2024.8 AUGUST 70号
Keynote 2
(国研)国際農林水産業研究センター BNIシステムプロジェクトリーダー 吉橋 忠
(国研)国際農林水産業研究センター 社会科学領域長兼グリーンアジアプロジェクトリーダー 舟木 康郎
1 はじめに
我々の豊かな食生活を支えているのは、窒素肥料を農地に投入することで成り立っている近代農業である。国際肥料協会によると、世界で使用される窒素施肥量は年間約1億トンで、農地に投入される窒素肥料は1961年から2011年までの50年間に10倍まで増加しており、ほぼ全ての窒素肥料は空気中の窒素を化石燃料により固定する工業的窒素固定により生産されている。しかし、この間の食料生産は3倍程度にとどまる。この工業的窒素固定に由来する窒素は、世界の人口のおよそ半分程度を支えており、我々の身体を構成する窒素も、多くの試算ではほぼ半分が化学肥料由来であると言われている。1960年代から始まった化学肥料と高収量品種との組み合わせによる「緑の革命」は、人類が直面した食料不足を奇跡のように解消し、1970年にノーマン・ボーローグ博士がノーベル平和賞を受賞した。
一方で化石燃料により大気中から固定された窒素が大量に農地に投入され続けたことで、地球生態系の中で、投入された窒素が処理しきれなくなり、投入された窒素肥料の半分以上が作物に利用されずに失われていることも指摘されている。経済的に見ても、その損失は年間1兆円を超える。この損失の多くは、農地土壌の微生物が窒素肥料であるアンモニア態窒素を酸化してエネルギーを得る「硝化」を原因としている。硝化は、一般的な窒素肥料である尿素や硝酸アンモニウムから土壌内で生成するアンモニア態窒素を硝酸態窒素へ変換する経路で、硝化菌や硝化古細菌と言われる微生物がエネルギー源を得る手段となっている。この経路は地球の窒素循環にとって重要な過程ではあるが、農地への窒素肥料の投入が過多となると、作物生産を向上させるだけではなく、これらの土壌微生物の活動を一方的に活性化することに繋がる。また、硝化により発生した硝酸態窒素は、負の電荷を持ち、同じく負の電荷を持つ土壌粒子に吸着されにくいため、土壌に留まりにくい。土壌から流れ出した硝酸態窒素は血液中のヘモグロビンと結合する毒性があり地下水汚染や、過剰な窒素源として水域でのアオコの大発生など富栄養化の要因の一つとなっている。また、硝化に伴って、また、脱窒と言われる、硝酸態窒素を空気中の窒素へ戻す過程では、二酸化炭素(CO2)の298倍の温室効果がある強力な温室効果ガスである一酸化二窒素(N2O)が発生する。これらのことから、2009年のストックホルムレジリエンスセンターの報告によれば、人類の活動により生み出される環境中に過剰に放出される硝酸態窒素、一酸化二窒素などにより、地球の窒素循環は既に地球生態系の処理できる限界を通り越し、「高リスク」にあるとされている。世界の食料需要は未だ増大しており、今後数十年の間にこれまでの数十年に比べ、急速な食料増産が必要とされている。しかし、食料生産のために投入した窒素肥料の多くは作物による収穫ではなく、残念ながら、硝化菌と硝化古細菌を増大させ、その副産物が環境に負荷を与えている。そのため、必要な食料の確保には、さらに多くの窒素肥料が必要とされ、それが地球規模の問題となってしまうという負の連鎖に陥っているのが現状と言えよう。既存の農地を活用しつつ、農業の環境負荷を低減しながら、生産性を向上させた食料生産システムを如何に確立するか、という解決策への貢献が世界に求められており、それこそが「第2の緑の革命」であり、科学技術の進展が期待されている。
2 BNIとは
1986年に、コロンビアにある国際熱帯農業研究センター(CIAT)は奇妙な現象を報告した。ある種の熱帯イネ科牧草の圃場では、土壌に硝酸態窒素が全く見られない、という報告である。国際農林水産業研究センター(国際農研)は1995年にこの現象に科学的なメスを入れようとCIATとの国際共同研究を開始した。初期の研究で、この熱帯牧草(クリーピングシグナルグラス; Brachiaria humidicola)では、硝酸態窒素が見られないだけではなく、土壌中の硝化菌と硝化古細菌の数が少ないことが解明された。我々は、この牧草そのものに硝化を抑制する機能があると考察し、さらに研究を進めたところ、根から放出される物質、ブラキアラクトンが土壌の硝化菌と硝化古細菌、特に硝化古細菌を選択的に抑制することで、土壌での硝化を抑制することを解明した。これに伴い、窒素肥料に由来する硝酸態窒素の流亡や、N2Oの発生といった環境負荷も低減されることが分かった。我々は、これを「生物的硝化抑制(Biological Nitrification Inhibition; BNI)」と名付け、この現象を活用することにより、農業生態系の窒素循環を改善し、農業からの環境負荷を低減することを目指した。(図1)
3 BNI強化作物の確立を目指す国際農研の「BNIシステム」プロジェクト
BNIを発見した国際農研は、BNIを活用することを目指し、世界中のBNI研究者と共に研究を推進する「BNI国際コンソーシアム」を主宰している。また、隔年でBNI国際コンソーシアム会議を開催しており、世界各国の作物開発、植物栄養の他、土壌に関わるあらゆる研究分野、さらにはBNI物質の特定、生合成や作用機作を検討する化学、BNI強化作物の導入を評価する社会科学などの様々な分野の研究者との連携を主導している。第4回BNI国際コンソーシアム会議は2022年11月につくば国際会議場で開催し、60名の海外研究者を交え合計80名の参加者があった。今年12月には、第5回BNI国際コンソーシアム会議を、つくば国際会議場で開催する予定である。
また、国際農研は、第5期中長期計画期間の研究プロジェクトとして、BNIが初めて見つかった熱帯牧草クリーピングシグナルグラスの他に、イネ科穀物であるコムギ、ソルガム、トウモロコシ、そしてイネ科の雑穀をターゲットとしたBNI強化作物の作出と生産システムでのBNIの活用を目標とする「生物的硝化抑制(BNI)技術の活用による低負荷型農業生産システムの開発」(BNIシステムプロジェクト)を推進している。これらの動きにより、国際農研発のBNIの活用という研究コンセプトが、ほぼ20年もの年月を経て、社会実装に向けた歩みを進めている。
4 世界初のBNI強化作物のプロトタイプであるBNI強化コムギの開発と社会実装に向けた取り組み
コムギは「肥料で獲る」と言われるほど、施肥が重要とされる作物である。我々は、コムギにおいてBNIを活用することを意図し、国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)の高収量品種及び遺伝資源がBNI能を持つかを検討した。しかし、これらに高いBNI能はなく、コムギと掛け合わせ可能な野生コムギ近縁種であるオオハマニンニク(Leymus racemosus)に強いBNI能を見出した。オオハマニンニクはユーラシア大陸の砂地に分布する多年生植物であるが、コムギとの属間交配が辛うじて可能である。コムギは染色体を3セット持つ6倍体であり、属間交配によって進化したことが他の多くのイネ科穀物にない特徴である。そこで、我々はオオハマニンニクの持つBNI能を交配可能な品種に導入した。さらに、戻し交配により、特定のオオハマニンニク染色体のみを持つ異種染色体置換系統を作成し、得られた系統のBNI能を検定することで、BNI能がオオハマニンニクのどの染色体に由来し、これがコムギのどの染色体と置換しているとBNI能が強化されるかを調べた。その結果、オオハマニンニク N 染色体短腕(Lr#N-SA)がコムギ 3B染色体短腕と置換した系統のBNI能が高く、この組み合わせがコムギのBNI能の強化に最適と考えられた。属間交配は遺伝子組換えではないため、直ぐに圃場試験が可能なのが利点である。
我々は南アジア向け高収量品種である“Munal”にBNI能を持つLr#N-SAを戻し交配によって導入した。親系統である“Munal”でのBNI能は、根乾物1g、1日あたり92.7±12.1 ATU(アリルチオ尿素当量;硝化抑制の度合の単位)であるのに対し、Lr#N-SAがコムギ 3B染色体短腕に置き換えられた“BNI強化Munal”では181.7±22.3 ATUと、2倍程度まで強化された。
茨城県つくば市の圃場でこれらの系統の試験を実施したところ、“BNI強化Munal”では親系統に比べ、根圏土壌の硝化菌数のうち、硝化古細菌の抑制が見られ、土壌の硝化は約30%減少し、根圏土壌からのN2O排出量は約25%減少した。このことから、Lr#N-SAの導入によるBNI強化により、農地からの環境負荷が低減することが明らかになった。“BNI強化Munal”では親系統に比べ、バイオマス生産量、子実収量、窒素吸収量が施肥量に関わらず優位に高くなった。つまり、収量を低減せずに施肥量を低減することができ、窒素施肥による農業からの環境負荷を低減することが期待できる。(図2)一方で、収穫されたコムギは、コムギ品質の指標であるタンパク質含量と製パン特性について、有意な差がなかった。
本研究は、米国科学アカデミーより“Cozzarelli Prize”(2021)を受賞すると共に、国際農研の本研究の研究者がTED2022(2021年4月:バンクーバー)にて“The wheat field that could change the world”として、講演を実施した。さらに、本研究は農林水産省の「みどりの食料システム戦略」に位置付けられ、Lr#N-SAの活用による「温室効果ガスと水質汚濁物質を削減する生物的硝化抑制(BNI)能強化品種の開発」として、地球にやさしいスーパー品種等の開発・普及に貢献することが期待されている。また、2023年のG7宮崎農業大臣会合や、G20農業大臣会合(インド、ハイデラバード)でも取り上げられた。
現在、この「BNI強化コムギ」と名付けたプロトタイプは、世界各地の圃場試験で、窒素肥料を効率的に利用し、環境負荷を低減することが実証されつつある。また、既に固定され、メンデル遺伝するLr#N-SAを各地の優良品種へ導入する研究も進められている。
例えば、世界の11%のコムギ生産を担う世界第2位のコムギ生産国、インドでは、その穀倉地帯であるヒンドゥスタン平原で問題となっている過剰な窒素施肥による環境負荷を低減すると同時に、生産性をむしろ向上させることを目的として、SATREPS(JST-JICA)プロジェクト「生物的硝化抑制(BNI)技術を用いたヒンドゥスタン平原における窒素利用効率に優れた小麦栽培体系の確立」を実施している。ヒンドゥスタン平原は、歴史的に、緑の革命が最も成功した地域で、インドの13億人もの人口を支える食料安全保障の要である。このうち、緑の革命の進展が早く、その恩恵を最も受けたとされる北西部では、300kgN/haもの窒素肥料が投入されている場合があり、地域の窒素利用効率は3割以下とされる。インド政府系のシンクタンクであるNITI Aayogは、2015年に「農業の生産性の向上と農家収益への還元」とした報告で、農業の持続的発展のために、作物の窒素利用効率の向上が必要としている。また、国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26、2021年)では、インドのモディ首相は2070年までに温室効果ガス「実質ゼロ」を達成すると表明し、これに向け、インドのGDPの16%程度を占める主要な産業である農業からの温室効果ガス削減に向けた動きも出始めている。これらに対応するため、インドの環境に適した優良品種にLr#N-SAを導入し、BNI強化インド優良品種を作出しようとしている。さらに、これを普及するための現地での圃場試験、Lr#N-SAからBNIを制御する領域の特定、Lr#N-SA由来のBNI物質の単離同定、また、BNI強化コムギの導入による農家経済・環境への裨益の技術開発事前評価を実施し、ヒンドゥスタン平原でのBNI強化コムギの社会実装に向けた取り組みを実施している。既に、多地点試験での結果が得られており、CIMMYT国際品種を基としたBNI強化コムギは親系統に対して窒素利用効率が高いことが判明した。現在Lr#N-SAをインド優良品種に導入中である。
日本では、コムギは北海道から九州までの多様な環境で生産されると共に、麺用、パン用と多種の用途での高い品質基準をクリアしなければならない。一方で「みどりの食料システム戦略」を踏まえ、農業の環境負荷を低減しつつ、生産力を向上させることが急務である。BNI強化コムギはこの目的に合致するため、令和5年度より、BNI能の国内コムギへの導入を図る「国内向けBNI強化コムギの開発の加速化」プロジェクトが開始された。国内で生産される優良コムギ品種群へのBNI能の導入と、各種環境におけるBNI強化コムギの適応性の確認を目的としており、近い将来BNI強化コムギが環境負荷の少ない品種として、国内で生産されることを目指し、活動を行っている。
5 「日本発」の技術のアジアモンスーン地域での社会実装に向けた「グリーンアジア」プロジェクトとBNI強化コムギのネパールでの展開
アジアモンスーン地域におけるBNI強化コムギの社会実装の取り組みについては、みどりの食料システム基盤農業技術のアジアモンスーン地域応用促進プロジェクト(略称:グリーンアジア)において実施している。グリーンアジアは、みどりの食料システム戦略をふまえて2022年度から実施しているものであり、我が国の有望な基盤農業技術(Scalable agricultural technologies)の収集・分析を行い、アジアモンスーン地域で共有できる技術情報を発信するとともに、国立研究開発法人が有する国際的ネットワークを活用し、各地での共同研究を実施するものである。
グリーンアジアにおける国際共同研究の特徴は、新たな技術開発を行うものではなく、既にアジアモンスーン地域のある国・地域において確立した技術を、別の国・地域において実証試験等を通じて現場の状況に応じた栽培方法・条件を確認し、普及へとつなげるための応用研究を実施することである。
グリーンアジアでは、世界初のプロトタイプであるBNI-Munal及びBNI-Borlaug 100をそのまま品種の置き換えによって社会実装することを目指した活動をネパールで行っている。ネパールでは山間部ではCIMMYTの国際品種Munalが、コムギの主力生産地であるタライ地方ではBorlaug 100が推奨品種として採用されており、これらをBNI強化コムギに置き換えた場合の農家への裨益や、収量の影響について、ネパール農業研究評議会(NARC)との共同研究を行っている。実際に、ネパールでもBNI強化コムギは高い窒素利用効率を示し、品種の置き換えに向け、更なるデータの取得が行われているところである。LDCであるネパールにとって、外貨による窒素肥料の購入は食料安全保障上大きな問題であり、BNI強化コムギの活用が解決策となることを期待している。
こうした取り組みの状況については、国際的な会議の場を活用した情報発信にも努めている。例えばCOP28(2023年)では、技術及びイノベーションをテーマとした会場において、我が国の農林水産省主催で国際農研によるアジアモンスーン地域各国への技術の応用促進の取り組みを紹介するセミナーを実施し、グリーンアジアの概要とともにネパールでのBNIコムギの実証試験の取り組みを紹介した。
なお、グリーンアジアでは、我が国で開発され、あるいは国際共同研究を通して開発された有望な基盤農業技術のうち、生産力の向上と持続性の確保の両方に資する技術をアジアモンスーン地域向けの技術カタログとしてとりまとめて公開している。2023年9月には、農業分野23技術、林業分野3技術、及び水産業分野5技術の計31技術を掲載した「アジアモンスーン地域の生産力向上と持続性の両立に資する技術カタログVer.2」を作成したところであり、これらが活用されることにより、アジアモンスーン地域の持続可能な食料システムの構築に貢献しうると考えている。
BNI強化コムギは、技術カタログにも掲載されており、この地域のより多くの行政官、研究者、普及担当、生産者、民間セクターを含む多様な関係者の参考となることが期待されている(図3)。
6 日本発のBNI、世界へ!
昨年のG7宮崎農業大臣会合やG20農業大臣会合を受け、コムギを生産する先進国との国際共同研究によるBNI能の導入も検討が進んでおり、将来的には、世界の約2億2,500万haものコムギ生産地域に向け、様々なコムギ品種にオオハマニンニク由来のBNI能を付加することで、近代農業からの環境負荷となる窒素損失を低減し、生産性を向上させながら、地球温暖化を緩和することを目指し、研究を進めていくこととしている。
また、世界最大のフィランソロピー財団であるNovo Nordisk Foundationは、農業の環境負荷低減に関わる課題として、BNI強化コムギを世界のコムギの「コア形質」(全てのコムギが持つべき中核となる性質)にするべく、CIMMYTを中心としたCropSustaiNプロジェクトを立ち上げた。我々もBNIを発見しCIMMYTと共にBNI強化コムギを作出した中核メンバーとして、協調関係を基に活動を続けていく。日本発のBNI強化コムギが世界に羽ばたき、皆様の手元にBNI強化コムギのパンや麺として届けられる日も遠くはないと考えている。
また、我々の取り組んでいる他の畑地作物についても、BNI強化作物の確立と、その活用に向けて研究が進んでおり、BNIという自然界に存在した現象を見出し、これを農業の現場に活用するという息の長い活動により、農業が環境に与える負荷を低減し、地球にやさしく、かつ、効率よく食料を生産するシステムの確立に寄与していきたいと考えている。