世界農業遺産と灌漑・水遺産
はじめに 少し唐突ではあるが、我々の寿命の話から始めよう。一般に、ほ乳類の限界寿命LTは、その基準体重M (kg) に対して、 LT(年)= 7.5 × M0.29 あるいは、 LT(分) = 6.1 × 106 × M0.20 で表わすことができるとする、過去のいくつかの研究がある。たとえば、後者の式に当てはめると、マウス(25g) は5.5年、ゾウ(3.8t)は79年、人間(60kg) は26年となる。筆者は専門家ではないので、その理由は明示できないが、恐らく生体の代謝に係わる呼吸、筋肉の収縮、心臓の拍動などの速度が係わっており、体重が軽い動物ほどこのスピードが速く短命ということなのだろう。 俗に、ほ乳類の一生の心拍数は10億〜20億回程度で一定であるとの説があるが、これに当てはめれば、マウス(600拍/分)やゾウ(30拍/分)の寿命は概ね上記のレベルとなり、人間(70拍/分)は27〜54年となる。しかし、現代の人類の平均寿命は、これらよりもかなり長い。世界保健機関(WHO)によれば、2013年の世界の平均寿命(出生時の平均余命)は女性が73歳、男性が68歳、先進国などの高所得諸国では同82歳と76歳、日本は同87歳と80歳である。 東京大学第28代総長の小宮山宏先生によれば、千年前の世界の平均寿命は25歳程度、110年ほど前のそれは31歳で、上述の式に当てはめて求めた平均寿命にほぼ一致するらしい。それが、20世紀の間に3倍近くに伸びたのである。しかし、当時でもジュリアス・シーザー(享年56歳)、アルキメデス(同70歳以上)、プラトン(同82歳)のように歴史に名前をとどめた人々は、平均寿命より遙かに長生きしている。彼らのような、ごくひと握りの裕福な「食べられた人」たちは、暮らしの衛生状態が良く、清潔な水が飲めて、当時の医療の恩恵も受けられたために、当時でも長寿であったと、同先生は理由を挙げている。 つい近年まで、天然痘、ペスト、インフルエンザなどの感染症は、人の寿命を縮めるどころか、人類の総人口を減少させるほどの脅威であった。20世紀以降に人類が到達した、感染症の原因を突き止めて処方する医学の進歩、その蔓延防止に重要な衛生環境の確保と普及、そして免疫系など生体の防御機能を高める良質な栄養の安定摂取、これらがほ乳類の平均寿命のなかにおいて、人類のそれを例外的な長さに伸ばしたものと考えられる。 このなかで、水と農業に係わる衛生的な水の安定供給と良質な栄養の安定摂取が、各地の農民や関係者のいかなる努力と工夫の積み重ねにより実現されてきたのか、それを認識し記録して、次世代に伝えていくこと、それこそが「水と農業の歴史に学ぶ」(本号の特集テーマ)ことの意義であり、必要性であろう。一握りの特権階級にだけでなく、広く遍くこれらを提供し、多くの人々の長寿化に貢献してきた「世界の農業遺産とかんがい施設遺産と水遺産」は、我々の先達が各地の自然条件、社会条件のなかで知恵を出し合い、試行錯誤を繰返し、工夫と努力を積み重ねてきたことの証を示すものである。 しかも、それらが今現在もなお生き続け、受け継がれているところに、いっそうの価値がある。何故ならば、これらの価値ある知恵や取組の業業から、我々が集団や社会を健全に機能させるための「協働の原理」を学び取り、これらを未来の問題解決に必要な鍵として応用する道が開かれるからである。 1.世界農業遺産(GIAHS) 正式な名称はGlobally Important Agricultural Heritage Systemsであり、その日本語訳である「世界重要農業遺産システム」を短く略称したものである。英語名称の単語の頭文字を並べて、GIAHS(ジアス)と称されることもある。 これは、主として途上国における世界的に重要な農法や生物多様性などを有する農業地域を次世代へ継承することを目的として、2001年に国連食糧農業機関(FAO)が創設した認定制度である。一般には、より認知度の高い、国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界遺産」では、過去のある時代に造営された歴史的建造物やその遺跡、遺物が現在もなお残存する地域、あるいは優れた景観を形成している自然、すなわち形あるものを遺産として登録する考え方である。 これに対しGIAHSでは、社会や環境の変化に適応しながら、数世紀にもわたり発達し、形づくられてきた農業上の土地利用、伝統的な農業とそれらに関わって育まれた文化・景観・生物多様性に富んだ地域と、それらを支える地域共同体のシステムが、複雑な関係性のなかで現在まで生き続け、発展している状態を遺産とみなす考え方を取り入れている。 GIAHSを推進するFAOのウェブサイトによれば、現在までにアフリカ3、アジア・太平洋36、欧州・中央アジア4、ラテンアメリカ・カリブ3、近東・北アフリカ6の計52の地域が認定済で、アジア・太平洋3、欧州・中央アジア2、近東・北アフリカ3の計8地域が、候補として現在申請中である。国別で既認定数をみれば、最大は中国の15、次いで日本の11、韓国の4、インドの3とアジアの国々が続き、スペインとタンザニアが2で、他の国々は1となっている(表1)。中国と日本を合わせると、世界の過半数を占めている。栄えある第1号は、中国浙江省(Zhejiang)青田県(Qingtian)並びに貴州省(Guizhou)従江県(Congjiang)の“Rice Fish Culture”地域で、2005年に認定された。その後は4年ほど認定がなく、10年に5年ぶりに中国から2地域が認定、翌11年に日本を含む11か国から13地域が認定されている。 表1 世界農業遺産認定地域一覧(2018年7月現在)
GIAHSの特徴は、与えられた自然環境に幾世代もの長い時間をかけて適応してきた人間の営みや生活のなかに見られる、幅広く深い知識と知恵の体系を高く評価しようとする姿勢である。そこに、世界共有の財産としての野生種・固有種を含む生物多様性の保存性、あるいは持続的発展を支える自然との共生観や固有の文化との結び付きといった要素がしっかりと備わることで、人類共通の普遍的な価値の存在を主張しているのである。 その認定基準は、①食料と生計の保障、②生物多様性および生態系機能の維持、③知識システムおよび適応技術の普及、④文化、価値観および社会組織(農業農村文化)の発展、⑤特筆すべき景観および土地・水資源管理の特徴、の5つとなっている。建造物や自然そのものを対象とするUNESCOの世界遺産と農業システムを対象とするFAOの世界農業遺産では、遺産としての視点や考え方に多少の違いが見られるものの、たとえばフィリピンの「イフガオ族の棚田」のように、両者の認定地域が重複しているケースもあり得る。FAOでは、世界農業遺産としての認定は、その地域の地元の食料安全保障の備えとしての重要性、農業上の生物多様性あるいは関連する生物学的な多様性の水準の高さ、土着の伝統知識の蓄積および管理システムの巧妙さを基本要件として選考されるとしている。 今日までの長い歴史の間、各地域には天候異変、疫病、自然災害、戦乱、技術革新、経済競争など、さまざまな攪乱があり、何度も危機が訪れたことであろう。その度に危機を乗り越え、時間をかけて回復するレジリアンス(復元力)がなければ、現在、その姿を我々が見ることはできなかったはずである。遠い祖先が作り、自分たちの代まで改良を重ね守ってきた地域の農業システムに対する人々の強い信頼と、地域への誇りや深い愛情がなければ、共同体の力を束ねて発揮することはできなかったに違いない。 こうして培われた資源の管理や利用に関する人々の幅広くかつ賢明な知識の集積は、地球全体の貴重な財産であるという意味で、世界農業遺産認定地域という形で適切に動態保存され、地域と共に持続的に発展しながら、未来世代にまでメッセージを発信し続けることが期待されているのである。 2.世界かんがい施設遺産(WHIS) インドのニューデリーに本部を置く国際かんがい排水委員会(ICID: International Commission on Irrigation and Drainage)は1951年に設立された伝統ある国際組織で、我が国はその翌年に閣議決定に基づいてICID日本国内委員会を組織し、正式に加盟している。 ICIDは、世界各地のかんがい、排水、洪水調節、治水への応用のために、水資源ならびに土地資源の管理に当たって、調査、開発、能力開発、包括的な手法の応用および世界における持続的な農業のための最新技術を含めた、工学・農学・経済学・生態学および社会科学における技能・科学・技術の開発を奨励かつ促進することを使命としている。現在、約110の国と地域が加盟する、かんがい排水に係る技術・組織、行政や制度の情報交換ができる世界で唯一の組織で、農業農村整備分野における日本の技術を提供できる国際貢献の場でもある。 ICIDでは2014年に、UNESCOによる従来の世界遺産制度とは別の独自の取組として、完成から100年以上を経ても技術が継承され利用されている、新時代を画する水利施設を世界かんがい施設遺産(WHIS:World Heritage Irrigation Structures)として登録する制度を開始した。その後、歴史的価値を有する水利施設の遺跡も登録されることになり、毎年、開催される執行理事会で登録施設として認定されてきた。2018年までに、世界全体で74施設が登録されており、そのうちの35施設が日本の水利施設である。我が国は制度の開始当初から継続的に登録申請を行ってきており(表2)、2018年には4施設が登録された(写真1)。
世界かんがい施設遺産認定登録制度の目的は、かんがいの歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に資することで、認定登録によって、かんがい施設の持続的な活用・保全方法の蓄積、研究者・一般市民への教育機会の提供、かんがい施設の維持管理に関する意識向上に寄与することであり、さらに、かんがい施設を核とした地域づくりに活用することができる。 その対象施設と登録基準は、建設から100年以上経過しており(供用廃止施設も対象)、①ダム(かんがいが主目的)、②溜め池などの貯水施設、③堰・分水施設、④水路、⑤排水施設、⑥古い水車などいずれかの施設で、9項目の登録基準のうち1つ以上を満たす施設である。 なお、その9項目のうちの主な基準は、①かんがい農業の画期的な発展・農業発展・食料増産・農家の経済状況改善に資するもの、②構想・設計・施工・規模などが当時としては先進的なもの、および卓越した技術であったもの、③設計・建設における環境配慮の模範となるものなどである。 我が国においては、かんがい排水施設の主たる管理者である土地改良区の多くが、WHISとしての登録に強い関心を寄せてきている。これには、土地改良区の存在意義を地域住民に認識していただくことを目指して2001年に始まった21世紀土地改良区創造運動や、05年に投票によって選定した疏水百選の取組などが下地となっているものと考えられる。登録施設の関係者は連絡協議会を設立し、地域活性化に向けた地域資源としての活用などを進めている。 3.世界水遺産(WSH) こうした世界かんがい施設遺産ではあるが、いずれもハード施設という目に見える構造物のみで遺産が構成されており、構造物がその機能を発揮するために必須な技術と管理組織の継承という、もう一つの重要な要素に十分な関心が払われているとはいえない。つまり、構造物というハードの社会資本が機能するための諸法制度・組織体制・社会慣習などのソフトの社会資本の価値には、光が当てられていない。その大きな要因は、ソフトの社会資本は目に見えないことにある。 「ソフトの社会資本なくしては、ハードの社会資本も存立しえない」という自明の事実を、これまで以上に認識して水問題の対応に当たることが、現有の水関係施設をできるだけ長く使い続けられるようにする近道だといえる。こうした視点に立って、水に関する世界的な発信力を有する世界水会議(WWC: World Water Council)で2014年当時理事を務めていた筆者の発案によって、同会議とICIDが協力する形で、水に関するソフトの社会資本の価値を認定・登録する世界水遺産制度(WSH:World Water System Heritage program)が創設され、紆余曲折を経て、18年3月の第8回世界水フォーラム(WWF8)の場において、日本からの2件を含む、3件の認定が初めて行われた。 さて、世界の水の関係機関を結集して1996年に創設された世界水会議は、フランスのマルセイユに本部を置き、世界水フォーラム(WWF: World Water Forum)を開催する団体として、その名を知られるようになった。1997年にモロッコのマラケシュで開催された第1回世界水フォーラム以来、オランダ、日本、メキシコ、トルコ、フランス、韓国、ブラジルと3年ごとに、開催国と共同して大掛かりな会議を運営し、水に関する議論を深めてきている。 WWC自体はいわゆる国際NGOであり、現在は世界各国に約400の会員を擁し、日常的にはその会費により運営されているが、3年ごとのWWFの開催に当たっては、その企画・計画・運営などを開催国に助言するシンクタンクとして活動し、開催国からロイヤルティーを得ている。WWFには主として国際機関、国際NGO、国内NPO、企業、研究機関、各種団体が参加し、セッションや展示で水に関するアピールを行うオープンな議論の場と、世界各国の閣僚や官僚が水に関するクローズドな議論を行う非公式会合の場からなり、役割を分担しつつ全体としての世界への発信力を高めている。次回、2021年の第9回世界水フォーラム(WWF9)は、初めてアフリカ大陸に上陸し、セネガルのダカールで開催される予定である(表3)。 表3 世界水フォーラムの開催地・メインテーマ・参加国数など
世界水遺産制度は、人間社会と環境との共生に貢献する人々によって培われてきた歴史的な水管理システム・組織・規約を、無形遺産に登録・表彰する制度で、登録対象範囲は、飲用水・農業・工業・発電・水運・環境保全・漁業・洪水管理・防災・下水処理・衛生など、全ての水分野にわたる。歴史的に確立・実証されている運営手法や組織の真価を認め、これらを成功に導いた要因を発掘し取りまとめ、将来世代に受け継ぐことを主な目的としている。認定登録に当たっては、次の一次基準の全てを満たし、かつ、二次基準のうち1つ以上を満たす必要がある。 <一次基準> ①何世代にもわたって維持されており、少なくとも100年以上維持している。②地域社会の知恵を集めたシステムであり、コミュニティの習慣や規則を発展させてきた。③さまざまなステイクホルダーに関与している。④地域の社会経済に貢献している。 <二次基準> ①歴史的背景が優れており、それを検証できる。②文化的価値を発展させてきたか、生物多様性を維持する。③干ばつや洪水などの自然災害、人為的な水質劣化を効果的に克服した。④人類共通の卓越した普遍的な価値を有している。 我が国から認定登録された、静岡県三島市の「パートナーシップによる源兵衛川の管理・再生システム」は、室町時代後期に地元の有力者であった寺尾源兵衛が水田開発のために開削した用水路である延長約1500mの源兵衛川は、元々は富士山の雪解け水の湧水を農業用水に供給するものだったが、1960年代には「どぶ川」と化していた。しかし、住民らによる熱心な環境保全活動が実り、蘇った清流は洗濯や自宅の池への導水など地域社会で活用され、現在では街中を流れる「せせらぎ」として市民に親しまれている。 また、新潟県上越市の「上江・中江用水路客水地区賦課金減免制度」は、江戸時代の1675年に創設されたもので、下流での新田開発に向け上流の水路拡幅を計画した際に、拡幅で農地が減る上流域の農家の不利益を補填する仕組みとして、「客水地区」と呼ばれる上流域の用水の維持管理費を下流域の農家が負担するものである。当初は下流域の農家が全額負担していたが、時代と共に規約は変わり、2008年からは上流の農家も水利費を一部負担して、農業用水の維持に努めている。 <参考資料>
帯広畜産大学「生命を考える-哺乳類の限界寿命と生命サイクルテンポ」
http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms/LifeRh/02/Mammals01.html 小宮山宏,「人類の平均寿命は100年ほど前までは31歳だった?!」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=22 GIAHSウェブサイト, 国連食糧農業機関(FAO)http://www.fao.org/giahs/en/
山岡和純(2013)「佐渡及び能登地区に見る世界農業遺産の価値観―世界農業遺産国際会議への期待」,棚田学会誌「日本の原風景・棚田」,第14号:pp. 77-85
Avinash Chand Tyagi and Kazumi Yamaoka(2015), Development of the WWC world water heritage systems (WHS) program, Water & Heritage (ISBN: 978-90-8890-278-9):Sidestone Press, Leiden, The Netherlands:pp. 417-429
ICID, World Water Systems Heritage Program
http://www.icid.org/wsh_criteria _n_nomination.pdf |