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農民の知恵を生かし、持続的農業を
国連大学副学長 鈴木基之
はじめに

 後の時代になって、20世紀の後半は人類が際立った愚かさを示した時期であったことが認識されるであろう。人間活動の総量が桁違いに拡大し、その及ぼすところに思い至らず、自然資源の大量採取は資源の枯渇に至り、気が付いたときには自分たちの生存の基礎である自然環境を劣化させ、人間の活動そのものが制約を受け、取り返しのつかないレベルに達してしまった時期としてである。つまり、産業革命以来の工業の大規模な発展が石油というエネルギー源を背景とし、重化学産業の高度発展を果たし、物質浪費文明をつくり上げたのであり、高度成長という言葉に浮かれ、経済成長を第一優先とする文化に偏した人類の恥ずべき時代の1つに数えられることになるのである。21世紀は、これに対して、どのような時代として位置づけられるようになるのであろうか。
 地球上の人口は20世紀の初めには16億人程度であったと推定されているが、後半50年の間に30億人から60億人へと倍増し、今後50年で90億人への増加が見込まれている。この増加分の大部分は開発途上国において生じると想定されているが、この人口が現在の工業化諸国と同様の活動に関わるとすると、その活動を支えるために少なくとも地球6つ分の資源が必要となるとの推算もある。
 マルサス(Malthus, T. R., 1766-1834)は200年前に人口の増加は幾何級数的(一定期間ごとに元の値の2倍、4倍、8倍などに増大していく形)であり、食糧増産は算術級数的(同様に2倍、3倍、4倍に増大)であるとの仮説の下に、世界の将来的な食糧危機の到来を予言している。今さらこの典型的な問題を再訪する必要もないが、当時はこの問題を回避するためには、農業生産力を人口増に見合うように増強すればよいという楽観論も可能であった。
 現在の問題はもっと深刻化しており、人間活動の高活性化によって、その与える影響は地球自身の持続能力を破壊するところに至っている。また、食糧増産に関しても頭打ちになることは避けられないとの認識もあり、地球が人間活動を保持できる容量はどの辺りにあるのかを、真剣に考えなくてはならないところに至っているのである。この着地点というのは、当然、地球上の限られた資源、環境の容量の中で、永久に持続出来る人間活動の在り様を示すものでなくてはならない。これを考える上では、現状の当面の問題を解決することを目指すのではなく、長期的なバランスのとれた解を探す必要があり、ここに新しいパラダイムを必要とする理由がある。


持続的活動

 1972年にストックホルムにおいて開催された「国連人間環境会議」は、地球規模における環境問題を考え始めた最初の機会であったといってよかろう。1987年に刊行された『環境と開発に関する世界委員会報告(Our Common Future、通称ブルントラント報告)』において持続的発展という言葉が使われ、その意味として「次世代がその要求を満たす可能性を損なわない範囲での現在の要求を満たす発展」という概念が提出されたのは、今では良く知られていることである。
 1992年のリオデジャネイロの国連環境開発会議において合意された「アジェンダ21」以降は「持続的発展」はいわば世界的目標として、きわめて一般的となっているといえるが、その意味するところは必ずしも揃ったものではない。持続的発展という言葉が、南側の開発途上国と北側の工業化諸国とのいわば妥協の上に生まれたと考えられていることもあり、多くの場合、「発展」とは、地球上の人口の大きな比重を占める貧困層が情報、技術などを含む資源へのアクセスを容易にすることによって、持続的に生きる道を開発することを意味するとされている。
 しかしながら、前述の通り、人間活動の持続性は、単なる貧困からの脱却を超えて、人類の活動そのものの巨大化という観点から考えなくてはならないのである。すなわち、繰り返しとなるが、人口の増加、経済活動、それを支える資源の採取、環境への負荷などは、外部的な制約の無いときにはネズミ算のように一定の期間ごとに2倍、4倍、8倍というように幾何級数的に増加していくことも可能かもしれないが、このような成長を持続的に継続することは有限の広がりしかない、容量の限られた世界では不可能なのであり、この問題を如何に解くかが持続性の問題である。

持続的農業とは

 農業の専門家ではない筆者でも、最近は持続的農業という言葉を聞くことが多い。農業とは何であろう。約1万年前の農業革命の時期に、局所的な気候条件に基づいて長期の間にその地に形作られていた自然の生態系を基盤とし、その容量の範囲内で野生植物のなかから適合した種を選び、その種を育て、収穫し、次の種まきから収穫を年サイクルで行うという継続性のある食糧生産が農業であった。
 ここでは農作物の形で大地の恵みを取り出すことによって余剰な生産が生じれば、当然、大地はその栄養塩などを失い、長い年月の内に疲弊し、収穫もままならなくなったことであろう。自然の条件とどのように共存して持続的な生産を行うのか、同一の条件のなかでどのように収量を最適化するかという点で農民の知恵が蓄積され、また長期間にわたる農作を通じて、偶発的な原因なども寄与し、品種の改良がなされ、農耕の道具、農耕手法、土壌との付き合い方も改善されていったことであろう。
 土壌の豊かさが如何に重要であるかは、農耕において経験的に知られていったであろう。その豊かさには、単に化学的成分のみではなく、土壌の有する物理的構造、すなわち団粒構造なども保水性、根圏の形成などに重要であることも知恵として蓄えられていったに違いない。土壌中の微生物活動がここにおいて、どのように働くのかなども、解析的ではないが感覚的に知られていたのではないであろうか。この意味で、長い農耕の歴史のなかで、土着の知識、伝承・伝統的な知恵は文明を支える素晴らしい要素となっていたに違いない。人間、動物の糞尿の農地への還元の仕方も経験を通じて確立され、まさに物質循環の構造が確立されていったことであろう。
 一方、近代科学技術の発達は、農地に加えられていた人畜力に対し、17世紀には金属農耕具を導入し始め、18世紀には鉄製の道具、19世紀の後半にはスチーム動力の利用も始まった。19世紀には人工肥料を加えることを学び、20世紀に入って空中窒素固定法の開発により、農地に化学肥料を大量に加えることによって収量を増大させ、農業生産をあげる方向に至るわけである。いわば、これが工業的な農業への変化ということが出来る。
 これが現在の農業の基本的な姿であろう。さらに、現代に至り、1968年、USAID(米国国際開発局)により「緑の革命」という考えが提出された。これは1970年のノーベル賞受賞者ボルラウグ(N. E. Borlaug, 1914− )の主唱した農業の形態であり、伝統的な農業に変わる新種の創造、灌漑、肥料、農薬、機械化によって単位面積当たりの収量を上げることを主たる目的とし、徹底的に工業化された農業の方向である。これが開発援助の方向としても示されたわけである。オダムによる古典的な生態学の教科書によると、農作において単位面積当たりの収量は、その土地に加えられるエネルギー、化学物質(肥料、農薬)の量に対応し、収量を2倍にするためには、そのほぼ2乗である4倍のエネルギー、肥料、農薬などの化学物質の投下が必要となる。すなわち、収量増加に必要となった部分以外の添加分は平衡論的には無駄であったこととなる。これが持続的であるか否かが問題である。
 工業化農業が持続性を有しないということに短絡する必要はないかもしれないが、過剰な工業化は明らかに持続的ではない。一方において、単一作物の集中生産の反対の極に位置する自然生態系を維持することの重要性は、人類の生存を考える上で必要なことであろう。これまで、人類は自然の生態系を破壊し続け、新たな人間活動圏をつくり続けてきた。その結果として、人類の維持に必要な自然生態系の最低限の機能を失うこととなってきているのが現代であろう。単位面積当たりの収量という考え方ではなく、農地、自然生態系の両者が人類に果たしている機能を目的関数とし、これを最大限に引き出す方法として農業と自然生態系のあり方を考えていくのが、今後の方向ではないであろうか。
 このためには、たとえば国連大学において国際プロジェクトの1つとして遂行されている「農業多様性(Agrodiversity)」という考え方は1つの解を与えるのではないかと考えている。すなわち、特に途上国において、傾斜地、乾燥地、湿地、洪水地域なども含み、与えられた自然環境下で、長い歴史から生まれた「知恵」に基づく多種の作物の多様な作付方法、多様な技術、多様な管理方法などから、持続的な農業の在り方を学んでいこうというプロジェクトである。
 具体的には、世界中に設定された27の観察サイトにおいて、経験豊かな農民から知恵を引き出し、農民と科学者が共同でその土地に固有な農業を確立し、これによって生活改善を行う。同時に生物多様性を維持することにより、持続的な農業社会を実現する検討を行っている。我が国の持続的農業を考えていく上でも、途上国から学ぶことは多いようである。日本の国際協力においても、工業的な農業の移転ではなく、地域に適した農業を、多様性を維持する形で推進する方策を、その中心に据えることが必要であろう。

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