2022.2 FEBRUARY 65号
REPORT & NETWORK
1 はじめに
古代文明の栄えたナイル川流域、チグリス・ユーフラテス川流域、インダス川流域などでは、古くから灌漑農業が行われてきた。現在、これらの乾燥・半乾燥地帯では、降雨パターンの変化に加えて、人口増加や経済発展に伴い水需要が増大し、農業における適切な水利用・水管理が重要な課題となっている。また、これらの地域の国々は自国領域内の降水量が少なく、国際河川を通じて他国から流入する水資源に強く依存している場合も多い。FAOのAQUASTATによると、イラクにおける総水資源量は2,393m3/人/年であるのに対し、国内水資源量は937m3/人/年であり、39%にとどまる。周辺国のこの国内水資源比率は、エジプトで2%、シリアで42%、パキスタンで22%などとなっており、過半を国外からの流入に依存している。そのため上流国の水資源開発により、流入量が減少するリスクにさらされていて、上流国との調整の他、国内の水資源管理が重要な課題となっている。
イラク国水資源省が2014年に作成した水土地資源に関する戦略文書、Strategic Study for Water and Land Resources in Iraq (SWLRI)の中で、2015年時点では総水需要量760億m3に対し賦存量が774億m3と上回っているが、2020年以降は水不足に陥り、2035年には約110億m3の不足となると予測された。このような危機への対策として、水資源関連施設の整備・リハビリなどのハード面の整備の他、各セクターにおける水管理の重要性も強調されている。
本稿では、イラクの灌漑セクターにおける参加型水管理に関する技術協力事業を、水資源のひっ迫した中東地域における水管理の事例として紹介する。
2 イラクにおける灌漑農業と日本の支援
イラクでは全国に142の灌漑スキームが分布しており、大規模なダムや頭首工、長大な水路が整備されている(図1)。その灌漑整備面積は約353万haであるが、実灌漑面積は約184万ha(約55%)と推定される(FAO AQUASTAT)。かつては政府が灌漑施設の建設と維持管理を実施していたが、近年は政府による維持管理が十分に実施されず、灌漑施設の機能低下が顕在化している。
このため、灌漑施設の整備というハード面に対し、日本の資金協力事業として2008年から既存灌漑用排水路と灌漑開発農地の再生を目指し、灌漑セクターローンを開始し、現在はそのフェーズ2を実施している。
一方、ソフト面の灌漑水管理に関しては、「灌漑用水効率的利用のための水利組合普及プロジェクト(2012.4~2015.3)」を実施し、2014年4月にはイラク初の水利組合法が成立し、水利組合の設立が開始された。さらに、水利組合による参加型水管理を充実させることを目指し、「水利組合による持続的な灌漑用水管理プロジェクト(2017.4~2021.2)」の技術協力を実施した。プロジェクトの終了時には、国内の水利組合の数は169まで増加したが、この水利組合の灌漑面積はまだ国全体の灌漑面積の5%にとどまる。
3 イラクにおける参加型灌漑水管理に対する支援
3. 1 概要
「水利組合による持続的な灌漑用水管理プロジェクト」では、既存の水利組合の中からイラク南部の2つの灌漑地区をモデル地区に設定し、水利組合が主体となって灌漑水管理を進めるモデルを作成し、その水管理モデルを全国に展開する支援を行った(図2)。A地区は全体面積約1,200ha、構成農家数50、共同ポンプにより地区内に揚水している。B地区は約385ha、構成農家数82、長大な水路灌漑スキームの最末端に位置している。両地区とも冬作のコムギおよび飼料作物(オオムギ)が中心で、B地区においては夏作の野菜も栽培されている。なお、この地域は年間降水量が100mm程度で灌漑なしには農業を営むことはできない。
モデル地区での活動では、水利組合の運営管理、灌漑施設の維持管理、圃場外・圃場内の水管理を含む「参加型灌漑事業計画」を作成し、それを実践するとともに毎年計画を見直していくことを通して、実践的な水管理モデルを作成した。さらに、このモデルを全国に普及することを念頭に、県水資源局と農業局による水利組合普及チームや水利組合に対する「研修システム」を構築すること、また水利組合の状況を管理する「モニタリングシステム」を構築することも、プロジェクトの重要な活動であった。これらの制度をイラク国の政策・制度として定着させるために、政府関係者の知見を広げることを目的に第三国や日本での研修も実施した。
3. 2 参加型水管理モデルの開発
参加型灌漑事業計画(水管理モデル)は、(a)水利組合の運営管理、(b)灌漑施設維持管理、(c)圃場外水管理、(d)圃場内水管理について整理したものである。まず、モデル地区における計画作成過程について以下に述べる。
(a)水利組合の運営管理
灌漑受益者によって構成される水利組合は、政府からの指導・支援は受けるものの、組合員による民主的な組織とする方針とした。そのため、水利組合の運営に関して重視した点は、1)一部の役員が運営するのではなく組合員の総意に基づいて民主的に運営すること、2)会議や会計の記録を確実に残すこと、であった。
水利組合の運営は、組合員から民主的に選出された役員が事務局となって管理するが、重要な事項は年1回あるいは2回開催する組合員総会において決議することを原則とした。地区内の参加型灌漑事業計画の作成に当たっては、組合役員が県の普及員の支援を受けつつ作成した計画案を組合員総会において十分に説明・協議して、組合員が納得した形で最終化することを繰り返し指導した。県の普及員に対しても、技術的見地や行政的立場から支援を行うが、意思決定に対する指示は行わないよう指導した。
また、会議の議事録、会計記録などを確実に作成し、保管することを義務付けた。とくに決められた水利費(組合費)を徴収してそれを記録し、施設の維持管理等に対する支出を記録し、バランスを把握し、次年度の管理計画に反映させることの重要性を強調した。
さらに、イスラム教社会における女性の社会参加に関する配慮も試みた。現状では、水利組合の構成員のほとんどは男性であり、集会に女性が出席することは慣習上認められない。組合活動は男性社会であることは認めつつも、灌漑農業は個々の農家の生計手段であり家庭内では女性の意見も重要である。こうしたことから、組合総会の実施の前に、別途女性部会を開き、女性の意見を組合総会に提出して議論する方法をモデル地区で実施した。
(b)灌漑施設維持管理
組合員が管理する灌漑施設の維持管理についても参加型で計画的に行うようルールを明確化した。組合員の中から維持管理担当者を組合総会において選定し、計画的に定期点検を行い、自ら必要な維持管理を実施することを定めた。点検と維持管理の実施記録、費用の記録をつけるよう指導した。共同の水路などの施設は作付け前に浚渫することをルール化した。A地区においては水路から地区内へ揚水するための共同ポンプを備えており、定期的に点検することもルール化した。
大規模な補修に関しては政府へ支援を要請するものの、通常の維持管理費用については組合費により賄うこととした。それまでメンテナンスや修理の必要が起こるたびに組合員から徴収していたが、計画的に組合費として徴収する方式に転換した。水利費は、A地区ではコムギ・オオムギの売上の3分の1を年1回徴収すること、B地区では各農家が一律に年間100,000ディナール(約9,000円)を徴収することを、それぞれの組合員の合意で決定し、全組合員がこれを納入することができた。なお、A地区は共同ポンプに依存しているため、その燃料費や維持管理費の負担が大きい。
(c)圃場外水管理
モデル地区は過去に地域の水不足をたびたび経験していることから、地区全体の効率的水利用を目指す圃場外水管理の改善を図った。主要作物であるコムギの播種時期に水需要が集中し一時的に水量が不足することを避けるため、播種時期の分散や輪番灌漑システムの導入を組合に打診した。これに関し水利組合側の理解が得られ、組合総会において取水ルールが決められることとなった。
B地区では、地区全体を8地区に区分し、それぞれ4ブロックに分けて共同水路から順番に取水するルールを設けた(図3)。そのルールを詳細に記載するとともに、地区の集会所の壁にルールを張り出して管理を試みた。初年度は干ばつ、次年度は記録的な大雨に見舞われ、3年目にようやくこの輪番灌漑が機能するようになった。
A地区では、コムギの播種時期にピークとなる水需要を平準化するために、播種時期を10日間区切りで3ブロックに分ける方式を実践した。
施行の結果これらの取り組みは組合員に受け入れられようになり、渇水年の水不足に備える取り組みとして定着するものと考えられる。
(d)圃場内水管理
それぞれの圃場における灌漑方法の工夫による水生産性の向上を目指した取り組みも、水利組合で協議して取り組むこととした。まず、資機材に対する追加投入が不要な改善方法として、これまで経験と勘に頼った灌漑に変わる科学的根拠に基づく間断灌漑の導入を試行した。この灌漑スケジューリングは、ペンマン・モンティース法による蒸発散量の推定、それに基づく灌漑量の決定をするという内容で、普及員による技術的支援が不可欠である。普及員に対する研修・指導を行い、農家グループとして効率的に指導を受ける体制を整えた。農家の追加的費用負担がなく、一定の節水効果があることから導入が進んだ。
また、節水灌漑技術としてスプリンクラー灌漑やドリップ灌漑をモデル的に整備したことに刺激を受け、夏野菜用としてドリップ灌漑システムを自己費用で導入した組合員も出てきた。
このほかに新たな試みとして、コムギの畝間灌漑技術を試行した。これはまずレーザーレベラーで圃場を均平化し、次に畝立播種機を用いて畝立と同時に播種を行い、その畝間を灌漑する技術で、パキスタンなどにおいて徐々に普及しつつある技術である(図4)。節水効果に加えて肥料の効果が高められることによる増収効果も期待される。A地区内の農家圃場における参考値であるが、灌漑水量が41%減、コムギ収量が26%増という結果が得られた。レーザーレベラーと畝立播種機を組合員が共同利用する畝間灌漑は、農家の費用負担が少なく、大きな節水効果に加えて増収効果が確認されたことから、この灌漑方法を取り入れる農家数が増大した。A地区では組合員全員がこの灌漑方法を適用する意思を示し、畝立播種機の能力の限界まで面積が拡大した。今後、水利組合による機材の共同管理・利用を支援することにより、コムギ畝間灌漑技術がイラクにも普及していく可能性が十分に認められる結果となった。
3. 3 水管理モデルの全国展開
このようなモデル地区における活動と並行して、全国の普及員に対する情報提供と研修を繰り返し実施した。これらの活動の成果・教訓を反映させ、カウンターパートと協議を重ねつつ、水利組合運営、施設維持管理、圃場外水管理、圃場内水管理、参加型灌漑事業計画策定、水利組合のモニタリングに関する6種のマニュアルをとりまとめた。これらは、イラクにおける参加型水管理モデルを全国に展開していくための教材・執務参考資料である。またこれらの内容を水利組合への普及・指導の場で活用できるよう、写真や図を多用した簡易教材も作成した。さらに水利組合制度を推進していくための広報動画も作成した。
政府の水利組合の支援体制として、水資源省と農業省、各県の水資源局と農業局に水利組合管理チーム(WMT、各8~10名程度)を置き、それぞれの能力強化を目指した研修システムを構築した。このシステムは、研修カリキュラム・教材の他に、研修講師となるマスタートレーナーの育成、研修実施体制・予算の確保も重要課題として取り組んだ。また、各県のWMTが水利組合に対する支援するための研修システム、および水利組合の成熟度を定期的にモニタリングしていくシステムを作成した。
全国の18WMTに対しては、マニュアル(ドラフト)を利用して、マスタートレーナーにより灌漑水管理に関する基礎研修を実施した。さらに座学で得た知識の実践の場として、各県のWMTがそれぞれひとつの水利組合を対象としてベースライン調査や参加型水管理計画の策定を支援する活動を促し、その指導を行った。これを通じて、プロジェクト終了時までにすべてのWMTがモデルを実践できる素地ができた。全国にすでに169の水利組合が設置され、さらに増加が見込まれることから、今後のWMTの活躍をモニタリングし、この流れを発展させることが必要である。
3. 4 水利組合制度の改善
イラクでは2014年の水利組合法を基本として水利組合制度を運用しているが、プロジェクトを実施している中で、カウンターパートと現行制度では不十分であることが認識された。その主要なポイントは、1)個別水利組合に加えて連合体構造を持つ水利組合の推進、2)水利組合を推進する県の組織体制の制度化、3)水利組合の設立を政府による灌漑施設改修の前提条件とする制度、4)受益者の水利組合への強制加入制度の導入である。これを受けて、この水利組合制度に係る法制度を再整備するために、政府関係者にトルコ、パキスタン、日本において参加型水管理制度を学ぶ研修機会を提供するとともに、イラク水資源省・農業省の高官との面談を繰り返し実施し、イラクの実情に合った制度設計をするよう支援を行った。
4 おわりに
プロジェクトは治安上あるいは新型コロナ感染症の大流行といった制約のある中で実施したが、水資源の効率的・安定的利用のためのソフト面からの対応策のひとつとして、水利組合による参加型水管理のモデルを作成することができたものと認識している。イラクにおいては水利組合による参加型水管理の導入はまだ途についた段階であり、プロジェクトで作成したモデルを全国の水利組合に展開していくこと、水利組合数・対象面積を増やしていくこと、そのための法制度の整備が重要である。プロジェクトをともに実施してきたイラク政府により、さらに進展することを期待する。
イラクのように水資源がひっ迫している中東地域はもとより、世界的な気候変動に対する農業分野における適応策として、灌漑インフラ整備や水管理強化の重要性は一層高まるであろう。開発協力の場面においても我が国の知見を活かしたハード・ソフト両面からの支援の輪を広げていきたい。