特集解題

国内技術検討委員会委員長 松浦良和

 解題に先がけてお伝えしておきたいのが、本特集のタイトルは正しくは「日本における世界農業遺産認定および世界かんがい施設遺産登録を契機とする地域振興の取組」である。しかしながら、あまりにも長いものになってしまうので、「世界農業遺産認定、世界かんがい施設遺産登録と地域振興の取組」としている。

 農林水産省の資料によれば、世界農業遺産は、世界的に重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を、国連食糧農業機関(FAO)が認定する制度で、2019年までに、世界で21か国58地域、日本では11地域が認定されている。一方、世界かんがい施設遺産は、建設から100年以上を経過し、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑(かんがい施設を登録・表彰する制度で、2019年までに15か国91施設、日本では39施設が登録されている。

 今回はこのなかで、世界農業遺産3地域、世界かんがい施設遺産3施設について報告して頂いている。いずれも長い伝統と歴史を持ち、現在も適切に管理運営されている地域や施設・システムであるが、今日に至るまでには、それぞれ紆余曲折(うよきょくせつがあったことが報告されている。

 認定や登録を契機として地域振興に取り組む姿勢にはおのおの特色があるが、関係者の「郷土の遺産」に対する強い思いや熱意、あるいはプライドには共通するものがあるようで、いずれも、以前からあったそうした思い入れが認定や登録を契機に、いっそう強まっているように感じられる。Opinionのなかで筆者・遠藤芳英氏が述べているように、「農業は人が生きるための手段であることから、単に昔ながらの農業を保全するだけでなく、伝統的な価値を維持しつつも現代の自然・経済・社会環境に適合し、さらに発展を目指すことを目的としている」という考え方が、世界農業遺産の認定や世界かんがい施設遺産への登録後にも重要な鍵となるように思われる。

 ところで、幾つかのKeyNoteのなかに、先般、アフガニスタンで凶弾に(たおれた中村哲医師についての言及があるが、医療のみならず灌漑施設の建設を通じた農業開発と民生の安定に献身的に尽くされた同氏が亡くなられたことは、真に世界にとって大きな損失であり、ご本人もさぞ無念だったに違いない。心から哀悼の意を表してご冥福をお祈りしたい。

 次に各KeyNoteについて所載順に言及していく。



世界農業遺産「静岡の茶草場農法」

 静岡県の掛川市など4市1町では、県の特産品である茶の栽培が「茶草場(ちゃぐさば農法」という独自の伝統農法で行われてきた。「茶草場農法」とは、茶園の周りにモザイク状に点在する茶草場と呼ばれるススキやササなどが自生する草地から、秋から冬にかけて草を刈り取り、乾燥・裁断して茶園の畝間(うねまに敷く農法である。「茶草場農法」は、茶園の土壌の保温・保湿に役立ち、土壌中の微生物の繁殖を助けて土壌の改善を図り、茶草はやがて分解され堆肥になる。これは茶園の土壌条件を良好に保つだけではなく、傾斜地の茶園の土壌流出や雑草の繁茂を抑制する効果があり、茶の品質にも良い影響を及ぼすという。

 また、茶農家が利用し維持してきた里山の茶草場には、300種類以上の草地性植物のほか多種多様な動植物が確認されており、バッタの固有種や絶滅危惧種なども含まれるという。人の手によって維持される草地環境は「半自然農地」といえるが、実際に人の手が適度に加わった里山環境では、多くの生物種が生息することがよく知られている。伝統的な茶草場農法によって高品質な茶を生産しようとする茶農家の努力により、結果として高品質な茶生産と生物多様性の保全がバランスよく両立し、価値の高い農業文化として評価されたことから、「静岡の茶草場農法」は2013年に世界農業遺産に認定されている。

 茶草場農法の保全・継続を推進し、多様な生態系の維持や地域産業・観光などの振興を図るため、認定地域の市町で構成される世界農業遺産「静岡の茶草場農法」推進協議会(以下、協議会)が2012年に発足し、その後2016年に事務局は静岡県に移管されているが、これまでさまざまな取組や活動を行ってきている。

 さらに、茶草場農法を持続可能な生産活動とするため、2017年に企業や個人の支援を受ける「応援制度基本計画」を策定し運用している。この基本計画には茶草場農法を応援する支援制度の創設、農作業ボランティアの活用、企業と農村の交流促進、市民の意識の醸成、グリーンツーリズムの推進、情報発信の強化などが取組項目として位置づけられている。

 世界レベルでSDGsへの取組の重要性が高まるなか、自然循環型農法で里山に高い生物多様性をも作り出す「静岡の茶草場農法」を、今後とも維持継承していくことが協議会の責務であると述べている。


世界農業遺産「みなべ・田辺の梅システム」

 「南高梅」で有名な「みなべ・田辺地域」は2017年にFAOから世界農業遺産に認定された。山の斜面に薪炭(しんたん林を残しながら梅林を配置し、水源涵養(かんようや崩落防止などの機能を持たせつつ高品質なウメを生産する方式で、約400年前から受け継がれてきたウメを中心とする持続可能な農業システムである。この地域は昔から紀州備長炭の生産地であり、ウバメガシなどの薪炭林では紀州備長炭を生産し、薪炭林に生息するニホンミツバチがウメの受粉を媒介していることから、里地・里山の自然環境を保全することにより、農業生物多様性を維持している。

 この地域の梅林や薪炭林ではオオタカなどの猛禽類の生息や飛来が、また山間の溜池や里地の水田ではアカハライモリなどの希少種が確認され、さらにみなべ町千里の浜ではアカウミガメの産卵密度が本州でもっとも高くなるなど、持続可能な農業システムの波及効果が大きく、多様な生き物の生態系が維持されているという。

 世界農業遺産認定後の取組としては、市町・県・関係団体で「みなべ・田辺地域世界農業遺産推進協議会」を組織し、地域住民への普及啓発活動として各市町でのシンポジウム、県内外でのプロモーション活動などを行うほか、認定の効果を地域経済に結びつけるために、ロゴマークの作成、南高梅・備長炭のいっそうのブランド化、ウメの収穫や備長炭の(かま出しなどの体験ツアーに取り組んでいる。

 さらに、世界農業遺産認定地域の役割として、発展途上国を対象に世界農業遺産の認定に向けた支援や地域振興に向けた能力開発研修に協力していくことが挙げられ、FAOの駐日連絡事務所からの要請により、和歌山県ではこれまでアフリカ諸国の政府関係者による視察などに対応してきている。

 世界農業遺産認定により、地域の人々にとって日常の生活・景観・文化などが高く評価されたことは大きな自信となっており、高齢化の進行やウメの消費量の減少など「梅システム」継承上の課題はあるものの、2017年度に、地域主導による「世界農業遺産活用プラン」を策定し、課題解決に向けて取り組んでおり、今後もさまざまな方策を活用して「みなべ・田辺の梅システム」を未来に継承していきたいとしている。


世界農業遺産
「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環」

 大分県国東(くにさき半島宇佐地域(豊後高田市・杵築(きつき市・宇佐市・国東市・姫島村・日出町)はFAOにより「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環」をテーマに2013年に世界農業遺産として認定された。国東半島宇佐地域は、瀬戸内海式気候に区分され、短い急流河川しかないことから、古来より干ばつの常襲地域で、人々は1200もの溜池を構築し、複数の溜池を掘割や素掘りの隧道(ずいどうで連結するなどして水不足に備えてきた。

 宇佐平野での水田農業や安心院山間地域での果樹栽培など、宇佐市は、現在、県内有数の農業地帯となっている。それはまず明治時代初期に駅館(やっかん川東側台地に水を供給する灌漑水路の完成に始まり、後に1964年から国営駅館川総合開発事業の開始により、2つのダム、それを連結する山中部導水路、頭首工や幹線用水路、畑地に水を供給するための揚水・加圧機場などが整えられた。その後、追加的に補助ダムなどの施設が造られたが、2015年からは国営緊急農地再編整備事業により、大区画のブドウ果樹園や茶園などの園芸団地の造成・整備が始まった。地元の悲願であった深刻な水不足を克服する大規模な水利・農業システムが整備され、水田・ブドウ果樹・茶などが安定的に生産できるようになったとしている。

 世界農業遺産では、「農林水産業システム」が認定の対象となっているが、伝統的・持続的なシステムであることだけでなく、未来に向けた生きた遺産であることが求められるので、そのことからも、国東半島宇佐地域の全域にわたって展開している伝統的・持続的な連携ため池群と宇佐市の最新灌漑システムに、世界中から多数の人々に訪れてもらい、その意義を実感してもらうことが重要と説明している。

 国東半島宇佐地域世界農業遺産推進協議会では、2期目(2018−2022)のアクションプランを実施中であるが、その重点目標は、「地域資源を活用した交流人口の拡大」、「農林水産物等のブランド化と販売促進」、「農林水産業を支える人材育成と安定生産の確立」となっており、認定地域内の小・中・高校などでの学校教育、住民の主体的な取組をとくに支援している。多くのユニークな地域活動をアクションプランとして実施するなかで、人々の地域活性化に対する意識は大きく変わろうとしている。


世界かんがい施設遺産「五郎兵衛用水」

 本稿を読んで世界史に出てくる「ディアスポラ」という言葉を思い出した。ディアスポラは「民族離散」などと訳され、歴史上、パレスチナ以外の土地に移住したユダヤ人やそのコミュニティなどに使われていたと思うが、背景は異なるものの五郎兵衛用水の灌漑地域にも類似の歴史があったという。

 五郎兵衛用水の灌漑地域は、中世、信濃を襲った度重なる浅間の大噴火、千曲川の大洪水などの自然災害、打ち続く戦乱などにより、灌漑施設を始めとする社会的基盤が破壊されたため、人々はこの地に居住することを諦め、他国での流浪と飢餓の生活を強いられるなど歴史上「佐久郡一郡逃散(ちょうさん」と呼ばれる不幸な歴史を残す地でもあったという。

 天災・戦乱・飢餓・離散・流浪という、さまざまな問題を解決するため、地元の豪農市川五郎兵衛は、江戸時代初期に私財を投げ打って、長大な隧道工事を始めとする灌漑施設を献身的に造り上げ、荒廃した地域を水稲が盛んに栽培される豊穣の大地へと再生させた。アフガニスタンで医療や灌漑施設建設などを通じ献身的に住民や地元に尽された中村哲医師と同じようなことをした人物が、400年前の日本にもいたことを世界かんがい施設遺産の申請に当たって訴え、それが同遺産への登録に(つながったのではないかと考えている。

 五郎兵衛の努力により、1630年に灌漑施設は竣工し、荒廃地域が耕作地に再生した。その恩恵により、飢餓と貧困のため遠くの地域に逃避していた人々が故郷へ帰還し、家族が安定した社会生活を送れるようになったと説明している。

 また五郎兵衛は灌漑施設による地域の繁栄が永続するよう「用水普請(ふしん」と呼ばれる用水の自主的な維持補修作業や、用水の水源涵養林の保全のため「山普請」呼ばれる造林作業を人々に求め、その規模は変われど、現在も作業は続けられているという。

 2018年に五郎兵衛用水は世界かんがい施設遺産に登録されたが、これは到達点ではなく地域発展の新たな始まりだとして、佐久市や同教育委員会は登録後にさまざまなことを試みている。

 本稿の執筆者は佐久市五郎兵衛記念館に勤務されているが、「五郎兵衛用水」のほかに市内には千曲川の大反濫から村を救った「三河田用水」、浅間山の熱水や鉱毒水を回避する「常木用水」があり、五郎兵衛はこの3か所の用水開発を行っていることから、来館者にはそのことを常々説明しているという。明日を担う子供たちが市川五郎兵衛の献身と勇気の歴史を学び、明日への糧となるよう熱く語りかけている様子が目に浮かぶ。


世界かんがい施設遺産「曽代用水」

 約350年の歴史を持つ曽代(そだい用水の地域は、かつては長良川の河床が低いため渓流取水に依存していたことから、干ばつの常襲地帯となって農作物の収量は極めて低かった。また1600年代、この周辺地域は複数藩の領地として分断されていたため、農民が徒党を組んで行動しないよう各藩が互いに牽制してきたといわれている。

 こうしたなかで、この地に移住してきた喜田吉右衛門と弟の林幽閑は、地元の豪農柴山伊兵衛に自らの財産を提供したところ、農民の窮状を憂慮していた柴山氏は、長良川から取水して用水路を造る計画を立案した。しかし用水路建設には、集落間の利害の不一致、とくに上流部集落の不利益、あるは各藩からの許可の遅延などの問題があったという。こうしたなかで3人は代替地の振替えや金銭補償による交渉を積み重ね、各藩からの許可も取り付け、計画から4年の歳月を経て漸く工事に着手したという。

 結局、3人は私財を使い果たし、最終的に柴山伊兵衛だけが残って約13kmに及ぶ用水路を完成させ、荒地を美田に生まれ変わらせたという。徳川時代には、用水建設に当たって、各藩が自領内の集落の利害関係を調整するのが一般的であったが、本地域では農民相互の話し合いによる合意に基づいて事業が実施された全国でも珍しいケースといわれている。

 曽代用水は、2015年に世界かんがい施設遺産に登録されたが、これを活用して地域農業や観光などの活性化を推進するため、関市・美濃市、岐阜県および曽代用水土地改良区により「曽代用水活用検討会作業部会」が2018年に設置され、施設の整備と保全管理、用水を核とした地域振興策、小水力発電の可能性、各種イベントやPR、などの検討や実施をしてきている。

 さらに今後の展望としては、老朽化した水路の改修や長寿命化、市街化が進むなかで用水路を核とした地域コミュニティの形成、特産米を活用した酒の拡販などの検討をしていかなければならないとしている。そしてその基本理念として、「人のために尽くす心」を持って成し遂げられた曽代用水の偉業をよく認識し、こうした素晴らしい精神を広く将来にわたって受け継いでいかなければならないと結んでいる。


世界かんがい施設遺産「淡山疏水」

 淡山疏水(たんざんそすいは、近代に入って造成された「淡河(おうご川疏水(1888年着工・1891年竣工)」と「山田川疏水(1911年着工・1919年竣工)」の2つの疏水によって構成されており、その受益地は加古川左岸に広がる「いなみ野台地」で、世界かんがい施設遺産には2014年に登録されている。いなみ野台地は瀬戸内海式気候に位置し、かつては3年に一度の不作といわれるような干ばつの常襲地域であった。加えて農地の広がる台地面と河川水面には数十メートルの落差があり、河川水を直接利用することは近世以前の土木技術では難しかった。既得水利や古田(こでん優先との関連もあり、淡河川疏水と山田川疏水の取水地点は、それぞれの川の相当上流に求めざるを得なかった。

 いなみ野台地の開発では、水供給の不足や不安定さを補うため、溜池が造られてきたが、その築造は古代まで遡るという。兵庫県で最古といわれる天満大池(675年築造)を始めとして多くの溜池が造られたが、いなみ野台地の開発が進んだのは、近世の新田開発の時期であったという。台地上を流れる中小河川の水利用を目指したが、沿岸村落の既得水利が優先されるため、後発の新田への水利用は容易に認められなかった。そこで新田側は、灌漑期ではなく非灌漑期の水を溜池に導き、それを灌漑期までストックして活用することを目指した。近世においては、疏水の開発とともに同様の手法で多くの溜池が築造されたという。

 近代に造成された淡山疏水にも、「非灌漑期の水利用」と「河川と溜池をつなぐ」という近世に確立された地域の知恵が生かされ、淡河川と山田川の水利用を秋冬の非灌漑期とすることにより、淡山疏水の水利開発が実現した。淡山疏水が近世の開発と異なるのは、40か所を超える溜池の改修・新設のほか、淡河川、山田川という台地外の河川を利用したことと、いなみ野台地の受益地に水を送るため、長大な水路を築造することが必要となったことで、山や谷の通過には難工事が伴った。

 現代に入り、水供給の安定化のため国営東播用水事業が実施され、加古川上流部を含む3ダムが新たに造られ、それらを導水管でつなぐ大計画となったが、既存の溜池への貯水が引き続き重要な役割を担っており、本事業は「河川と溜池をつなぐ」という地域の知恵が生かされた水利事業と説明している。

 2016年に「兵庫県淡河川山田川土地改良区」と「東播用水土地改良区」と合併し、現在の「東播用水土地改良区」となった。淡山疏水の頭文字Tと東播用水の頭文字Tをとって「TT未来遺産運動基本計画」が2015年に策定され、「TT博物館」も同年に設置された。館内には淡山疏水に関する模型・資料など、さまざまな歴史資料が展示されている。また淡山疏水の伝承に当たっては教育活動が重要であることから、淡山疏水を題材とした副読本の作成や読書感想文コンクールなども実施している。

 さらに、日本の統治時代に台湾で日本人が指導した2か所の水利開発についても、溜池群の活用や導水路工事などに淡山疏水との類似性が認められるとしている。

前のページに戻る