伝統的水利システム・カナートに見る
持続可能な資源利用のヒント 1.見直されるカナート 2010年に亡くなられたカナート研究の世界的権威だった小堀巌・国連大学上級顧問が自身の研究史をまとめた『乾燥地域の水利体系─カナートの形成と展開』の冒頭で、1956年に初めてイランのカナートを見て研究対象としたときは単なる興味の対象だったが、持続的な水利用に相応しい技術として見直され、国際的な研究がさらに広がる兆しが出ている、との旨を述べられている。2000年には、小堀先生の念願であった初めてのカナートに関する国際会議がイラン中部の都市・ヤズドで開催され、また2004年にはカナート都市ともいうべきイランの「バムとその文化的景観」、2006年には「アフラージュ─オマーンの灌漑システム」、2016年にはイランの「ペルシャ式カナート」が、いずれも世界文化遺産に登録されている。 今世紀になって、カナートは単なる過去の遺物ではなく、今なお利用されている重要な社会文化基盤であるという認識が高まり、地理学・文化人類学・水文学といった分野を中心に、カナートの学際的な研究も進んでいる。その背景としては、二千年以上に及ぶ乾燥地の水文条件に適した持続的な水資源の利用の仕組みと環境に調和した、カナートの技術を作り上げた先人の叡智から、私たちが直面している諸問題に、なんらかの手がかりを得たいと、多くの研究者が感じているのであろう。 わが国では「横井戸式地下水灌漑体系」と呼ばれるカナートは、簡単にいえば重力の利用によって、地下水の損失を最小限にして利用するという、きわめて効率のよい方法である。カナートは扇状地や水が自然に湧出する斜面などで、地中の地下水位以下に達するまで斜面の中腹奥深くまで掘り進められた横井戸で、取水のための地下水路は重力によって水が流れるように、そして農業や居住に適した場所の地表面に現れるようにしなければならない。そこから、水は開水路を通って家庭用水や灌漑に利用される(図1)。ただし、カナートの水利体系というのは単に水利構造物とそれを実現する掘鑿技術に留まらない。カナートに支えられている集落、農地、水配分の規則を含めた全体がカナートであり、いわばハードウェアとソフトウェアを含めた統合された体系となっている。人類の生存に不可欠な水を持続的に利用するために成立した水利体系の発展は、想像以上に歴史や文化の各所にその痕跡が残っている。 図1 カナートの仕組み
カナートとは、元々、古代メソポタミア地方付近の当時の国際共通語であったアッカド語でkanu「葦」を意味する言葉が語源だといわれている。イラン、クルディスタン(イラクのクルド人自治地域)、アフガニスタンといったペルシャ語系の地域ではカレーズ、オマーンを始めとした湾岸諸国ではファラジ(複数形でアフラージュ)、北アフリカではフォガラやカハッタと呼ばれる。現代アラビア語でも水路を意味するカナートは、ラテン語やギリシア語を経て英語でも運河や用水路を意味するcanalの語源となっている。 さて、楽園を意味するパラダイスの語源もカナートに関係するというと、驚かれるであろう。カナートが拡大したサーサーン朝ペルシャ期に、カナートの水は庭園に噴水と水路で区切られた四つの区画で構成される四分庭園と呼ばれるペルシャ式庭園の発展をもたらした。この庭園様式は、その後イスラームの拡大に伴って広がり、インドでは最大規模のペルシャ式庭園を持つタージマハールが完成し、ヨーロッパでもヴェルサイユ宮殿やアルハンブラ宮殿に、その影響がうかがえる。ゾロアスター教の自然崇拝を反映させて木々、花々、噴水、水路で構成されて壁に囲まれた庭園には、周囲の過酷な乾燥地の環境からは隔絶した、常に水が流れて花が咲き乱れる別天地が造られた。古代ペルシャ語では、こうした壁に囲まれた庭園を“paradida”と呼び、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の世界観に影響を与え、“paradise”の語源になったのである。 2.カナートの起源と伝播 カナートの技術が、どのように生まれ発展していったのか、その歴史は今なお定かではない。しかし、これまでの研究において、ほぼ定説とされているのはBC700年ころにはすでにカナートが造られていたというものである。チグリス・ユーフラテス川の流域を支配する新アッシリア帝国の王サルゴン2世(在位BC721〜705年)がBC714年、ウラルトゥ王国のオルーミーイェ湖(現在のイラン北西部)近辺を攻撃したとき、湖のそばにあるカナートと思われる施設を発見した。「流水をたたえる太い溝………そこには大量の水がユーフラテス川のように流れていた。その内部から数え切れないほどの溝が引かれ、耕作地を灌漑していた」。粘土板に残されたこの記述が、最古のカナートの記録だと考えられている。サルゴン2世の後継である王センナケリブ(在位BC705〜681年)は、母国にこの技術を持ち帰り、現在のクルディスタンの主都アルビールに水を引いたといわれている。 メソポタミア周辺に限られていたカナートの技術が本格的に伝播しはじめるのは、後のアケメネス朝の成立(BC550年ころ)以降のことになる。帝国の領土拡大に伴い、カナートは西方へはアラビア半島やナイル川を越えて北アフリカへ、そして東方へはパキスタンやアフガニスタン、さらには中国西部に伝わっていった。最盛期には20か国以上を支配していたアケメネス朝は、サトラップと呼ばれる地方提督にある程度の自治を任せることによって、農業生産を増大させていった。アケメネス朝の当局は、カナートの新設に対して5世代にわたっての免税措置を保証するというインセンティブを設定したのである。 その後に興ったサーサーン朝もまた、中央集権的な水管理システムに莫大な投資をしている。当局が農業生産の見込みがあると判断した場所には、人々を強制移住し、その定住を図る政策を実施し、カナートの新設を加速させていく。 また、帝政ローマが地中海東部を領有している間には、パレスチナやヨルダンでもカナートが建設されていった。そして、7世紀に興ったイスラーム最初の帝国であるウマイヤ朝は北アフリカ全土とイベリア半島にまで領土を広げたため、カナートはスペインにも伝わることになる。数世紀後の大航海時代、スペイン人によってカナートの技術は大西洋を経て新大陸にまで伝えられ、メキシコ・ペルー・チリなどに、その痕跡が残っている(図2)。 図2 カナートの世界への伝播経路
現代の技術の伝播に比べると非常に緩慢なものであるが、カナートの技術がこれほどまでに普及した理由として、①乾燥地での水供給に非常に効率的であったこと、②関連技術が体系化されていたことが考えられる。11世紀初頭には、イラク出身の数学者Al-Karajiが『隠された水の取り出し方(Extraction of hidden waters)』というカナートの全般に関わる指南書を著している。これは全30章からなる最古の水文学書とされる書物であり、カナートの場所の選定方法や具体的な掘鑿の方法から始まり、維持管理から新設カナートへの投資判断にまで言及がある。水路勾配を決定していく水準測量のために自身で発明したという水準器も紹介され、また地下水指標植物にも触れられており(地中25mまで根を伸ばすラクダ草が最適とされている)、彼の超人的な博覧強記ぶりが覗える。余談ではあるが、本書において地形や地下水を注意深く観察した結果、地球が球体であること、ただし不完全な球体であることを、ガリレオ、ケプラー、ニュートンといった西洋の科学者に先んじて洞察しており、当時のイスラーム世界の優れた科学力の一端を示している。 3.環境共生技術としてのカナート
図3 カナートとの組み合わせによって空冷装置として機能する採風塔
また、氷を夏期に保存しておくイランの氷室であるヤフチャール(Yakhchal:ペルシャ語でYakhは氷、chalは窪みや穴を意味する)もカナートの水の気化熱を利用したもので、BC400年ころにはすでに使われていたという記録がある。カナートの水を地下の製氷池で凍らせて貯蔵し、年間を通じて氷が使えるようにしておく。夏期には前述の採風塔とカナートの組み合わせによって、氷室内を低温に保つ仕組みである。水を運び、風を取り込み、氷を貯蔵するこうしたシステムは、すべて後に近代科学が発見する気化熱やコアンダ効果(外部からの空気が、採風塔の壁に引き寄せられ取り込まれていく)といった自然現象を巧みに利用したものである。 4.カナートの文化:持続的利用を可能にする仕組み 共同体におけるカナートの維持管理の仕組みは、長きにわたり文化人類学者や地理学者の興味の対象であった。カナートの物理的な構造が各地で似たような形態である一方、共同体内での水の配分といったいわば制御のソフトウェア部分は地域によって異なり、それぞれの場所で複雑な決まりごとがあるのは興味深い。とはいえ、水の配分方法は大きくは二つに分けられ、流量にかかわらず時間ベースで配分を決定する方法と、流量に応じた水量ベースで配分を決定する方法で、前者の方が広く採用されている。ここでは、オマーンのファラジでの水配分の方法を、筆者(ガフリー)の研究に拠って簡単に紹介する。 オマーンでは、今も3000を超えるさまざまな規模のファラジが利用されている。ファラジの水はまず生活用水として集落で用いられた後、永年生作物(主にナツメヤシ)、ついで一年生作物(穀類、野菜など)に灌漑される。つまり、水の利用には優先順位があって、干ばつにあっては人間の生存を確保した後、保存食ともなるデーツが採れるナツメヤシのような永年生作物の枯損を防ぎつつ、その年々の水量に応じて一年生作物の作付がなされる。 配分は、多くの場合に時間ベースで行われる。これは干ばつ時においても、平等に水を行き渡らせるための工夫の一つである。アタール(athar)と呼ばれる時間の基本単位が用いられており、理論上、1アタールは30分となっている(ただし、運用上は幅がある)。1アタールはさらに24キヤス(qiyas)に分けられるが、1キヤスはナツメヤシ1本分の灌漑時間に相当するとされている。また、灌漑ローテーションはドーラン(dawran)と呼ばれ、地区によって異なるが、通常は4日間〜20日間で1ドーランとなっている。 時計のない時代から時間ベースの配分を可能な限り正確に行うために、さまざまな工夫がなされてきた。イランやアルジェリアでは水時計と呼ばれる道具によって水長が配分を決定する方法がよく使われていたが、オマーンで用いられたのは太陽と星の運行であり、季節による太陽高度の相違と日長変化に対応する工夫のなされた日時計が広く用いられてきた(写真2)。 写真2 中央の高い棒の影が日時計の石の目盛り(1アタール)を移動してゆく。棒からの距離と石の間隔は季節で異なる
ただ、日長変化や流量変動に対応しつつ水配分の公平性を保つためには日時計だけでは不十分で、天体運行を用いることによって生ずる昼夜の単位時間長の差異を最小限にするためには、灌漑の順序を常時入れ替える、ローテーションを昼夜で交互に組み替える、 また干ばつ時の流量減少には、配分する支線水路の数を制限する、水槽に一時貯留することで水路損失を減少させる、などの方法が採られ、配分の公平性・平等性の担保が最優先であることが見て取れる。 カナートにまつわる民俗学的な面にも、簡単に触れておこう。「カナートの結婚」と呼ばれるイランの風習に関して、カナートに性別があるということはあまり知られていない。「カナートの結婚」に花嫁が選ばれることは、カナートが「男性の人格」を持っているという意味になるが、実はすべてのカナートが男性であると見做されているわけではない。流れは多く激しいが年間を通して安定せず、ミネラル分が多い、濁りが強いような水が湧くカナートは「男性」のカナートと見做され、対照的に流量が安定し、透明度の高い軟水のカナートは「女性」であるとされる。「男性」のカナートでは水量が減った場合に、いわば雨乞いのための「カナートの結婚」の儀式が集落を挙げて執り行われる。この場合、女性は未亡人が選ばれる。花嫁がカナートの水で身体を洗うことによって、カナートは興奮して水量を増すと信じられており、これは男女の交合の暗喩となっている。また、収穫の一定割合が花嫁に選ばれた未亡人に渡されることになっており、「カナートの結婚」は象徴的な儀式という意味だけではなく、未亡人への共同体からの生活扶助を兼ねていた。こうしたカナートに関わる儀式は、すでに行われなくなったものも多く、最後の「カナートの結婚」も40年以上前とのことである。 カナートに人格を付与するというのは、おそらくイスラーム教以前のアニミズム(自然崇拝)やゾロアスター教の影響であろう。こうした共同体の共有自然資源の人格化・神格化を通じて維持管理していく事例は、世界各地で見られるものではあるが、カナートの場合は人工の構造物であるにも関わらず、共同体の一構成要素として人格が付与されているのは珍しい事例かもしれない。イスラーム教伝来以降は、カナートの出口が村の中心部に位置するモスクに設置され、礼拝前に手足を洗い清めるのに使用される。また、水の配分をイスラーム聖職者が行うケースも多い。水利権が国有化された1980年代のアルジェリアにおいても、結局、現場の水長が差配しており、カナートの体系は近代的な公営や民営の水道システムとは根本的に馴染まないものかもしれない。これは、公共資源の管理の在り方に示唆を与えるものである。 5.持続可能な資源利用─先人の叡智から学ぶ カナートの水利体系は水環境の変化に脆弱であり、また歴史を通じて自然災害や政治情勢に翻弄されてきた。近年では、大量の揚水を可能にする深井戸とポンプとの競合にさらされ、きわめて不利な立場にある。さらに、持続可能な開発の文脈で伝統的な環境共生技術は手放しで礼賛されることがあるが、カナートもイランでBonehと呼ばれる農村部の封建的な地主─小作人制度や古くは奴隷制に依存してきたという事実からは、目をそらすべきではない。事実、1963年のイランにおける白色革命の下、近代化・西洋化の一環として小作農に農地が与えられると、資力のない個々の農民ではカナートを維持できなくなっていった。それでもなお、周囲の環境と共生しつつ進化してきたカナートの水利体系は、私たちの水利用の在り方を再考する契機を与えてくれる。 過剰揚水によって、世界のさまざまな場所で地下水の持続的利用が危ぶまれるなか、カナートはハードウェアもソフトウェアも資源の過剰利用を避けることが最優先の水利体系になっている。仮に地下水位が低下した場合には、深井戸であればさらに低下した地下水位に届くまで井戸を掘り下げればそれですむ。一方、改修や変更には非常に費用と労力がかかるカナートの場合は、地下水位が低下すれば、全ての竪坑と地下水路をさらに深くする他ない。したがって、母井戸を枯渇させないことが最優先事項であり、過剰揚水に歯止めがかかることになる。また、結局のところカナートの建設や維持・管理は個々の力では無理であり、共同体で協力してことに当たる必要がある。これが、結果的に共同体内部の社会関係を強化することにつながり、長期間にわたってカナートを媒介とした人と自然の共生が営まれてきたのである。 公共財や共有資源の研究によって、2009年に女性として初めてノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムは、実証研究および理論研究を通して共有資源の保全管理のために、国家や市場だけではなく第三の方法として共有資源に利害関係を持つ当事者が自主的に適切なルールを取り決めて保全管理をするという、コモンズの自主管理が有効である可能性を示した。彼女のアプローチは、抽象的な理論モデルだけでなく、現実の共有資源の事例から実証的に議論を展開することに特徴がある。ロサンゼルスにおける地下水の自主管理の事例から始まり、その後、世界各国の数千という共有資源の事例を調べ上げ、共有資源の自主管理が成功するために必要な条件(stylized facts)を整理した。 調査のためにネパールなどにも足を伸ばしたオストロムだが、カナートの事例を実際に調査した形跡は残念ながら、ない。ただ、二千年以上もの間に人種も宗教も異なる幾多の支配者の下で、時には戦乱に巻き込まれながらも、人々がそれぞれの環境や文化を織り込みながら、カナートのシステムは維持されてきた。カナートはオストロムのいう自主的管理による持続的な共有資源利用の単なる可能性ではなく、時の試練を経た確固たる証拠として、今も人々の生活を支え存在しているように思われるのである。 <参考資料>
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