、食物の背景には大量の水が存在するのであり、食糧輸入国である日本は、自国の水を活用せずに他国の水を吸い上げていることになる。食と緑を基本に国を組み立てること。もちろん、水不足の国へ出かけていって井戸を掘るという作業も重要だが、日本人のすべてが世界の水問題の解決に関わる方法は、自国の農林水産業を見直して、金融経済の価値とは別の価値を作りあげることだ(地域通貨の活用など)。
 ここでは、自然が大きく浮び上る。ただし、ここでの自然は決して手つかずの野生ではなく、人間の手の入ったものだ。幸い日本は、水田を主体とした農地と里山という、水をみごとに活用し、自然と人間とが共に豊かに育つ文化を基本としてきた。これは日本人と日本の自然とがもつ能力をみごとに生かした文化であり、21世紀の暮らしはこれを基本に組み立てればよいのだ。
 幸い、農水省や国土交通省という具体的な土地計画に関わる官庁から出される計画も、このような方向に向かいつつある。農業農村整備事業計画は「農村は豊かな自然環境の宝庫です」という言葉で始まっており、都市のグランドデザインは「水と緑と生きものの環」をつくることとなっている。要はこの実現に尽きる。30年前に、こういう方向へ向かっていたらよかったのにと溜息が出るが、21世紀のために努力をすれば、食物という生活の基盤をしっかりと持ち、しかも緑豊かな国をつくることで世界に貢献し、尊敬される国になれるはずだ。
 本当の豊かさとはなにか。人間として納得のいく生き方をどう考えるか。水の問題は、このような基本的問題を深く考えることを求めている。愚直と言われてもそれを考え、小さな事を実行していくしかない。生物研究の世界での筆者の小さな行動への反応も少しづつよくなっているのを実感しており、30年後へ向けてもうひとふんばりしようと思っている。

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