2024.2 FEBRUARY 69号
REPORT & NETWORK
1 はじめに
2022年2月に発生したロシアによるウクライナ侵攻は、本稿執筆時点の2023年10月16日で600日が経過し、いまだ収束の糸口が見えない状況である。同侵攻により、食料やエネルギー価格の高騰、サプライチェーンの混乱などが発生し、世界経済は大きな影響を受けている。とりわけウクライナ国の農業分野に与える影響は大きい。ウクライナ国は、小麦、大麦、トウモロコシ等の世界有数の農作物輸出国であるが、戦乱によって、灌漑施設や穀物倉庫等農業関連施設の破壊、爆弾等による農地汚染が深刻な状況であり、加えて、地雷等の埋設可能性があるため利用不可能となった農地の拡大、国際避難民の増加や男性の従軍による農業労働人口の減少も、同国の農業生産体制へ影響を及ぼしている。本稿では、ウクライナ農業、ロシアの侵攻による農業分野への影響について報告する。
2 ウクライナの農業
2.1 ウクライナ農業セクターの概観
ウクライナ国の気候は寒帯・温帯・ステップに3区分されている。北部と西部は冷帯湿潤大陸性気候(Dfb)に区分され、カルパティア山脈の豊かな自然植生に覆われた地域である。年降水量は1,200~1,600mmに達する。南部~クリミア半島は比較的温暖な温暖湿潤気候(Cfa)で、5月~8月の農繁期に400mm~700mmのまとまった降雨がある。豊富な日射量と肥沃な黒土(チェルノーゼム)に恵まれ、欧州最大の穀倉地帯を形成している。南部~南東部の一部はステップ気候(BS)に属しており、クリミア半島南部には年降雨量300mmという半乾燥地もある。ウクライナ国の農耕地は、国土面積60.4万km2の約70%に当たる41.31万km2(4,131万ha、2019年)で全国に広く分布しており、各地域の自然条件を生かした農業が営まれている。
ウクライナ国は、1991年のソ連解体後、農地改革と企業私有化などの法制度を整備し、農業部門の成長を加速させてきた。その結果、穀物と油糧種子の生産量は世界トップクラスに成長した。2021年の名目GDPは1,997億7,000万ドル(一人当たり4,828ドル)1で、うち農林水産セクターは約10.6%を占めた。また、労働人口2,046万人(2021年)の20%に当たる400万人に雇用機会を提供し、総人口4,379万人の30%に当たる約1,300万人の生計を支えていることから、ウクライナ国民にとって農林水産セクターは、重要な産業であると言える。
2.2 ウクライナにおける農業生産
ウクライナ国は、農作物の総生産量が11,000万トンに達する欧州有数の農業国である。ウクライナ国農業を代表する作物は小麦、大麦、トウモロコシで、これら3品目の年間生産量は6,000万~7,000万トンに達する。種子用を含む国内の需要量は、総生産量の30~40%に当たる2,700万~2,800万トンで、うち1,400万トンは飼料用である。穀物の輸出量は年間4,000万トンで、グローバルサウス諸国を中心に世界の食糧安全保障に貢献している2。
穀物は広く全国で栽培されているが、小麦・大麦は国土の南部と東部、トウモロコシは中部と東部の生産量が高い。これらの地域では農業企業により、大区画圃場に大型農業機械を導入した農業が営まれている。穀物と並んで油糧種子と工芸作物の生産も盛んである。近年、政府の農産加工振興政策を背景に民間セクターによる輸出向け製品の生産量が増加している。
穀物・油糧種子・工芸作物に比べて収穫面積は劣るが、ウクライナ国は東欧で上位3カ国に入る野菜と果実の生産国でもあり、全国規模で多種多様な園芸作物が栽培されている。近年、輸出志向の企業農園による大規模な野菜・果実生産も盛んである。ウクライナ国の代表的な果実はリンゴであるが、ベリー類の生産拡大が進んでいる。野菜と同様に集約的な栽培管理を必要としていることから、小規模な個人農家の新規参入が特徴的な作物である。
2.3 ウクライナにおける営農主体
ウクライナ国では、独立に伴う旧ソビエトの国営農場の解体・民営化の経緯から生産主体は企業と個人の多層構造となっている。大規模農業企業は、東部から南部を中心に大型機械化による輸出用作物の大規模生産を営んでいる。一方で、個別農家・家庭菜園農家は野菜とジャガイモの生産量の90%以上、果物の76%を生産し、畜産・養鶏も営んでいる。
2018年時点のデータでは、40,000を超える農業企業が登録されている。50,000ha以上の農耕地を経営する大企業(オルガルヒ)も存在するが、数では平均経営面積が4ha程度の個人農家・家庭農園が大部分を占めている。個人農家・家庭農園を加えた4種の営農形態にかかる企業/農家数、経営規模、農地占有面積、主な作物の営農形態別の内訳は表1に示す通りである。また、2018年の農業統計年鑑によれば、この「個人農家・家庭農園」が全農業GDPに占める割合は、41.2%であるとされており、全体の約半分近くがこの規模の小さな個人および家庭菜園で生産されている。
出所:ウクライナの農業企業団体より提供
営農形態 |
企業/農家数 (No.) |
平均経営 規模(ha) |
農耕地 占有率(%) |
主な農産物 |
主たる 販売先 |
大規模農業企業 Agro-holdings |
70 |
70,000 |
14 |
小麦、トウモロコシ、大豆、ナタネ、ヒマワリ、鶏肉 |
輸出 |
中小農業企業 協同組合農場 |
6,000 |
1,600 |
28 |
小麦、トウモロコシ、大豆、ナタネ、 ヒマワリ、テングサ、果物、ベリー、 牧草、ジャガイモ |
国内市場、輸出 |
中小農業企業 会社農場 |
35,000 |
130 |
13 |
||
個人農家・家庭農園 |
4,000,000 |
4 |
45 |
野菜、家禽、ジャガイモ、牧草、果物、ベリー |
自家消費、近隣地区での販売 |
2.4 ウクライナにおける灌漑
ウクライナ国の灌漑排水システムは、多くが、同国が旧ソ連の一部であり、農業が大規模な国営農場と集団農場によって行われていた1960年代、70年代、80年代に整備されたものである。最盛期には、約220万ヘクタールの灌漑施設と、主に北部・北西部の降水量が多い地域を中心にして300万ヘクタール以上の排水施設が整備されていた。
ウクライナ国独立後の急速な経済的・政治的移行は、これらの大規模農場経営構造の崩壊をもたらし、地域の灌漑システムの管理に関する責任の所在が明確でないという状況が生じた。ソビエト連邦時に建設された灌漑システムは、その維持管理コストが、ほぼ完全に国家によって賄われていたが、独立後、ウクライナ国は深刻な予算危機に直面し、電力料金などの急激な上昇に、灌漑施設の維持管理にあてる国家機関の予算が追いつかない状況となった。このため、予算の大半は、人件費と管理費に使用され、施設の予防保全にはほとんど充てられなかった。このため、灌漑システムの劣化が生じ、灌漑施設が利用されなくなる地域も多く生じた。
一方、民間による灌漑開発が、国の南部、特にヘルソン州、ミコライウ州、ザポリージャ州で最も急速に行われた。2013年までに総灌漑面積は30万~40万ha、ピーク時の20%以下であるが、ほぼこれらの地域に集中することとなった。2021年時点で機能している灌漑事業地区の面積は約54万haである。
以上、述べたように、ウクライナ国の灌漑、排水、水資源管理の分野は、既に戦争前から転換期にあり、インフラの問題を解決するために構造改革が必要となっていた。
3 ロシア侵攻によるウクライナ農業への影響
3.1 灌漑施設等農業インフラの破壊
2023年2月に世界銀行が発表した「Rapid Damage and Needs Assessment 2」によると、水資源と灌漑・排水セクターにおける損害額は、3億8,050万ドルと推定されている。ロシア侵攻後の紛争による農業施設への被害は、図3に示す通り、主にキーウ周辺地域およびヘルソン、ザポリージャ、ドネツク、ルハンシク、ハルキウなどの南・東部に集中している。これらの灌漑施設の物理的な被害に対する復旧・復興費用は、急を要する短期対策費用のみでも、約2億ドルにも上ると算定されている。
上記報告以降も、2023年6月にKakhovkaダムが破壊されるなど、灌漑施設等への被害は深刻な状況である。農業政策食料省によれば、実質的にヘルソン州の灌漑システムの94%、ザポリージャ州の74%、ドニプロペトロウシク州の30%が灌漑不可能になったと推定されている。これらの地域で灌漑を迅速に回復できなければ、ウクライナ国は農業生産の14%を失い、輸出の可能性が大幅に減少すると予測している。
3.2 地雷、重金属等による農地の汚染
ウクライナ国家地雷対策局によれば、2022年11月の時点でウクライナ国土60万3,700km2のおよそ4分の1にあたる約16万km2が地雷などの爆発物により汚染されている可能性があると発表している6。また、ウクライナ土壌科学・農業化学研究院(Ukraine's Institute for Soil Science and Agro-chemistry Research)が、衛星画像とサンプル調査に基づいて調査分析を行った結果、「紛争地に残された弾丸・燃料に含まれる水銀やヒ素などの有害物質による土壌汚染が極めて深刻化してきている」と報告している。報告の中で被害面積は、ウクライナ農地の総面積の約4分の1に当たる1,050万ha と推定しており、国家レベルで取り組むべき課題であると述べている。
3.3 農産物流通施設の破壊・輸送ルートの封鎖
①穀物貯蔵施設
2022年9月、イェール大学公衆衛生大学院の人道研究所と米国エネルギー省オークリッジ国立研究所は、衛星画像を活用し、2022年2月のロシアによるウクライナ国侵略開始5カ月後の2022年7月における貯蔵施設への影響評価を実施した7。これは、全国調査ではなく、侵略の影響下にある州(西部を除く16州)を対象としたものである。同調査によれば、「既存貯蔵施設の推定容量5,800万トンの内、849万トン(14.57%)は高い確率で被害を受けた」と結論している。
②黒海を通じた輸出
黒海を通じてウクライナ国からの穀物輸出を行ってきた黒海穀物イニシアチブが終了したことにより、グローバルサウスへの穀物輸送が大幅に制限され、世界の食糧安全保障は大きな負の影響を受けている。黒海経由の穀物輸送が困難な状況にあって、ポーランド・リトアニア経由の陸運およびDanube川の水運の輸送量拡大の緊急性が一段と高まっている。輸出ルートの変更により、生産地から国境ゲートへの輸送ルートおよび関連施設の見直しも必要とされている。
3.4 農業機械の破壊
ウクライナにおけるトラクターは主に、120馬力から400馬力クラスの大型トラクターが主流となっており、アメリカ(John Deere, Case IH)やイタリア(New Holland)からの輸入が多くなっている。ウクライナ側の提供資料及びキーウ経済大学のとりまとめによれば、2023年半ば時点で、ロシア侵攻により、3万台を超えるトラクターが完全に破壊され、16億ドルにのぼる被害が発生している8。
3.5 農業経営の影響
FAOの報告書9によれば、「農家が直面した農業経営に関する主な困難は、農業機械を動かすための燃料や電力の価格高騰、種子や肥料へのアクセスの問題、市場や買い手の問題であった」とされる。農業資材投入に問題があったとした農家は、農業資材投入に問題がないとした農家に比べ、収入が減少している傾向が強かった。しかしながら、「農業資材投入に問題がなかった農家においても減収に苦しんでいる」との報告があった。農家は農業資材販売店へのアクセス状況よりも価格の高騰が問題であるとしている。肥料価格の高騰に加え、農家にとっては市場や買い手の確保も困難となっており、また生産物の価格が低迷、あるいは買い手が見つからないという問題も生じている。ウクライナ国の主要輸出港が封鎖、船輸送に問題が起きている現況下、輸出向けの作物(穀物や油糧作物)の国内供給が増加し、これにより国内での作物販売価格が下落し、農家収入の低下を招いた。
3.6 人材への影響
紛争の影響により国内避難民IDP (Internally Displaced Person)が多く生じている。多数のIDPが中・西部地域に分布しており、中部ではIDPにより人口が17%増、西部では8%増となっている。戦争が長期化するにつれ、これらIDPの生計手段の確保も必要となる。さらに、戦争終了後も不発弾・地雷除去が終了するまでは南東部への帰還は困難であり、中・西部でのIDP受け入れ能力(雇用機会の提供など)の強化が求められる。
欧州委員会(EC)は過去の推移と紛争の影響を考慮した人口予測を行っている。同分析では国際避難民について定性的な移住シナリオに基づいて2027年と2052 年の人口を表2の通り予測している。
定性的な移住シナリオ |
ウクライナ国総人口(百万人) |
人口変化 (百万人) |
||
2022 |
2027 |
2052 |
||
Long War and Low Return 戦争の長期化により、国際避難民の数が増加し続け、経済復興の遅れからウクライナ国に帰還する難民数も少なくなる。(900万人の難民が発生する) |
43.3 |
35.4 |
29.9 |
-13.4 |
Permanent Emigration 戦争は短期的に終了し、国際避難民の大多数が今後10年以内に帰還するが、経済回復は遅れ、帰還率は低く、移民の高い割合が長く続く。 |
43.3 |
39.2 |
31.5 |
-11.8 |
Circular Migration 戦争は短期的に終了し、国際避難民の大多数が10年以内に帰還する。依然として移民の国で、EU主要国の制度変更で循環移民の割合が高い。 |
43.3 |
39.3 |
33.0 |
-10.3 |
Migration Transition 戦争が終わり、経済成長と政治・社会が安定する。東欧諸国と同じ道をたどり積極的な移民政策に支えられ、外国人労働者の大幅な採用も行われる。 |
43.3 |
39.3 |
34.3 |
-9.0 |
上表で示すような急速に進む人口減少は、近い将来、ウクライナ国の農業生産を含む、経済活動にとって深刻な発展阻害要因になることが予想される。
3.7 農業生産量の減少
ロシアのウクライナ国侵攻により、2021年秋に播種された小麦・大麦の冬作の収穫、2022年春作の播種作業と収穫作業が制約を受け、2022年の農業生産高は大きな損害を被った。農業政策食料省発表の2022年作穀物・油糧種子への影響は、以下に述べる通りである11。
・主要な穀物(小麦、大麦、トウモロコシ)とヒマワリ種子の生産量は60%台に留まった。これら作物の平均収量は2021年の90%前後を維持しているが、収穫面積は40%近くまで減少していることから、減産の主要因は収穫面積の減少と言える。
・大豆とナタネ種子は収穫面積が15%拡大したことで10%程度の増産となった。戦禍のなかにあって平年より作付面積を拡大した地域がある。
・テンサイは収穫面積が19%縮小したものの、戦前より平均収量は5%向上した。
4 ウクライナ農業分野復興の方向性
2022年に実施されたウクライナ復興に係る国際会議で示された“Ukraine’s National Recovery Plan 2022”では、農業セクターの復興策として以下の優先プロジェクトを提示している12。
1. EU Green Dealの原則に基づいた農産物加工(デンプン、コーンシロップ、グルテン、レシチン、タンパク質)の開発
2. EU基準に準拠した100万ヘクタールの灌漑システムの構築
3. 高付加価値の農産物(野菜、果物、ベリー、種子)の開発
4. 被害を受けた土地の再生
5. 肉と乳製品の生産と加工の増加
6. 農業・食品部門を「緑の成長(Green Growth)」へ移行する促進
7. 農業企業10,500社の迅速な復興(戦後において)
これらの方針から、旧ソ連基準の灌漑施設から脱却し、また、穀物生産のみならず、農業の付加価値を向上させる取り組みが重要となっていると理解できる。灌漑技術、高付加価値農業、エネルギーの効率化などは我が国農業の強みであり、これら分野に対するウクライナ支援に可能性があると考えられる。また、農業労働人口減少に伴い、省力化が求められることから、自動運転などの効率化のための技術が必要とされており、この点においても、我が国農業の強みを活かした、ウクライナ農業復興支援の可能性があるものと認識する。
5 おわりに
これまで見てきたように、ウクライナ国へのロシア侵攻は、同国の農業分野へ様々な影響を与えている。侵攻終結の兆しは、いまだ見えないものの、同国の農業分野の復興に向けて、我が国の農業分野が持つ強みを活かししつつ、官民セクターが一丸となって取り組んでいくことが重要であると認識する。ウクライナ国における侵攻の被害を受けた方々に哀悼の意を表するとともに、一刻も早い侵攻の終結を祈り、本報告を終える。