水は命

川村学園理事・同女子大学 特任教授、国際教養大学 客員教授     
元駐エジプト大使、元駐カナダ大使 石川 薫


 ヨハネスブルグ空港に着くと、入国審査所に下りていく階段の正面壁一面の「Amanzi-ayimpilo‐Water is life」 という大書に目を奪われる。南アフリカという豊かな国に着いたとはいえ、ここは大自然のなかにあるアフリカ大陸なのだ、と実感する瞬間であった。


<水は命>

 砂漠とサバンナと熱帯雨林という、3つの異なる自然が赤道を挟んで南北に展開するアフリカでは、生き延びるための水をまず感じる。けれども水は、ヒンズー教のガンジス川や洗礼者ヨハネのヨルダン川などの信仰のなかでの命でもあるし、ニジェール川中流域デルタやナイル河口デルタの水は人を定住させる農業を生み、それが富と分業と階層を生み、社会と国家を育み、文明の繁栄をもたらす、そういう命でもあった。

 ナイル川、レマン湖(ローヌ川)、コンゴ川、セーヌ川、テームズ川、オタワ川などに、ご縁を得てその(ほとりに住み、いずれの地でも川面を見れば日々の雑念を忘れ、母なる自然に安らぎを覚えたものであった。けれども、自然はときに(きばをむき、コンゴ川は漆黒の闇のなかでこの世のものとも思えない閃光と雷鳴に撃ちつけられて川面をうねらせたし、日本の川はふとした自然の怒りで氾濫(はんらんする。そして、人が自然への敬意を忘れれば、たちまち人と自然のバランスは崩れ、1961年から77年まで17年にわたり花火大会を中止せざるを得ないほど悪臭が漂うドブ川と化した隅田川のようになってしまう。

 花の都というが、ジャンバルジャンがマリウスを担いで逃げたパリの下水道とて、実は下水処理場に通じていたのではない。パリの西北のはずれのアルジャントゥイユ近くのセーヌ川に下水を流していただけであった。しかし、人口が増えるにつれて、ぷかぷかと浮くものも増えて市民から不潔だとの声が上がり、では改善しようということになって排出先に下水処理場を建設した・・・のではなくて、その少し下流のクロワッシー村まで排出口を伸ばしたのであった。 

 アルジャントゥイユもクロワッシーも、モネやルノワールたち印象派が舟遊びや水浴びなどの美しい絵を描いたが、思わぬことを連想するのは、かつてクロワッシー村に住んでいたことがある筆者だけだろうか。ちなみに、美しい街として知られるシドニーも、筆者がオセアニアを担当していた30数年前には、下水管はそのまま南太平洋に排出されていた。自然の包容力が、人の数やわがままを包み込めるうちは、それでよかったのかもしれない。しかし、いまや人は70億人を超えてしまい、自然はもはや両腕で人を抱えきることはできない。

 アマゾンやボルネオの森と並んで豊かな森だったコンゴの熱帯雨林を、ずっと守ってきたのはコンゴ川であった。首都キンシャサから下流のマタディまで300kmにわたって強烈な早瀬が連なり、巨木を搬送するのを阻止してきたからだが、モブツ政権が倒れて政治が乱れた途端、大型トラックを勝手に乗り入れて乱伐する(やからが現れて、森の危機が迫った。インドネシアのスハルト政権が「民主化」によって倒されたのち、独立以来、曲りなりにも守られてきた熱帯雨林が、たいへんなスピードで華僑などによって消されていったのと同じ構図である。自然が自然を守る、人も自然を守る、しかし人が無頓着であったり欲望に駆られたりすると、人と自然のバランスが崩れて母なる自然は静かに、そして着実に滅びの道に入ってしまう。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』も、静かであるがゆえに恐ろしかったのである。


<人と水>

 いうまでもなく、わが国の最大の水の悲劇は水俣であり神通川であった。2001年にヨハネスブルグで開かれた持続的開発サミットには、小泉総理(当時)をはじめ世界各国の首脳が参加して、経済成長も環境保全も両立できる道を探求したが、併設された日本館では、かつて環境省が作成した公害のビデオを橋本元総理や海部元総理も出席されたセッションで上映した。似て非なる過ちを犯しながら口を(ぬぐっている多くの欧米先進国と異なり、日本は途上国の真の友人として自らの失敗を示したうえで、いまや安価な公害対策技術が開発されているのだから、途上国は同じ過ちを犯してはならないと説いた。多くの途上国参加者がこの呼びかけを高く評価し、当方の要請に快く応じて砂礫(されき式の浄化槽を展示して下さった日本のメーカーにも、引き合いが寄せられるなどの反響があった。

 数年後、同じビデオをエジプトの環境大臣や水資源灌漑(かんがい大臣に見せたところ、いまならまだ間に合う、そのためにもあまねく知らせた方が良いと意見が一致した。こうして水資源灌漑大臣に誘われて、イスタンブールで開かれた第五回世界水フォーラムに(日本代表団とは関係なく)、エジプトのリソース・パーソンとして参加する機会を得た。

 さらに、同フォーラムで当時エジプト随一の人気番組だったテレビの討論番組のキャスターの知遇を得て、川を守らないと何が起きるかを1時間番組で説く機会が与えられた。かつて奇跡の成長を遂げた日本は、その代価として多くの河川を公害で汚染してしまったこと、その後、必死になって自然の再生と自然との共生を模索したこと、水俣などの筆舌に尽くしがたい悲劇と失敗があったが、それでも敢えていえば日本には数えきれないほど多くの河川があったので、起死回生のチャンスがあったこと。翻ってエジプトを見れば、2%を超える急速な人口増加率と都市化が目もくらむ速さで進むとともに、化学肥料工場などがナイル川沿いにあるにもかかわらず下水処理が不十分なこと、そのため下流のアレキサンドリア近辺の湖は水がピンク色になっていることなどを指摘したうえで、こう述べた。古来「エジプトはナイルの賜物(たまもの」というが、それはエジプトにはナイル川というたった一本の川しかないという厳然たる事実をも示しているのだから、そのナイル川が倒れた時に何が起きるかを考えるべきではないだろうか。

 反響は大きく、小職を招いた関係5閣僚の意見交換会が開かれ、またエジプトのNGOからの講演依頼も来るようになった。こうした活動を重ねていたころ、ナイル川からデルタ地方に縦横に引かれている水路の水が田畑に届かないとして、農民たちの抗議運動が起きた。それは、考えても不思議な話だった。砂漠の緑化を政府がかなりのスピードで進めているのは事実だったが、しかし砂漠のなかの農園はドリップ式栽培だったし、ナイル川は汚染の問題はあっても、上流のエチオピアとスーダンがダムを乱造しない限り水量が突然に減ることはない。

 そこで、大使館の農業土木の技術者中村康明書記官に相談した。ここは、ひとつ日本の知恵の出番ではないかと。水が届かない原因は、水路内に捨てられたゴミ。そこで農村集落の水倫理を再生し、農業用水を共同で再利用するために考えられたのは、ゴミ溜めと化している水路を清掃するサクセス・ストーリーを一つ作ること。国際協力機構(JICA)の専門家としてエジプト水資源灌漑省にいた進藤惣治氏、北村浩二氏、渡邉泰夫氏の力もお借りして実現したのは、エジプトの水利組合と組んで女性農民を組織化して行った、とある水路の大清掃。水路に茂っていた雑草を村の女性たちが刈り、そして大量に捨てられていたゴミを拾い集めた。それだけのことで水はまた流れ始めて、実験地区の畑に利用可能な灌漑用水が届いた。これを契機に、水路にゴミを捨てないよう、農村内でゴミを集め処理する仕組みも作った。中村書記官の前任だった野中振挙書記官をはじめ農業土木技師たちの日頃からの人脈づくりと彼らがエジプトの人たちから、(ち得ていた信用がなければ、このアイデアは実現し得なかった。


<水と血>

 ペルーに初めて行ったときに驚いたのは、首都リマなどの太平洋岸が砂漠地帯でどこにも緑がなかったことであった。昔から、そうだったのであろうか。

 数千年前のチャビン・デ・ワンタル遺跡は地下に張り巡らされたトンネルと水路で知られ、世界遺産に登録されている。その後のインカの人々も、アンデス地方のマチュピチュやクスコをはじめとする多くの都市で精緻な水路ネットワークを作っていたが、その技術は砂漠地方でも活かされ、日々の生活に必要な持続的な水の供給を確保し、また効率的な農業を営むこともできていた。その秘密は石造りの水路にあった。一枚岩から管をくり抜き、継ぎ目にはクレーを埋め込み漏水を防いでいた。水路の傾斜にも意を用い、専門家によれば、その技術は今日でも、なかなか真似のできるものではないようだ。ましてや残虐の限りを尽くして、ペルーの金で富を築いたスペイン帝国の人々には、その知識も技術もなかった。

 水がなければ、人も動物も植物も生きることができない。当然のことを書くまでもないが、世界各地で、そのことが多くの苦労と悲劇を惹き起こしていることは忘れられがちになる。動物界では、ケニアとタンザニアの間を毎年往復するヌーの大群の移動が知られるが、ワニに襲われたり溺死したりして、数千頭もの犠牲を出すにもかかわらず、国境を流れるマラ川に次々と飛び込むのは、乾期に草がなくなってしまうので、赤道をまたいで向こう側の雨期の草を求めて半年ごとに行ったり来たりしている厳しいサバイバル・ゲームなのである。

 人もまた草を求めた。7000年前にサハラ地方が緑なす大地だったころ、アルジェリア南部のタッシリ・ナジェールの洞窟に、人や動物の営みの様子を描いた黒人たちは、土地が干上がっていくにつれて民族移動を余儀なくされ、消えてしまった。おそらく多くの者は南へ移動したと考えられるが、この移動とバンツー系の人々が現在のナイジェリアやカメルーンから南東を目指して熱帯雨林に分け入った民族大移動との関係が、明らかにされないものかと期待している。城壁のように立ちはだかる熱帯雨林のなかへ分け入り、居住空間を飛躍的に拡大することができたのは、彼らが鉄斧など鉄器の製作に長けていたことと、熱帯雨林を皆伐せずに少しだけ木を切り倒せば栽培が可能なバナナがインド洋を渡ってアジアから伝播したことの合わせ技による。また、近世になってキャッサバがアフリカの主食として広まったのは、キャッサバがバッタの害に遭わないことと、乾期を必要とせず、年中雨が降っていても栽培できるからであった。

 21世紀になっても、日照りが続けばエチオピアやソマリアでは多くの人が村を捨て、あるいは餓死してしまう。スーダンのアラブ系住民がダルフール地方の黒人系住民の村々を襲撃して火をつけ虐殺したのも、元はといえば水が原因だった。北部のアラブ系遊牧民が動物に食べさせる草原が干上がってしまったので、農耕民のアフリカ系住民が住んでいる土地を奪おうとしたのである。

 ナイル川のような国際河川は国際問題も生む。1929年にイギリスの後ろ盾でエジプトに極めて有利な内容のナイル川の水利権条約がエジプト、スーダン、エチオピアの間で結ばれ、今日に至るも基本的にはその条約をベースとした権利関係が続いている。自国の開発を推進したいスーダンとエチオピアは、それを帝国主義の残滓(ざんしだとして、ことあるごとに改正を求め、ついにエチオピアは巨大なダム建設を始めた。水量が豊かな青ナイルの水を上流国に握られてしまうエジプトは、深刻な脅威に直面することとなった。「アラブの春」で国威が傷ついた間隙(かんげきを衝かれたのである。このような国際河川は、上流に位置する国が強ければ下流国が不利、下流国が強ければ力で水を抑える構図となる。チグリス川とユーフラテス川をめぐるトルコに対するシリアとイラクの関係、ニジェール川をめぐるギニア、マリ、ベナン、ニジェール、ナイジェリアの微妙な関係など枚挙に暇はない。


<水と智>

 人の定住が始まって集落ができていった歴史をたどれば、水と農業こそが国の礎であることが理解できると思う。そして、国の礎である農業も経済の要である物流も、水を活かせば大いに活性化し、その結果、国が栄えることは歴史が証明するところである。

 徳川家康の水路掘削などによる「暴れ川」利根川の東遷(とうせんをはじめとする河川整備は、関東平野を不毛の湿地から豊かな農地に変え、また市内外に掘られた江戸の運河網は物流革命をもたらした。日本海側の廻船(かいせんがよく知られるが、太平洋岸でも、たとえば常陸国(ひたちのくにに陸揚げされた東北の物産は陸路鉾田(ほこたに運ばれ、北浦などから利根川を(さかのぼり隅田川に回って江戸に運ばれていた。鉾田には、平群(へぐり河岸など豪商の倉庫と河岸が造られて、大いに繁栄していた。

 水の知恵は公衆衛生でも発揮され、家康による神田上水と保科正之による玉川上水建設は、水道管ネットワークを持つ大都会江戸を実現した。水道橋、御茶ノ水などの地名が今に残っている。「上下水道」という観点から付言すれば、市内での排泄物専用の回収と汚穢(おわい船が関東平野の河川を遡って、田畑の肥料とするリサイクル・システムも世界に類を見ないものだった。

 船こそは汽車や自動車が発明されるまで物流の担い手であったし、運河は輸送網であり続けた。イギリスの産業革命は運河網の整備で石炭を大量輸送して大いに進み、フランス児童文学の名作『家なき子』のレミ少年は国中を運河で旅していた。今日でも、ヨーロッパ大陸の五大河川はすべて運河網でつながっていて、物流の重要な役割を果たしている。クロワッシー村でセーヌ川を見ていると、鉱物から自動車まで、さまざまな物資が(はしけで大量輸送されていた。トヨタが工場を造った北フランスのヴァレンシエンヌは、ヨーロッパ運河網のハブである。

 日本の水の智は、権力者ばかりが持っていたのではない。第二次大戦後に、貧困の地といわれた知多半島を豊かな地に変えたのは、世界銀行から融資を受けて木曽川から水を引こうという壮大な夢を持ち、そして実現したのは篤農家の久野庄太郎氏と安城農林学校教諭の浜島辰雄氏という市井のリーダーであった。北海道で石狩平野を泥炭帯から肥沃な農地に変えたのは、川の蛇行を直線に改めることで川底を削って流域の土地の水位を下げることに心血を注いだ技師たちの信念であったと教わった。

 途上国と長年かかわった者としての実感は、水こそは日本が世界に大きく貢献した分野だということである。多くの国の上下水道整備を通じた公衆衛生の改善、エジプトでダハブ(せきなどを改修して総延長312kmのハバル・ヨセフ灌漑用水路を(よみがえらせるなど農業用水の整備、スエズ運河拡張工事に代表される世界の流通革命の実現。アフリカの村には、実際に水があるか調査したうえで日本人が掘り、地元の主婦たちを信頼して維持管理を任せた結果、水が出続けている井戸がある。缶詰の空き缶一杯分の水を、村から学校までの道に植えた果樹に毎日注ぐことを子どもたちに教え、実った果樹を子どもたちに自由に持ち帰らせたことによって、緑化と土地改良に成功した青年海外協力隊員もいた。アパルトハイト時代に白人政府が水道すら引かなかった黒人居住区に、日本が作った水道から水が出たときの人々の歓喜の踊りも見た。

 Amanzi-ayimpilo‐Water is life-水は命、本当にそう思う。


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