『農業経済学(第4版)』
なぜ、教科書を取り上げるのか 本書は農業経済学の(おそらく大学学部生レベルの)教科書として執筆、出版されている。「はしがき」にも、「本書を理解するためには、何の予備知識もいらない。必要なのはただ、食料・農業・農村の経済的な面に関する興味だけである。」とある。 通常、教科書に求められるのは、取り扱う分野ですでに確立された知識や理論を網羅的に体系化し、学習者に解りやすい構成で提供することであろう。「教科書的」という言葉からは、緻密に分類され、体系化された諸理論が淡々と記述されているような印象を受けよう。しかし、本書は「学生のための教科書に留めておくには惜しい」といえるほどに、考えることの面白さを感じさせる。 初版刊行は約20年前の1997年の3月であるが、多くの読者を得て版を重ねて第4版となっている。農業経済学の「網羅的」な知識体系が、20年の間に大きく変わるはずはない。もちろん、データ(特に統計データ)更新は教科書を時流に遅れないものとするために必要である。加えて、この間にたとえば、旧農業基本法に替わる食料・農業・農村基本法の制定、一段と深刻化する農業の担い手の不足、円高やWTO交渉を中心とする日本農業を取り巻く国際環境の変化など、いわば日本の農業経済学の領域で、多くの変化が続いてきた。それらの事象を農業経済学というレンズを通すと、どのように見える(見えやすくなる)のかを本書で味わって頂きたい。 本書の特徴 「これだけ複雑かつ高度な内容の本質を損なうことなく平易に解説するのは尋常ではない、」というのが特徴といえるが、本書の内容を限られた紙幅で網羅することは評者の能力を超えている。そこで、ARDEC誌の読者がもっとも関心があるであろう「第10章 農業の近代化」を例として取り上げ、本書の説明に代える。 1)持続的成長への「離陸」 この10章では、W.W.ロストウに言及しながら、持続的成長への離陸(take-off into sustained growth)について説明している。離陸とは、慣習的世界から近代的世界へと変化すること、下表の左側から右側へと農業、ひいては社会が変革することである。
農業についていえば、慣習的農業から近代的農業へと変革することを指す。より具体的には、投入については、慣習的なもの(人力と天水)から近代的投入(肥料や灌漑用水)へと変化すること、また生産については、(自家)消費するための生産から販売するための生産へと、変化することであるという。 それでは、表の左側から右側へと移行する契機となるものは何か。本書は、それを貯蓄(Saving)=生産−消費であるとする。そして、その変革を引き起こすうえで決定的となったのが、「慣習的農業世界に外部から持ち込まれた新しい改良品種の種子(HYV)であった。」としている。 2)「緑の革命」 「緑の革命」は、国際とうもろこし・小麦改良センター(CIMMYT)で開発されたコムギ品種および国際稲研究所(IRRI)で開発された稲品種の導入を中心とした農業の生産性向上が、世界的に普及していった取組、並びにその結果引き起こされた社会的インパクトのことである。それらの開発品種群はHYV(High Yield Variety:高収量品種)と総称された*。その特徴としては、短稈であること(高収量でも倒伏しにくい)、肥料反応性が高いことが上げられる。そして普及させるためには、HYV種子が農家に普及するだけでは十分ではなく、肥料を十分に投入すること、短稈な草形にもかかわらず雑草に負けないために除草剤を施用することが必須となってくる。 さて、1)で、HYVが農業ひいては経済の離陸に大きな役割を果たしたと述べたが、それはどのようなメカニズムによってであろうか。本書では、それを「HYVの開発は、それ自体が一つの貯蓄誘因として作用する。」とし、その理由を「在来種とは違って、肥料を買うために消費を抑制して貯蓄すれば、収量は驚異的に高まるからである。在来品種しかない世界では貯蓄の報酬は小さいが、HYVが開発されたことによって貯蓄の報酬が一挙に高まったといってもよい。」としている。 3) HYVに加えて大事な要因 HYVが開発され、農家にそれを普及させるだけでは、農業の変革(先の表の左側から右側への移行)は起こらない。他に必須の要因として、以下の2点を挙げている。 1点目は、貯蓄が行われる前提条件としての教育の普及である。貯蓄の重要性を理解し実際に貯蓄を行うためには、国民が識字能力、四則演算能力、時間的視野をもつ必要があり、教育の普及には当該国政府の果たす役割がきわめて大きい。これを「慣習は政府を必要としていないが、教育と普及には政府の力が必要である。」と論じている。 2点目は、先進国からの援助である。HYVの開発自体も、ロックフェラー財団による成果が大きな役割を果たしたが、肥料の投入への助成などに対し先進国が支援した国で、「緑の革命」のインパクトが大きかったことが示される(フィリピンのマサガナ99計画、インドネシアのビマス計画)。 まとめると、HYVのような革新的技術を真に普及させるためには、普及に関連した多くの要因(農学に限らず、社会、経済も含めた)を同時に考察し、措置を講ずることが重要であるといえよう。近年、公的資金による研究については、「研究成果の最大化」「成果の社会実装」が強く求められるようになっている。普及を目指す新技術が革新的であればあるほど、普及にともなう社会への影響も甚大であることから、多くの要因を考慮すべきことが理解できる。 4)農業近代化をどう評価するか 本書では、経済が離陸したあと、農業が近代化したその成果を、次のように評価している。 「緑の革命は、慣習的農業を中心として停滞していた農業的世界の、それなりの安定と秩序を破壊する力を持っていたのである。(略)この破壊が、農業的世界全体を近代的成長に導く創造的破壊であるのか、あるいは混乱と対立を引き起こすだけに終わるのかについては、意見は必ずしも一致していない。」としている。つまり、農業の近代化を実現した「緑の革命」を手放しで称揚することはしていない。 また、以下の2点を農業近代化に伴って懸念すべき事項として挙げている。 1点目は「農業的世界の慣習を崩すことから出てきた社会的対立」である。先の表の左側から右側へと移行することにより、自給→商品生産→貨幣経済→流動性選好→強い利益追求誘因→分配をめぐる競争→優勝劣敗という経路によって、貧富の格差が拡大することが懸念される。剰余をめぐる競争は、市場経済を成長させるエンジンである。しかし、先進国では、市場経済にともなう不都合を修正するためのさまざまな社会装置(課税を通じた所得の再配分など)が長い年月をかけて確立されているが、慣習的農業から抜け出したばかりの国々では、それらの社会装置を欠いている。そのような社会で市場経済化を進めることは、メリットばかりではないことを指摘する。 2点目は、「農業的世界の生態系を崩すことから出てきた自然環境の破壊」である。この点については、その実態が、まだ十分には把握されていないとし、別の章(第11章:資源・環境と農業)を立てて論じている。 5)章末の課題の例 章末に課題が掲げてある。10章以外の手がかりとして数例を、以下に示す。 ①「食料価格の暴騰と暴落で誰がどう困るのかを具体的に考え、その上で暴騰対策と暴落対策ではどちらが大切か考えよ。」(第3章) ② 「家族農場の生活と会社勤務の生活について、自分の好みに基づき比較せよ。」(第5章) ③ 「農産物価格政策が、価格安定政策なのか価格支持政策なのかを見分けるには、どうしたらよいか考えよ。」(第6章) ④ 「多面的機能の具体的な内容が、公共財や外部効果とどう関連するか考えよ。」(第7章) ⑤ 「全世界のすべての人に穀物を同じ量だけ配分する具体的な方法を考えよ。」(第8章) ⑥ 「豊かな国では食料消費の多様化と簡便化とが進んでいる。なぜそうなるのか、原因を考えよ。」(第9章) ⑦ 「日本の農業では、化学肥料や農薬の1ヘクタールあたり使用量が非常に多い。それはなぜか考えよ。」(第11章) *岩波書店刊(本体価格) |