非識字農民にも農業知識を伝達する
─YMCモデルによる試み─
1.はじめに 20世紀、人類は食料の大増産に成功し、世紀後半だけでも、穀物生産は2〜3倍に増大した。その間、耕地面積の増加はわずかで、単収の飛躍的増大がそれを支えた。しかし、その増産は品種改良や灌漑の普及に加えて、化学肥料や農薬といった化学物質の大量投入に依存し、20世紀末期には農業による環境汚染、水の枯渇、温室効果ガスの大量排出といった、農業起源の負の部分も顕著になった。そのため、よりいっそう持続的な農業生産の重要性が高く認識されるようになっている。 ベトナムも例外ではなく、政府も適切な化学物質投入など持続的農業の実現を、その生産物の品質の向上による国際競争力の向上とともに、重要な政策目標としている。しかし、多くの農民は環境問題ばかりか、基本的な作物栽培技術に関する知識がないといえる状況で、過大な播種や肥料投入などが広く行われ、品質の改善も立ち後れている。とくに、農民の非識字は適切な情報伝達の大きな障害となっている。 本稿は、そのような背景のもとメコンデルタの非識字の水稲作農民を対象に、YMC(Youth Mediated Communication、後述)と呼ぶ知識伝達モデルを実践し、知識伝達について、その有効性を検証しようとした取組について報告するものである。なお、本取組は総務省、文部科学省、科学技術振興機構(JST)によるプロジェクトの支援を一部受けながら、日本側はNPOパンゲア*、京都大学、東京大学、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)、東京農業大学、ベトナム側は現地農民とその子供たち、農業農村開発省、ビンロン省農業農村開発部の連携で行われた。 2.対象地域 約1年の準備を経て、2010年末からベトナム・ビンロン省トラオン地区ティエンミー集落ならびに同省ビンミン地区ドンタン集落で実証試験を行った。どちらもメコンデルタ内の集落であるが、今回はトラオン地区での取組を中心に紹介する。ベトナム側の協力による個別農家インタビューなどを介して、実証試験に参加する29戸の水稲作農家を選定し、取組の目的などを十分に伝えたうえで開始した。対象集落農民の多くは、ポルポト時代にカンボジアから脱出した元難民ということもあり、選定農家の家族で読み書きに不自由のない者は10%程度で、多くは「全くできない」か、「多少はできる」という程度であった。一方、その子供たちは全員が学校教育を受けていて、読み書きに不自由はない。なお、子供たちの年齢は9〜14歳であった。 水稲の単収は1作当たり(当該地域では、通常2期作ないし3期作)、圃場収量(籾重)で4〜7トン/haで必ずしも低くはない。しかし、農民は播種量や施肥量が多いほど、籾収量も販売収益も増大すると信じているようで、窒素肥料の投入量は200kg/ha以上で、日本の2〜3倍に及んでいる。また、現在は人手不足ということもあって、育苗・田植えという移植栽培ではなく、主に直播されているが、使用される種子量は250〜300kg/haと極めて多く、籾1粒から稔る数が平均的に20〜30粒にしかならず、極めて効率が悪い(因みに、日本の水稲では1株の苗が生育とともに5本程に分蘖し、各およそ500粒を稔らせる)。病虫害に対する農薬の散布も盛んであるが、十分な知識がないままに行うため、効率が悪いばかりでなく、環境への影響も懸念されている。農薬の袋が、畦に無造作に破棄されていることも珍しくない。 3.YMCモデル YMCモデルは、京都にあるNPOパンゲアが提唱するもので、学校などで教育を受け、識字能力のある児童を介して、非識字であるその両親と専門家を結び付け、農業技術をはじめ高度な情報を正確に伝達し、発展途上国の農民などの農業技術や生活の改善を図ろうとするものである。同NPOはもともと、世界中の子供たちが言語の壁を乗り越えて交流できる仕組みの実践に長い経験があり、アナログとデジタルを巧みに融合させる技術に長けている。今回のベトナムにおけるYMCの実践も、その蓄積された経験が存分に活かされた。 図1 YMCモデルの概要(NPOパンゲア提供)
図1はYMCの概要図で、[1]学校教育を受けている子供が親の農民から、農業上の課題や問題点などを日常的に聞き取る、[2]週2回、ネット接続されたYMC専用パソコンが利用できる村の公民館を訪問し、親から聞き取った質問事項を遠隔地の専門家に送る(写真1)、[3]遠隔地の専門家は子供たちとやりとりして回答をする、[4]子供たちは専門家から得た回答を親に伝達する、という流れになっている。今回のプロジェクトの大きな特徴として、遠隔地の専門家は日本在住の日本人で、それぞれ母国語でやりとりする機能も付加した。 写真1 村の公民館でパソコンを使って、専門家と質問・回答をやりとりする子供たち
4.子供センサー 子供たちは単に非識字農民と農業専門家との双方向の情報伝達を仲介するばかりでなく、圃場センサーとしても機能する。対象とした集落には、気象観測点が全くなく、作物栽培上において、もっとも重要な情報の一つである気温データもない。当初、フィールドサーバなどのIoT(Internet of Things:モノのインターネット)機器の利用も考えたが、現地で維持管理できない可能性が高くて断念した。 写真2 子供センサーの道具一式 上段の左から(a)温湿度計 (b)記録ノート(敢えてパスポートと呼んでいる) (c)携帯電話 下段の左から(d)メジャー (e)簡易葉色板 (f)代用虫見板。それらと消せるボールペンをポーチ(右)に収納して携帯する
また、子供たちには週2回は親の水田に行って、[1]水稲の草丈を測定、[2]作物の窒素状態を判断するために簡易葉色板を使って葉色を判定、[3]カッター用のマットで代用した虫見板を水稲群落内で挿入して、揺らすことによって害虫などを板上に落下させ、何かいれば携帯カメラで撮影、[4]水田で通常と異なる発見があった場合は、携帯カメラで撮影する、という一連の作業を行ってもらう。 写真3は一連のデータ収集の様子である。道具一式の使い方について、初日のオリエンテーションで指導をするが、おおむね子供たちの飲み込みは早く、お互いに教え合うことも盛んに行っていた(写真4)。 写真3 子供たちが「センサー」として活躍。自宅で気温と湿度を測定し携帯で送信(左の上下)。4枚の組写真は左上から時計まわりに、①「草丈の測定」、②「虫見板での観察」、③「特異な状態があれば撮影」、④「葉色板で観察」
写真4 子供たち同士で携帯の使い方などを教え合う
5.YMCを支えるシステムの概要 上述のように子供たちは、非識字の農民である親から、稲作に関する質問を口頭で取材し、パスポートにメモする。そして、週2回程度、ネットに接続されたYMC用パソコンを設置した集落の公民館に行き、本プロジェクトで開発された質問回答システムのインタフェースを介して、メモを参考に親からの質問をオンラインで日本にいる専門家にベトナム語で送信する。その際、ファシリテータと呼ばれる現地スタッフから、パソコンや携帯電話の使い方について学習することや、「イネ・クイズ」という本プロジェクトのオリジナルの学習システムを使って、ゲーム感覚で稲作について自ら学ぶこともできる。 子供たちからの質問方法は、2種類ある。一つ目は予め用意した定型質問から選択する方法で、病害虫や肥料など子供たちが探しやすいようにジャンル別にリスト化してあって(定型質問)、そのなから選択して送信する方法である。二つ目は、質問を自由に入力して(自由質問)送信する方法である。定型質問に関して、日本側専門家は予め日本語化された同じ質問を受け取り、同様に予め用意された定型回答のリストから選択して回答を戻す。この際、質問と回答は必ずしも一対一ではなく、前後の質問などに応じて選択されるため、完全自動化はできていない。 なお、自由質問については、京都大学が運用する言語グリッド*を活用した機械翻訳システムによって、英語を介して日本語に変換される。日本側専門家は質問に対し、時に日本語による自由文を交えながら、定型回答で対応できればそれを選択することで回答する。自由文の回答は再び英語を介してベトナム語に変換され、子供たちから親に伝達される。質問と回答のステータスについては確認画面でいつでも確認できる(図2)。 図2 質問リストと回答ステータスの表示(日本語版)
現状では、できるだけ機械翻訳精度を上げるために、英語を介在させることや言語グリッドで用いる専門語辞書の充実などを行っているが、それでも翻訳の品質には限界がある。そのため、自由文でのやりとりについては、ブリッジャーと呼ばれる日本側、ベトナム側の担当者がクリーニング作業(翻訳精度を手動で向上させる操作)を行っている。質問・回答の流れを図3に示す。 図3 質問と回答画面の流れ(NPOパンゲア提供画像を元に作成)
なお、定型回答には農業技術や情報について、わかりやすいイラストで記されたレシピカード(図4)が両国語で用意され、日本側の専門家が回答の際に、適切なカードの色と番号を指定することによって、ベトナム側の子供はパソコンのある公民館から、そのカードを持ち帰って、親に提示できる。このレシピカードによって、親への情報伝達の精度を向上させている。 図4 ベトナム語版レシピカードの例。回答として適切なカードの色と番号で子供たちに指示をする。因みに、左はグリーンで番号は3、中はピンクで番号は2、右はパープルで番号は2(NPOパンゲア提供)
6.結果と考察 今回の取組については、十分なデータの蓄積がないために、定量的な評価は難しい状況であるが、現地農民の反応は上々で、事後のアンケートで「農業知識の伝達に役立つ」という農民の回答が48%、「やや役立つ」が48%、「どちらともいえない」が4%で、否定的な反応はなかった。また、寄せられる質問も、当初は病害虫や収穫に関するものが全体の65%と多かったが、2作期目には同じ傾向ながら、農薬や化学肥料に関する質問が14%から24%に増えるなど、環境意識の芽生えの傾向も示され、なかには減肥など栽培上の改善が実現した例もあった。さらに、子供たちと親の間の稲作に関するコミュニケーションが83%の家族で促進されたこと、86%の子供たちが農業に興味を持つようになり、将来は農業専門家になりたいという子供も現れるなど、当初には想定しなかった副次効果もあった。 子供センサーも、大いに期待できることがわかった。温度や湿度の計測について、子供によって計測時刻が異なるなどの課題はあるが、多くがおおむね正確に測定ができた。参加する多くの子供たちのデータを見ることによって、地域の気象データのある程度の傾向が把握できる意義は、近くに気象観測点が全くないこともあって非常に大きい。また、圃場での草丈の測定(図5)や葉色の観察も、子供によっては正確にできないことや、計測を忘れるような場合もあったが、半数以上の子供たちは十分に高い精度で計測できた。 図5 子供たちによる草丈の測定結果。成功している5例(上)と失敗している4例(下)
また、病害虫や異常な様子の撮影画像(写真5)も草丈や葉色と合わせて、専門家の農民へのアドバイスに極めて有効であった。今後、AI(Artificial Intelligence:人工知能)による画像判定を用いた回答の自動化や病害虫発生画像を地理情報システムに貼り付けることによって、早期警戒情報を提供することへの応用も期待できる。また、気象データや草丈データなどと組み合わせて、現地に適合した水稲生育モデルの開発も可能となれば、収穫適期や穂肥タイミングの指導に活かすことができるかもしれない。 写真5 子供たちが携帯電話で撮影した画像例
翻訳システムを介在して、日本側の専門家がアドバイザーとして参加したことも、今回の取組の特徴であるが、現状での翻訳品質は英語を中間言語として介在させても限界があった。そのため、ブリッジャーによる翻訳品質の改善という、非効率でコストのかかる方法を用意せざるを得なかった。ブリッジャーが必要なのは、専門語辞書が十分でないことに加え、ベトナムの子供たちに理解してもらうために、専門家による言葉や文脈を、わかりやすくする作業が不可欠なこともある。 因みに、英語を仲介させたのは翻訳品質を少しでも向上させることに加え、将来、ラオスやカンボジアなど周辺諸国にシステムを普及させることを想定したためで、現地語と英語間の専門語辞書さえ用意すれば、比較的簡単にシステムを応用できると考えたからである。どちらにしても、リアルタイムの翻訳が必要な自由文でのやりとりを減らすために、定型の質問と回答を豊富に用意することが一つの解決策となる。 子供たちのIT(Information Technology:情報技術)スキルの獲得には、目を見張るものがあった。それまで、全く経験の無かったPCや携帯電話を、非常にスムースに使いこなした。ベトナムでもITの農村普及は大きな課題となっているが、子供たちがその先兵となって普及に貢献できることが示された。 なお、今回の取組で最も大きな課題として残ったのは、このアプローチのスケーラビリティの問題で、とりわけブリッジャーの必要性は大きな課題である。また、集落内の選定した農家だけを対象として実施することにも限界があり、より公平な仕組みが必要である。さらに、子供たちが各家庭から巣立った後はどうするのかという課題もある。これらを解決するために、YMCの仕組みを学校教育の一環に取り込み、公的な知識伝達システムにできないかという提案もなされた。YMCモデルや子供センサーが、非識字農民への効果的な知識伝達に有効であることはわかったが、まだ解決すべき課題は多い。 |