『ODAの終焉
機能主義的開発援助の勧め The Face of ODA Tomorrow : End It or Mend It』 ODA(Official Development Assistance)とは、いったい何なのか―この根源的な問いかけに、答えたことがあるだろうか。政府開発援助と訳されるこのスキームの説明自体は、多くの文献を参考にでき、定義も明快であり、統計も整備されているので、それほど難しい作業ではない。大学で国際協力論の教壇に筆者が立つ際にも、ODAのスキームと実態、課題、展望などを丁寧に講義してきたつもりである。しかし、ODAとは何なのかを真に深く、根源的に考える必要に迫られたことはなかったかもしれない。本書はそのような筆者に、心地よい知的刺激を与え、深く考えさせる機会を与えてくれた。 ODAの終焉 現代のODAをテーマとした著作物が氾濫するなかで、本書のタイトルは直截にして刺激的である。出版社の事情と意向を多少、反映した結果かも知れない。このタイトルからは一見、ODAに対して批判的な、悲観と挑戦を綯い交ぜた内容が彷彿させられる。しかし、本書を読み進めればわかるが、これは単なるODA批判の著作ではなく、その原点からみたODAの現位置と運動ベクトル(速度と加速度)を詳らかにし、原点からの軌跡を辿ることによって、現在と未来のODAの存在意義を問うている。本書には英文タイトルがついているが、これを「ODAに明日はあるのか:終わるか出直すか」と読めば、「出直さざればODAに明日はない」が、著者の結論であることは容易に類推できよう。 本書はODAが非効率である、透明性が低い、真に必要とする層に行き渡っていないなど、巷で度々耳にする批判を列挙したものではない。これらの分り易い批判は、実は批判に見えて、ODAの存在意義自体は堅固に肯定している。こうした批判は、往々にしていわゆる援助ムラ社会の内部ではあるが、現場から離れた会議室などから発信され、その都度、改善のためのツールが提案され、ムラの流行となり、多くのエネルギーと金が注ぎ込まれてきた。そして、ゴールはこちらの方向だと手を変え、品を変えて、その針路とシナリオを描いて見せてきた。そのように、筆者は感じている。本書の著者が同じ思いを抱いているか否かは定かでないが、急速にグローバル化が進み、変化する現代社会のなかで、「そもそものODAの立ち位置と存在意義を問う」という、本書の問題意識の設定には大いに共感を覚える。 ODAの存在意義と使命 なぜならば、途上国に拠点を置いて、現場で日々汗を流している援助のプロたちには、自分たちの目で見、耳で聞き、直面している現実が全てである。そこには血の通う人間同士のぶつかり合いがあり、現実の限界を感じつつ、ときにはそれを乗り越える、そうした筋書きのないドラマの日々が続く。社会開発にせよ、経済復興にせよ、研究開発にせよ、あるいは地方の一村落のプロジェクトにせよ、巨大国家プロジェクトにせよ、現場には必ずそれを動かしている人々がいる。そして彼らは曲がりなりにも、同床異夢であろうとも、一つの目的へ向かって協力し合う。そこには資金(キャピタル)の動態という座標軸とともに、人と人とを結ぶ見えざる力の場(ソーシャル・キャピタル)を、車の両輪として捉えるべきである、と筆者は信じているからである。 開発援助に、恐らくゴールはないであろう。世の中に格差が存在する限り、広義の開発援助は途上国だけでなく、先進国の内部でも必要である。しかし、多かれ少なかれ社会経済活動が営まれ、そこで個性を発揮する人生が是とされる、人間という生き物の性が変わらない限り、格差が解消された社会の到来は永遠にないであろう。だから、ゴールなき道を走るODAという車に重要なのは、ゴールを目指した針路やシナリオの設定より、むしろ息切れすることなく疾走を続けることそのものである。その際に、両輪のバランスが崩れれば危うい。キャピタルとソーシャル・キャピタルという両輪のバランス、それを如何に高いレベルで持続するかにODAの意義があり、使命があると言ったら言い過ぎであろうか。 ODAの航跡と功績 ODAの原点・起源について著者は、開発経済学の教科書と踵を同じくし、アメリカのイニシアチブによるブレトン・ウッズ機関・世銀の借款とマーシャル・プランであるとしている。世銀借款のビジネスモデルは、加盟先進国の信用で発行債券にAAAの格付けを行い、長期の資金を優遇金利で途上国に貸し出し、低い資金調達コストで事業資金をプロジェクトの事業主体に供給して、資金回収を円滑に進めるというものである。マーシャル・プランはより譲許性の強い資金で、ヨーロッパの復興を後押しする北・北援助である。この原点から出発したODAは、その後、海図なき航海に乗り出し、その途上で同床異夢の数多くの船(OECD/DAC諸国、国連諸機関、国際NGOs)が合流し、拡大し、船団を組みつつ前進を続けている。 本書は、ときには上げ潮に乗り、ときには嵐の逆風に翻弄されながら、ODA船団が辿った現実の航跡を丁寧に追い、裏表の事情を絡めて解説している。たとえば、OECD/DAC(開発援助委員会)および第二世銀の設立による制度化、1970年代から80年代にかけての量的拡大、途上国側から見たODAの立ち位置、グローバリゼーション、開発プロジェクトアプローチから構造調整政策、経済開発援助からMDGs/SDGsへのパラダイムシフト、そうしたなかでの日本のODAの展開などである。往々にして、これらを網羅的に取り上げて膨大になりがちな項目の取捨選択に思い切ってメリハリをつけ、必要にして十分な知識と印象が植えつけられるよう工夫がされている。全編に9つあるボックスの解説も、これに一役買っているし、参考文献リストと索引はこれを十分に意識して作られている。その意味で、本書は、ODAを学び研究する者にとって効率的、効果的に参照できる第一級の教科書でもある。 混迷を深めるODAの再構築 しかし、本書の真骨頂は、後半の第5章以降の「迷走するODA」、「途上国の成長戦略とODAの役割」、そして終章の「ODAをどう再構築するか」にあると言える。当初は援助する側の先進国の論理と動機(世界経済の安定と発展、冷戦時の囲い込み、人道支援など)を推進力としていたODAは、経済のグローバル化の進展に伴い、徐々に被援助国側のそれ(輸入代替工業化→輸出志向工業化とそのための社会安定)による推進力を高めていった。グローバル化はODA以外の資金(海外直接投資、出稼ぎ海外送金など)の比重を高め、ついには逆転し、今ではこれらの資金の額がODAに大きく水をあけている。新興国からのODAも、無視できない規模に拡大した。そうしたなかで、ODAの先進国と途上国の関係は、イコール・パートナーシップと位置付けられるようになった。しかし著者は、ODAを通じた開発援助の主役はあくまでも途上国であり、援助側はそのサポート役に徹するべきと主張する。 イコール・パートナーシップ、あるいはMDGs、その後継としてのSDGsなど、援助ムラでは何の抵抗もなく受け入れられている理念やパラダイムに対して、著者は疑問を呈する。先進国(ドナー)と途上国がイコール・パートナーというのは確かに聞こえが良い。しかし、現場では実際に何が起こっているか。多くのドナーが、それぞれ得意の分野へ得意の資源を投入して、開発援助を行うことは歓迎すべきことである。しかし、それらが勝手にそれぞれの思惑で動くことにより、バラバラで自己満足的な案件が林立し、ときには重複して、途上国政府はそれらの一つ一つへの対応に莫大な人手や時間を費やさざるを得ないとしたら、本末転倒である。イコール・パートナーのかけ声の下で、途上国政府は疲弊する。 また、MDGsやSDGsのパラダイムは、政策を実施する裏付けとなる予算措置もなく、誰も責任を取らない、皆で渡れば怖くない、ただ目標だけが一人歩きしていると看破する。その目標をどうやって達成するのか、政策手段が示されていない。MDGs戦略策定のプロセスは、一見秩序だったスムーズな戦略策定、政策立案、資金調達に関するステイクホルダーの共同プロセスのように見える。しかし、途上国が実際にこのようなプロセスを実地に実行することは難しく、ほとんど不可能であり、最終的にはほとんど無意味なプロセスであると著者は批判する。環境問題一つをとっても、中国などの新興ドナーの出現が問題をさらに複雑にし、途上国が主役となるべき本来のODAの姿が遠のいている。 ODAの現代的意義 著者の姿勢は首尾一貫している。経済発展は「庶民の生活がよくなる」こと、「Growth with Equity」と言い換えてもいい、経済発展は不断の構造変化の過程で実現される、と「あとがき」で述べている。経済的不平等(あるいは格差)は、恐らく原始時代に農耕が始まり収穫物の蓄積が可能になったときに始まった問題である。人間が自然を克服して、豊かに生きていくためのツールとして、国家などの集団・権力の形成と支配、交易や商業が発展した。そして、居住地の環境条件や技術発展の偏在などにより、経済的不平等は継続し、極限まで拡大して、ついに未曽有のグローバリゼーションが進展する現代を迎えたのである。格差を抱えたまま、途上国の農村でもスマートフォンが生活の一部となり、情報が溢れる時代となった。人々の往来も格段に増えた。そのなかで、庶民の生活を良くするためにODAがすべきことは何か。
著者はODA不要論に近いが、反対論ではない。まだ有用性はある、ODAの相対的な重要性が減少した結果、ODAのアジェンダも必然的に変わるべき、としている。「国際コミュニティはいまだにODAが『途上国経済成長および貧困削減』劇の主役だという認識を改めない。確かに昔はそうだったが、今では脇役の一人だ。しかし脇役としてのセリフを考えないで、昔の主役としてのセリフをしゃべっている大根役者になっている。」そうした勘違いを議論したい、と著者は述べている。脇役ではあるが代役がいない役者となるために、ODAは両輪を大地にしっかりと根付かせて、走り続けねばならないのである。 *勁草書房刊 本体価格=3,200円 |