中村 哲 著

『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い―


 昨年12月、アフガニスタンから“中村医師銃撃される”との一報が届いたが、当初は撃たれたものの意識はあり病院で治療中とのことであり、ほっと胸をなでおろした。しかし、それもつかの間、「死亡が確認された」という続報があり、やがて中村医師逝去に関する報道が(ちまた(あふれることになった。

 彼の功績を伝える短時間のニュースでは「井戸や用水路を建設した」と一言で表現されてしまうことが多かったが、彼がアフガニスタンでどのように用水路を建設したのか、なにより彼が何故、そしてどのような考えのもとにアフガンの大地を緑に変えたのかを知ることができる一冊として、2013年発刊であり新刊とはいえないが、『天、共に在り─アフガニスタン三十年の闘い─』を取り上げたい。


 まずは中村医師の略歴を紹介する。中村少年は小学生時代を福岡県古賀市で過ごし、昆虫採集に夢中になって山野を駆け回って育った。大学進学が近づいたとき、本当は昆虫学を学びたかったのだが、厳格な父の許しが得られそうもない。そこで「過疎医療を解決するため」というもっともらしい理由をつけて父の許しを得て医学部へ進学。病院勤務後、パキスタンからの医師派遣の要請に応じ、1984年に家族を連れてアフガニスタンとの国境の町、ペシャワールへ赴任した。

 こうしたパキスタン・アフガニスタンでの中村医師の医療活動を支援してきたのがペシャワール会である。現在、この会は現地ワーカーを含む数名の専従職員、二十数名のボランティアが数億円の募金活動と事務処理を行っている。中村医師はペシャワール市内でハンセン病対策に尽力していたが、当時、アフガン戦争によりアフガニスタンからの難民がパキスタン側に大量に入っていたにもかかわらず、ハンセン病患者しか対応できなかったことから、アフガニスタンの無医山村に診療所を1994年に設立した。2000年春、中央アジア全体がかつてない干ばつにさらされ、診療所に死にかけた幼児を抱いた若い母親が目立って増えたという。幼児は干ばつによる食べ物の不足で栄養失調になり、抵抗力が落ちたところに汚水を口にして下痢症にかかり、嘆きをよそに簡単に落命していった。

 つまり、十分な食料と清潔な飲料水さえあれば防げる病気だったのだ。そこで、診療所自ら率先して井戸掘り事業を開始した。従来の井戸は地下水位低下のために水が出なくなったため、より深く掘る必要があったが、巨(れきの層がこれを阻んでいた。そこでロケット砲や地雷の不発弾から火薬を取り出し、巨石にドリルで穴を明けて火薬を詰めて粉砕した。2004年までには1000か所を超える井戸が掘られ、大きな成果を挙げたが、アフガン農村で農業ができなければ生活できないため、現金収入を求める出稼ぎ農民の数は減らず、なかには傭兵(ようへいとして内戦に出る者も少なくなかった。

 そこで、中村医師らは砂漠化した田畑を回復することこそが平和の基礎だと唱え、伝統的な灌漑(かんがい用水路「カレーズ」(横井戸の一種)の復旧、大規模な井戸の掘削により帰農者を生み出した。それでも、今度は地下水位が低下しはじめ、いよいよ大河川からの取水を目指す工事に踏み切った。2003年、毎秒6tを取水し、約13kmの用水路により1300haを潤すプロジェクトをスタートさせたのだ。


 ここまでが、中村医師が本格的に灌漑施設の建設に取り組むに至る経緯である。彼の言葉として「百の診療所より一本の用水路」があるが、実際に造ろうとしていたのは頭首工と十数キロメートに及ぶ用水路である。土木関係の専門知識がまったくなかった中村医師が参考にしたのが、日本の水利施設、とりわけ地元福岡県筑後川に築かれた山田(ぜきであったことはよく知られているであろう。ここを参考とした前提として、日本とアフガニスタンの河川に類似するところが多いと、彼はおよそ次のように述べている。

①山間部の急流河川が多いこと

②冬季と夏季の水位差が大きいこと

③大きな平野が少なく、山に挟まれた盆地と小平野で農業が営まれていること

 もちろん、アフガニスタンにも(せきはあったが気候変動の影響か洪水と渇水が繰り返され、水流が河床を洗い流してしまう洗掘による河床低下のために取水が困難となっていた。その課題を解決する新たな取水堰を建設するため、彼はアフガニスタンではもちろん日本でも「昔から残っている」水利施設に照準を当て、福岡県や熊本県を歩き回ったという。

 農業土木技術の視点から周囲を見るようになってから、彼の目が捉える風景の印象の変化が瑞々(みずみずしく述べられているので、やや長くなるが引用してみよう。

「これによって、新しい世界が開けた。それまで漫然と見ていた田園の光景が一変した。人は見ようとするものしか見えない。一見平地に見える筑後平野の勾配はどのくらいか、どうやって水量を決定したのか。どの経路を経て導水し、季節の水量調節をしたのか。車窓から田んぼや川が見えると、食い入るように見ながら考えるようになった。(中略)これまで、県境がどうして決められたかを考えたことがなかったが、やっと分かった。人々の暮らしの単位と言える村落は、当然、異なる水系で隔てられるからだ。」


 当初の計画の水路は2007年に開通、さらに7kmを延長して「ガンベリ砂漠」まで水を通すことを目指した。その作業をする人は常時400名、多い時で500名を数えた。資金は日本のペシャワール会による募金で賄い、2009年8月に開通した。

 完成後も、度々、洪水によって取水施設などが破壊されるという危機があったが、それを乗り越え、今も水路はアフガニスタンの大地を潤している。本書には数ページにカラーの写真があって、2011−2013年の地域の様子を、より鮮明に知ることができる。とりわけ、「豊かな緑に覆われた大地」の写真は、この事業の成果を如実に表わしている。

 中村医師は、あくまでも人の命を救うために行動してきた。結果的に「診療」から、「井戸掘り」、そして「用水路建設」にたどり着いたと本人は述べている。さらに本書には、用水路建設の苦労が(つづられるだけでなく、国際協力の在り方にも一石が投じられている。現場(アフガン農村)を、もっともつぶさに知る彼が語る9.11(2001年のアメリカ同時多発テロ事件)を巡る混乱、さらには、国際援助の実態についての言葉は重い。


 ここに中村医師の著書を、もう一冊紹介したい。『アフガン・緑の大地計画─伝統に学ぶ灌漑工法と(よみがえる農業─』(石風社刊)は、アフガニスタンでの灌漑施設建設事業を、主に技術的な視点からまとめたものである。技術的とはいっても、写真や図をふんだんに使い、工事の様子や構造物を分かりやすく説明するなど、専門家でなくとも理解しやすいような構成となっている。工事に当たって彼が心掛けた点が、その冒頭にまとめられているので引用する。

①なるべく単純な機器で対処できること

②多大のコストをかけないこと

③ある程度の知識があれば、地域の誰にでも施工できること

④手近な素材を使い、地域にないものをできるだけ持ち込まないこと

⑤壊れても地域の人で修復できること

⑥水はごまかせない。水のように正直なこと

 さて、現在の海外協力ではコンクリートを使った施設が建設されることが多いが、ここに掲げられた6つのポイントは、途上国における技術協力の際のあるべき姿といえよう。この基本的な考え方を実際の建設にどのように反映していったのか、本書において確認していただければと思う。

 最後に、中村医師のご冥福を心よりお祈りしたい。


独立行政法人 国際協力機構(JICA)     
農村開発部 技術審議役 石島光男

*NHK出版刊 本体価格=1600円

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