安積疏水の歴史と
日本遺産・世界かんがい施設遺産 安積疏水は、明治政府の士族授産・殖産興業策の一つとして、明治15年(1882)、3年の歳月と40万7000円(現在の約400億円相当)の国費を投じての完成以来、本年で136年を迎える。国営農業水利事業第1号として行われたこの事業によってもたらされた猪苗代湖の水は、山林原野の開墾を容易にし、発電や飲料水をはじめとした多面的な利用により、郡山市は大きく発展していった。この疏水が開鑿されるまでは、安積3万石(籾で約4500t)と揶揄されていたコメの生産高は、現在30万石を産出する豊かな穀倉地帯に変貌し、5000人程だった人口も今や33万人に至り、東北有数の都市へと発展を遂げた。 この大きな郡山の躍進と安積疏水は切っても切れないものであり、かんがい用水が地域発展の礎となった顕著な例といえる。こうした歴史的価値や文化的価値が認められ、平成28年4月にはこの壮大なストーリーが“未来を拓いた「一本の水路」”として日本遺産に認定された(郡山市、猪苗代町申請)。また、11月には安積疏水が国際かんがい排水委員会(ICID)による世界かんがい施設遺産に登録となり、東日本大震災に伴う原発事故以来、風評被害に苛まれてきたこの地域にとって、久し振りの嬉しいニュースとなった。 本稿では、この安積疏水の歴史と日本遺産、世界かんがい施設遺産について紹介したい。 1.安積疏水の歴史 郡山市、須賀川市、本宮市、猪苗代町に跨がる安積疏水の管内は、福島県の中央に位置し、東に阿武隈川、西には奥羽山脈に挟まれた南北32㎞東西27㎞の地域である。3市1町にわたる受益面積は約9000haで、県内水田の8.5%に相当する。その主水源は、西方約20㎞にある猪苗代湖に求め、年間1億4700万t・最大15.179t/秒の水利権を持ち、加えて地区内の河川などより4.8t/秒が取水可能となっている。安積疏水土地改良区が維持管理しているかんがい施設は、用水路194路線で延長約470km、取水施設である頭首工39か所・揚水機場11か所・堰47か所・深田ダムを含む溜め池5か所となっており、安積疏水の施設を利用している東京電力の沼上・竹ノ内・丸守の3発電用水と郡山市水道用水についても、併せて管理している。 安積地方は、水の便がきわめて悪く、原野のまま放置されてきた。明治6年には、県による二本松藩士の入植と地元商人の結社である開成社により開墾が進められたが、士族授産と殖産興業の方策を求めていた明治政府は、この開墾の成功を見聞し、全国9藩の士族をこの地に入植させ開墾を進めると同時に、この水手当として猪苗代湖から水を引く猪苗代湖疏水(後の安積疏水)事業に同12年に着手し、130㎞に及ぶ水路が同15年に完成した。この疏水事業は同19年に福島県に移管され、県は同21年に主要な関係者に引き継ぎ、普通水利組合を経て、昭和27年に安積疏水土地改良区となった。 明治32年、郡山絹糸紡績会社による沼上瀑布の落差を利用した水力発電は、日本における長距離高圧送電の草分けとなった。以降、安価な電力を求めて紡績会社が移転し工業化が進み、余剰電力は郡山の近代化を促した。これに伴い、人口も急増し、同41年には、水道水にも利用されるなど、多目的にも利用されるようになった。 この地方の河川は、流域が狭小で急勾配なために利用しにくく、また、阿武隈川は開墾地より10㎞程離れているうえ、高低差も20〜30mあるために利用できず、毎年のように干害を受けていた。当時3800haの水田を有しながらも、その収量は当時の県内平均の半分にも満たず、3万石の産米をみるだけであった。 明治5年、政府は西欧の技術や制度導入のため、多くの御雇外国人を招聘した。そして、土木・港湾整備のためには、オランダからファン・ドールンが工師長として招かれ、利根川・淀川・信濃川の改修をはじめ、仙台の野蒜港・函館港など多くの港湾建設に携わっている。彼は、経験に頼っていた我が国の技術に、西欧の科学技術を導入し近代土木の道を開いた。安積疏水の設計には重要な役割を果たしたが、郡山発展への契機の一つとなった猪苗代湖疏水の計画書は、同12年1月に土木局長へ提出された。そのなかで、奥羽山脈を貫通するルートは「山潟から熱海のルートが最良で廉価である」ほか、湖岸と日橋川流域の既得権を守ることを前提とした基本計画は下のように「取水量はどのくらい必要とするか」「猪苗代湖の管理方法」「水路の断面・勾配をどのくらいにするか」を示している。 ①安積疏水の水量決定 所用水量の算定にあたり土質・気候を考慮し、安積地方の緯度に近い外国(スペイン・イタリアなど)のかんがい事例を挙げて比較し、統計に基づく減水深を採用し必要水量を計算している。 ②猪苗代湖の管理 大雨が降れば湖岸は浸水被害でイネが腐り、干天が続くと会津への取水が困難になる状況から、ドールンは湖の貯水池化を図るべく慎重を期した。取水の既得権を持つ会津地方への利益を損なわないこと、および唯一の出口である日橋川の川幅を広げ、洪水時の排水を容易にすることに注意を払った。湖の水深にして1mのダム化を図るため十六橋水門を建設し(写真1)、既得権を持つ会津側の用水路の河床を掘削して下げ、勾配修正を行って取水を容易にした(図1)。
③水路の断面・勾配 所要水量・勾配・水路断面を四次方程式で求めたドールンの設計は、我が国が近代化に向けて採用した最新の計算式を駆使したものである。測量に従事した多くの和算家もドールンの西洋式設計を写し、懸命にマスターしようと努力した。 昭和57年に国営安積疏水農業水利事業が完成し、明治に開鑿した水路はすっかり近代化された姿となった。この昭和の水利事業における水計算をみると、当時、ドールンが積算した値は現在の計算にきわめて相似するものであり、その精度には驚かされる。 さて、猪苗代湖疏水事業は当時の日本の政治上の問題や経済的要求とも、密接に結び付いていた。相次ぐ士族の反乱を防ぐことは政府の緊急課題であり、士族授産策として不平不満武士に土地を与え、開墾によって失業士族の生活安定を図るという治安対策の一面も持ち合わせた。安積地方の開墾地を含む数千ヘクタールをかんがいするには、猪苗代湖水を東側に引くことが絶対条件であり、政府は財政悪化のなかで、この事業を決断した。 安積疏水の工事は政府直轄で行われ、わずか3年で完成した。延べ85万人が働いたにもかかわらず、事故死は2名であった。これは工事執行方法が適切であったことにもよるが、優れた現業規則があったからである。 実施設計をした山田寅吉は、留学先のフランスの規則を例に、40条からなる「工事を請負師に命ずる約定及び箇条」を定め執行体制を整えた。労働についても、51条からなる現業規則によって、就労時間・休暇を定め、春夏は午前6時〜午後6時、秋冬は午前7時〜午後4時と定めた。休息は、午前休・昼食休・午後休の3回。休日は、大祭日(旧紀元節・現建国記念の日、旧新嘗祭・現勤労感謝の日など)の他に、毎月16日の1回となっていた。 工事は当時の最新の機械を駆使し、新技術が生かされていた。38の隧道・石造2掛樋(用水を川や谷を跨がせるために設けた管)・2伏樋(引水のために水底に設けた管など)を建設しているが、もっとも条件の悪い工事は沼上隧道(図2の沼上峠の下の①②③で、右の表に工事用隧道寸法が示されている)であった。一方は沼で泥質土、片方は硬い岩盤に苦しめられた。限られた断面内での隧道工事は、空気の流通、湧水の汲み上げ、掘削物の搬出、採光などを考慮した工法をとることから、工事用の竪坑・斜坑・横坑など、仮設の隧道を建設して早期完成を図った。これがシャフト工法で、沼上隧道他350mを超す5つの隧道に、この工法が使われた。また、電気のない時代であったが、水を汲み上げる喞筒(ポンプ)・木を燃料とした蒸気鑵(タービン)・岩盤掘削用にダイナマイトなども駆使されていた。 図2 安積疏水縦断面図
大正7年(1918)には、日本化学工業進出のために竹ノ内発電所が建設され、同10年には丸守発電所が建設されるなど、工業都市へひた走ることになる。 また、水不足と悪水に悩まされ続けていた郡山町民に、猪苗代湖の水が飲料水として利用され始め、明治45年に初めて鉄管を利用した近代水道が創設された。当時の人口は2万人であったが、給水人口を3万人として計画し、安積疏水から分水するもので、近代水道の幕開けとなった。今では、郡山市も猪苗代湖に独自の水利権を確保し、渇水知らずの美味しい水を安定供給している。 2.日本遺産について 日本遺産とは、日本の文化財や伝統文化を活用して、地域活性化へつなげることを目的に、平成27年度に創設された制度で、地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語る「ストーリー」を文化庁が認定するもので、現在まで、平成27年度に18件、28年度に19件、29年度に17件、30年度に13件と合計67件が認定になっている。政府は、2020東京オリンピック・パラリンピックまでに、100件前後を認定したいと考えているが、これまでの状況では、認定件数67件に対し、申請件数は305件と狭き門になっている。 世界遺産が、有形の不動産を対象とし、文化財そのものを登録し、文化財などを保護することが目的なのに対し、日本遺産は、地域に点在する遺産を面として活用し発信することによって、地域の活性化を図るという相違がある。 平成28年、郡山市と猪苗代町が申請し、日本遺産に認定された「一本の水路」ストーリーは、安積原野へ水を引きたいという人々の願いから始まる。枯渇した原野に暮らす人々は、猪苗代湖から水を引く安積開鑿を長年夢見てきた。明治6年、当時、福島県令(現在の知事)であった安場保和が推し進めた福島県の開拓に呼応した地元富商たちは、「開成社」を結成し、本格的な開拓に乗り出した。かんがい用の沼の整備、ブドウなど海外果樹の植樹、近代的な西洋農法を導入した開拓などによって、収量や人口が増加し、新村が誕生するまでに至った。 明治天皇巡幸の先遣として、この成果を目の当たりにした内務卿大久保利通は、「殖産興業」と、改革で困窮した武士を救う「士族授産」を結び付けた全国的モデル事業を、広大な原野を有する安積の地において、他の候補地に先駆け、実行することを決断した。大久保は事業開始を待たず暗殺されてしまうが、その直前まで当時の福島県令と会い、開拓にかける想いを熱く語っていたそうである。この大久保の「最期の夢」であった日本の近代化。その礎となった安積開拓・安積開鑿事業は、その後、明治政府初の国営農業水利事業として実現されることになる。 「一本の水路」は大地を潤した農業の発展のみならず、疏水の落差を活用した発電所による、日本初の長距離高圧送電の成功をももたらした。その他にも、鉄道をはじめとした交通網の充実、産業の発展、人口が増加したことによる教育機関の設立、人材の育成が図られ、清らかな水による鯉の養殖も盛んになった(図3)。「一本の水路」は原野ばかりでなく、未来も時代も切り拓いたのである。 図3 安積疏水による発展のイメージ
産業の発展、郡山の発展は先人たちのたゆまぬ努力はもちろんだが、郡山特有の「さまざまなものを受け入れるという多様性と調和」「発展のために共に生きるという共生の風土」が、あったからこそではないかと考えられている。 ストーリーの結びは「桜」。かつて、福島県と開成社が開拓を進めていた折、かんがい用の沼の堤に約3900本の桜が植えられた。現在でも、約1300本が毎年美しい花を咲かせている。開成社の社則に「私たちの代では小さい苗木でも、やがて大樹となり、美しい花は人々の心を和ませるであろう」との想いを込めた一文があるが、この未来を想う心が新しい時代を拓いたといっても過言ではなく、その想いは今なお、この地に息づいているとストーリーは結ばれる。 日本遺産認定を受け、文化庁の支援事業である「日本遺産魅力発信推進事業」を実施するために、行政・文化財保存団体・商工会議所・民間事業者21団体226名で構成する日本遺産「一本の水路」プロモーション協議会が設立された。この協議会を中心にして、シンポジウムなどによる日本遺産の普及・啓発事業やパンフレットやテレビ番組制作による情報発信事業、日本遺産の歴史を深く掘り下げる調査研究事業、そして、観光客誘致のための説明板・案内板設置などの活用整備事業などに取り組んできた。これらの事業の目的は、地域アイデンティティの再認識、産業や観光との連携による地域活性化、安積疏水事業の歴史的・技術的価値の向上である。産業の発展にまで結び付けた疏水の歴史的な価値を高め、世界かんがい施設遺産も追い風にして、世界に広く発信していきたいと考えている。 また、平成30年度からは「一本の水路」ブランド認証事業を展開する。日本遺産のストーリーにおける「挑戦」「多様性」「共生」のイメージに深く関連付けられる、優れた商品や優れた取組を行なっている団体などを、開拓者精神の象徴としてブランド認証し、PRしていこうというものである。円状で構成されたマークデザインは、安積疏水の開鑿による豊かな水資源の「循環」と「調和」を表している(図4)。マークを構成している要素は、安積疏水のシンボル的構造物である「十六橋水門」、水路を表す「緩やかなライン」、水源となる猪苗代の象徴「磐梯山」、開拓時代から今に受け継がれている「桜」、そして、大志を抱き安積開拓を実現に導いた「大久保利通」で構成されている。 図4 「一本の水路」のロゴマーク
3.世界かんがい施設遺産について 世界かんがい施設遺産は、かんがいの歴史・発展を明らかにし、かんがい施設の適切な保全に資するために、歴史的なかんがい施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が認定登録・表彰する制度で、2014年(平成26年)に創設された。登録によって、かんがい施設の持続的な活用・保全方法の蓄積、および維持管理に関する意識向上に寄与することが期待されている。 登録となる基準としては、ダムを含む貯水施設、堰や水路、水車などのかんがい施設で100年以上経過し、くわえて同委員会の定める9項目の基準を1つ以上満たすことが条件となっており、平成30年までの5年間で国内では35施設が登録となっている。安積疏水においては、日本遺産認定と同じ平成28年に登録となった。 安積疏水土地改良区が世界かんがい施設遺産の登録を目指したのは平成26年10月だったが、その年の春ごろから、安積疏水を世界遺産にできないかという声が上がり始め、その可能性について模索を始めたころでもあった。 世界遺産は「顕著な普遍的価値」を有する不動産であることが大前提であり、明治15年の通水以来130有余年を経過した現在も、造成当時の施設を改修しながら利用しているため、開鑿時の古い施設が残っていないことが大きな障害となることが予想され、日本三大疏水といわれる「那須疏水」「琵琶湖疏水」と共同での申請を検討したが、実現には至らなかった。 一方、世界かんがい施設遺産の申請は平成27年の第2回の登録を目指し準備を始めた。申請に当たり100年以上経過した施設に重点を置き、十六橋を中心とした申請書を作成したが、日本遺産に合わせ、世界かんがい施設遺産の申請内容も安積開拓と安積疏水開鑿全体に拡充するために、申請を一年先延ばしした。先行して日本遺産の申請をした郡山市の担当者の指導を仰ぎ、内容の添削や英文への変換など、種々の協力を得て、申請書の作成は比較的スムーズに進捗した。 申請から半年後、無事登録の知らせを受け、お世話になった関係機関に報告をしながら感慨も一入だった。とくに品川萬里郡山市長には、たいへんにお世話になり、農林水産省での登録証の伝達式にはご足労をいただき、本区本田陸夫理事長と共に盾を受領された。安積疏水では、世界かんがい施設遺産登録と日本遺産認定の垂れ幕を作成し、ロビーに掲示すると共に(写真3)、末永くこの栄誉を称えるために、世界かんがい施設遺産登録記念碑を制作した(写真4)。
さて、全国土地改良事業団体連合会では、土地改良区の果たしてきた役割や機能を改めて見直し、施設の包含する多面的機能を広く一般に認識してもらうため、平成13年度から21世紀土地改良区創造運動を展開している。近年の農家の減少に伴う施設管理の困難化や公的補助金の投入などの観点からも、この運動がいっそう重要性を増している。本区としても、催事を開催する、あるいは他団体からのさまざまな協力の要請に対して最大限応じるなど、できるかぎり努めているが、この度の日本遺産の認定と世界かんがい施設遺産の登録は願ってもない情報発信の機会となった。認定および登録の翌年の平成29年度には、本区への来訪者・施設見学者が前年度比3割増となって、さっそく効果が現われた形となった。 結びに、土地改良事業および安積疏水土地改良区のために、今後もこの度の輝きが色褪せないよう、引き続き情報発信に努め、1人でも多くの人たちに土地改良事業の重要性を知っていただくと共に、土地改良区の持つ多面的機能を通して、豊かなふるさと造りに貢献していくことを構想している。 |