前のページに戻る

ナマズの遡上する田んぼの復活をめざして

 東海農政局農村計画部資源課
(財)日本生態系協会

1.はじめに
 かつて、どこへ行っても見ることができた、メダカやカエルといった身近な生きものたちが、私たちのまわりから姿を消して久しい。田んぼの大規模化、用水路と排水路の分離、パイプラインによる用水の供給、乾田化など農地整備水準の向上を目的とした土地改良事業は、農業の効率を飛躍的に高めてきた。
 しかし、その反面、かつて川から用排水路を伝い、田んぼに遡上して、産卵していたメダカやナマズの移動経路は分断され、田んぼをにぎわすことはなくなった。早春、田んぼの浅い水溜まりで産卵するニホンアカガエルにとって、灌漑が始まるまでは、からからに乾いた田んぼは、もはや産卵の場所ではなくなった。気がついてみると、多くの生きものたちでにぎわっていた田んぼのまわりは、ごく限られた生きものしか棲めない、多様性に乏しい環境になっていたのである。
 そうした状況のなか、平成13年に「土地改良法」が改正され、「環境との調和への配慮」が土地改良事業実施の「原則」として位置づけられた。これを受け、全国で農村環境における生態系保全対策を検討する調査が始まった。田んぼにかつてのにぎわいを取り戻すための第一歩が、ようやく踏み出されたのである。

2.「昆虫王国」谷汲村
 岐阜県の北西部、周辺を標高700m前後の山々に囲まれた谷汲村は、今なお多くの野生動植物が生息、生育する地域として知られている。とくに日本特産のチョウであるギフチョウ(環境省レッドリスト絶滅危惧U類)の生息地として知られ、村では「ギフチョウ保護条例」を制定して保全に取り組んでいる。また、初夏の頃にはゲンジボタルが飛び交い、カシの林では岐阜県指定天然記念物であるヒメハルゼミの大合唱を聞くことができる。
 谷汲村南端部に位置する深坂・大洞地区は周囲を山に囲まれ、南北に細長く伸びる200haあまりの水田地帯を形成している。この地域は太古の昔、沼地だった場所で、厚さがおよそ40mにも達する泥炭層からなる特異な地域である。いってみれば浮島の上で耕作をしているようなもので、放置された重機がその自重のために、一夜にして沈んでしまったこともあるという。水田地帯の中央部には管瀬川が流れ、幹線排水路となっている。管瀬川の上流部は狭い沼地となっており、ここにはメダカやカワバタモロコといった希少な魚類が多数生息している。

3.生物多様性保全対策調査
 平成11〜12年の2か年にわたり、農水省東海農政局では谷汲村深坂・大洞地区において、農村地域の生物多様性保全対策調査(生物調査)を実施した。
 その結果、この地域には水田地帯を代表する生きものであるメダカ、カワバタモロコ、ナマズ、シュレーゲルアオガエル、ゲンジボタルなどをはじめとして、いくつかの希少種を含む多数の動植物が生息、生育していることがわかった。しかし、いずれの種も生息場所は限られ、個体数も多くなかった。田んぼを取り巻く自然環境の分断が、生息状況に影響していることがうかがわれた。
 深坂・大洞地区はすでにほ場整備がほぼ完了した地域で、用水はため池からのパイプラインで送水され、排水路は深く掘り込まれてコンクリート化されていた。幹線排水路の管瀬川ではナマズやメダカが確認されたものの、田んぼとの行き来を可能にするには、川 ― 排水路 ― 田んぼの間にある落差を克服する必要があった。生きものたちのネットワークを復活させるためには、この落差の克服が大きな課題として残された。

4.地元住民との合意形成
 深坂・大洞地区にある谷汲小学校では、5年生を中心に自然や生きものについての学習会を実施している。生物調査を行っていた当時、小学校には魚が好きな先生がおり、子どもたちは管瀬川の調査を通して自然を学ぶ機会を持っていた。
 今までのほ場整備とは異なる方向性をめざすためには、地元の合意が必要なことはいうまでもない。生物調査によって現況を把握し、それを報告することで、地元の方々に自然の大切さを理解してもらうことが必要だと考えられた。そのためには、生きものに普段から関わりを持っている、谷汲小学校の児童たちに話をすることは、地域の方々への理解を求めるきっかけとして、またとない機会であった。
 平成12年の3月には谷汲小学校5年生と地元住民の方々に、生物多様性保全対策調査で得られた結果についての報告会を持つことができた。その際には、谷汲村役場の協力を得て、村の広報とともにチラシを谷汲村全世帯に配布して頂いた。この報告会には、5年生とその父母を中心に50名以上の参加があった。
 報告会では、「何のために調査を行ったのか」「どういう方法で調査を行ったのか」「どんな生きものたちが見つかったのか」「生きものたちは、どのような生活をしているのか」「生きものたちには、何が必要なのか」といった説明を行った。子どもたちは、みな熱心に耳を傾け、話の後にはさまざまな質問が飛び出した。
 そして、最後に子どもたちへのメッセージとして、次のような話を伝えた。「自然(生態系)は、いろいろな生きものたちが関わり合って生きています。だから何か珍しいものとか、役に立つものだけを守ろうとしても、うまくいきません。どんな生きものでも、必ず自然のなかで、それぞれの役割を持って生きています(たとえばカエルの仲間は、たくさんいることで、他の肉食動物の餌になっています)。だから、いろいろな生きものたちが棲めるような、自然環境を残しておくことが大切なのです。谷汲村には、まだ多くの生きものたちが住んでいることがわかりました。この生きものたちは、みなさんの大切な財産なのです。そして、それは次の世代へと受け継いでいくべき財産でもあるのです」 
 その後も、生物多様性保全対策調査を通して、魚好きの先生や児童、父兄との交流を深めていった。

クリックすると拡大してみられます

5.ナマズの遡上する田んぼの復活をめざして
−谷汲村生態系保全モデルほ場の設置
 平成13年度から農水省では、新たなプロジェクトとして「生態系保全技術検討調査」を、全国4地域において開始した。このプロジェクトは土地改良法の改正に伴い、農村地域の生物多様性保全が求められるようになったことから、土地改良事業が行われる場所に環境に配慮した実証施設を整備し、その効果について検証しようというもので、5か年かけて行われるものである。
 東海農政局エリアでは岐阜県輪之内町の低平地の水田地帯を対象地とするかたわら、中山間地域の比較地区として、すでに生物多様性保全対策調査を終了している谷汲村にも、生態系に配慮した施設を設置することとした。農政局と谷汲村が施設設置に向けて話を進めるなか、谷汲小学校から総合学習の場として活用したいという要望があり、ビオトープ(野生生物の生息空間)として機能するような施設の設置が望まれた。
 施設のめざすところとしては、
(1)ナマズなど田んぼで産卵する魚が遡上できる施設であること、
(2)ビオトープとして機能させるために通年湛水できるようにすること、
(3)管瀬川上流部の沼地に棲む希少種カワバタモロコの新たな生息地として機能させること、
 とした。
 また、施設の設置場所については「管瀬川と排水路に落差がないこと」「排水路の水量が少なすぎないこと」「排水路の構造が柵渠であること」の3点を考慮して選定された。この条件を満たす場所は限られていたが、この施設を設置することの重要性を認識した谷汲村は、ほ場整備事業の換地により生態系保全モデルほ場を村有地とした。
 平成13年6月には学識経験者、岐阜県、谷汲村、地元の方々と現場を見ながら、施設の構造についてディスカッションをする機会を持った。その際の意見を参考にして施工が始まり、7月21日に完成した。

6.施設概要
 施設が設置された田んぼは、農道を挟んで管瀬川と接している。したがって、管瀬川が氾濫した際には、上流側から流されてきたカワバタモロコなど魚類の待避場所となることが期待できる。
 モデルほ場全体は、およそ20m×30mの長方形で、周りは畦畔で仕切られている。水深は25〜28cmで、2か所に魚が逃げ込める深みが設けられている。これは、ダイサギなどからの捕食圧を回避するためである。南側には浅水域が設けられ、ヒシやガマなど自生の水生植物が植栽された。遡上施設は12個のますからなり、それぞれ約10cmの落差がある。
 中心部分は井桁状に組んだ1m四方の9個のますからなり、らせん階段状に遡上できるようになっている(右ページの写真)。ますの中には、小石がしいてある。落差部分は丸太で、それぞれのますには、30cm幅の傾斜板も設けられている。遡上施設の組み上げには間伐材を利用した。給水はほ場に設置された給水栓から行っていたが、冬期も湛水状態にするために、排水路にポンプを設置して汲み上げている。魚の遡上期には遡上施設内を流れ落ちる水流の越流深を1〜2cm程度で調整している。

7.遡上施設の効果
 施設が完成したのが7月21日と魚の遡上時期としては、すでに遅い時期であったものの、通水を始めると、まもなく遡上施設の入口にたくさんの魚影が見られるようになった。そして、10cm落差や傾斜板上を遡るオイカワやヌマムツの姿が、頻繁に見られるようになった(右ページの写真)。7月下旬には遡上施設内の調査が実施され、12種の魚類が確認された。また、ほ場内でも魚の姿が、日に日に多くなっていった。
 施設設置から1年たった平成14年6月の調査では、遡上施設内で念願のナマズの成魚と稚魚が確認された。しかし、この時は排水路の水位が高く、遡上施設の一部が水没しており、その範囲での確認であったことから、遡上したものかどうかは確認できなかった。ほ場内でナマズの稚魚が見つかれば、と期待したが残念ながら見つからなかった。
 しかしながら、ほ場内の調査では数種の稚魚が確認されており、ほ場が繁殖場所として機能していることがわかった。その他にも、トンボ類の幼虫やタイコウチなどの水生昆虫も見つかるようになり、ビオトープとしての成果も着実に確認できるようになった。

現在の遡上施設
現在の遡上施設
斜板を遡上する魚
斜板を遡上する魚

8.総合学習の場として
 平成13年9月12日には、谷汲小学校の4〜6年生全員が参加し、モデルほ場の完成式が行われた。この時には、ほ場内で見つかった魚の観察や、谷汲村水域のシンボルともいうべきカワバタモロコの放流が行われた。その後、谷汲小学校では普及啓発用の看板作製や古代米の栽培、魚類の調査など、総合学習の場として利用している。
 生物多様性保全の場としてだけではなく、子どもたちの環境教育の場としても、ますます重要な場所として、認識されつつあるといえるだろう。ほ場周辺に設置された子どもたち手製の看板を見ると、自分たちの自然環境を、自分たちの手で守り、育てていこうという気持ちが、根付きつつあることが感じられる。

9.今後に向けて
 目標としたナマズの遡上、産卵は残念ながらまだ実現していない。しかし、田んぼの生きものたちのにぎわいは、着実に戻りつつあると実感している。今回設置した遡上施設が、完成されたものであるとは考えてはいない。まだまだ、工夫の余地が十分に残されている。
 また、実際の田んぼに設置したときに同じような結果が得られるかどうかもわからない。今後も実験とデータの積み重ねによって、よりよい形、普及しやすい形を工夫していくことが望まれるだろう。
 そうした技術的な面については、今後の課題にするとして、「平成11年から今日に至るまでの生物調査」「地元への報告会」「合意形成」「事業実施」「モニタリング調査」「総合学習の場としての利用」といった、一連の流れについては、全国に先駆けた事例として、誇れるものになったと考えている。行政、地元住民、学識経験者、環境NGOが、それぞれ得意の分野で知恵と熱意を出し合った結果が、谷汲村生態系保全モデルほ場として、実を結んだのではないだろうか。
 谷汲村から始まったささやかな一歩が、近い将来全国に広がり、かつての「生きものたちでにぎわう田んぼ」が、よみがえることを期待している。

《問い合せ先》
日本生態系協会 TEL 03-5951-0244

前のページに戻る