黄河断流の原因解析

総合地球環境学研究所 名誉教授 福嶌義宏

1.はじめに

 本文執筆に当たり、黄河断流の原因解析を試みた背景を述べる。乾燥地の大河川である黄河が1997年に1年間の2/3にもなる277日間も、河口への流出が止まったというニュースを聞き、当時のIGBP/BAHCの同僚の国際委員であった中国科学院地理科学研究所の劉昌明(リュウチャンミン)教授に連絡を取ったところ、すでに中国では、原因究明のために総合研究が開始されていることを聞いた。一方、私は、過去に汎用流出モデルの開発を済ませていた1)。また、名古屋大学の大学院生である馬燮銚(マシェイヤオ)2)が融雪や土壌凍結を含む熱収支を取り込んで、東シベリアの大河川、レナ川を対象に開発に成功していたので、これらの知見を集約することにより「黄河断流」の原因の解析も可能ではないかと考えた。

 ただし、河川流量の観測が正確に行われているという確認が必要であった。幸い、21世紀COE(卓越した研究拠点)プログラムの研究費補助金も得て、黄河研究班には本来の研究員以外にも、何名かの若手の研究員からも惜しみない協力と灌漑(かんがい)排水学の学友、渡邉紹裕氏の知識・経験と協力も得られたことに加えて、中国側が取得した黄河流域の水文・気象データを私たちの班も利用でき、その観測精度が予想外に高いことを現地調査で確認できた。

 これらの成果は『黄河断流』3)として出版した。今回、執筆を依頼された黄河の紹介文は短文であって、私たちの考えたことを述べるには、あまりに短いために、灌漑などの水利用に重点を置き要約したので、詳細を知りたい方は上記の書籍をお読み願いたい。


2.黄河の概況

 黄河は、中流域に、数十万年以上にわたって風送されてきた細粒の土壌が数十〜数百mの厚さに堆積する黄土高原が広がっている。この黄土が洪水のたびに下流に運ばれ、黄河は最下流では天井川となり、何度も堤防を破壊して洪水氾濫を繰り返してはその流路を変え、華北平原を形成してきた。水と土砂石の発生域で砂泥流出を減らす努力はなされているけれども、花園口(ワユエンカイ)より下流での河床の上昇傾向はいまなお続いている。

 黄河は流域面積75万km、主流の総延長5400kmで、中国では長江につぐ第二の大河川である。昔から洪水氾濫の絶えない暴れ川で、人々から竜と恐れられていた。竜と形容される、もう一つの理由はその流路の形態で、図1から読み取れるように、源流域であるチベット高原から蘭州(ランチョウ)に至るまでに川筋は大きく蛇行する。さらに蘭州から下流、潼関(トンコアン)に至るまでにも水筋をいったん北東に振り、黄河流域の一大乾燥地域である寧夏(ニンシィア)回族自治区内を過ぎて、内モンゴル自治区に入ると同時に東に向きを変え、呼和浩特(フーホハオト)の南西部で本流は南に流路を曲げ、陜西(シャンシー)省と山西(シャンシー)省の境界で一直線に黄土高原を切り裂き、急流となって潼関まで下る。そこで西安(シーアン)から流れ下る大支流、渭河(ウェイホ)と合流する。そして、三門(サンメイ)峡ダムのある狭窄部を通過して、華北平原に入る。

図1 黄河流域図
図1 土壌を中心とした炭素の循環


 黄河は通常、上流部、中流部、下流部に区分して議論されることが多い。上流部は源流域であるチベット高原の標高4000〜5000mから、黄河の内モンゴル末端である頭道拐(トオトーカイ)流量観測地点までをいう。中流部は、おもに陜西省と山西省が入り、1000〜2000mの黄土高原台地を雨水が浸食する地帯で、頭道拐から三門峡を経て華北平原の花園口までをいう。そこからは天井川となって華北平原を流れて渤海(ポーハイ)に達する。この地域が下流部と呼ばれる。この華北平原自体、黄河が削り運搬してきた土砂によってできた大扇状地といえる。現在の黄河下流の流路はわずか160年程前、1855年の清の時代に定められた河道である。それ以前には、北は天津から渤海へ、あるいは南の淮河(ホアイホ)に合流して、直接、黄海に出ていた時期もある。

 黄河では、花園口のすぐ南、鄭州(チョンチョウ)にある黄河水利委員会の水文局において、流域の水文・気象観測情報の集中化の基に河川管理がなされている。古くは1950年末から、新しい観測地点でも1960年から、信頼できる河川流量の記録が公開されているが、本解析では、そのなかから図1に矩形(◆)で示される6点の流量観測地点(主要水文観測所)を選び、「黄河断流」の原因解明のために、区間ごとに過去40〜50年間にどのような変化が起こったのかを調べることにした。断流が、どこで、なぜ起こったのかを知りたいからである。その6点とは、上流部では唐乃亥(タンナイハイ)、蘭州、頭道拐、中流部では三門峡、花園口、下流部では利津(リチン)である。

 土地被覆に関してはMODISという新しい衛星と各省で出版されている統計値によって、初めて緯度と経度にして0.1度(この値は中緯度にある黄河流域では約10km×10kmに相当)グリッドの実体に合った土地利用図が得られた。ただ、本図は2000年前後の土地利用図であり、1950年以後の中国の急激な経済成長や土地利用変化が、どのように進んできたかの経過がわからないので、過去のNOAA/AVHRRやLANDSAT衛星などを活用して、いずれも数十年間の土地利用変化を再現した4、5)


3.黄河の水利用の概況

 黄河の年流量は、人為的な取水がなければ580億t、生産土砂量は16億tと見積もられている。そのなかで、灌漑に利用されている水量は1997年レベルで約310億t(河川流量の53%)。大同(タートン)太原(タイユワン)青島(チンタオ)天津(テンシン)といった大都市への送水量は合わせて約100億t弱。太原は山西省の省都で汾河(フェンホ)流域に属し、そこへの送水量はいずれ黄河に戻ることになるが、ほかはすべて黄河流域には戻らない。工業用水などは全体的な集計が難しく、仮に数値として挙げられていても、都市用水との区分が難しい。

 結局、水消費量として勘定しなければならないのは灌漑用水と流域外への都市用水であろう。水力発電は利水としての価値は高いが、それは水循環としては遅延あるいは促進効果として作用するだけであり、水消費量とはあまり関係はない。貯水池の水面蒸発が重要という見方もあるかもしれないが、山間地帯で太陽光が遮られる時間帯も多い場合がほとんどで、通常は水収支に影響する度合いは低いと考えられる。

 流域内の、たとえば蘭州市や西安市などで使用される都市用水量も無視できないが、都市用水は結果として自然状態の土地蒸発量と比べて大きな差異はないであろうから、いずれは本流へ戻ってくる。注意すべきは量としての問題よりも、まだまだ低い下水処理率によって、水質汚染を助長させる重要な一因である点が問題であろう。

 本稿では、上に述べた53%の河川水を利用するとされる大規模灌漑農地の実態とその経年変化について記述する。ただ、小規模灌漑農地を含めると、いまなお黄河の灌漑農地が使用する水量は7〜8割程度に達すると考えられている。


4.黄河における灌漑小史

 黄河では秦王朝が成立する以前より、首都咸陽(シエンヤン)の北に、鄭国(チェングオ)(韓の水利技術者)が建設したといわれる灌漑水路「鄭国渠」が渭河の北にある゚河(チンホ)から 洛河(ルオホ)に繋がっていて、農業生産の安定化に大きく貢献していた。ただ、現在は新しい灌漑水路が渭河の北側に張り巡らされているので、どれが鄭国渠であるかを見出すことは簡単ではない。いまなお残っていて、技術者としての鄭国の仕事と明らかにされているのは、四川(スーチョワン)省の成都(チョンツー)の郊外を流れる長江の支流、岷江(ミンチアン)に構築された暴れ川の分流と土砂排土を目指した都江(トチアン)堰からの灌漑取水法である。また、寧夏回族自治区の銀川(インチョン)では、すでに唐の時代に灌漑水路が建設されている。規模を問わなければ、灌漑という基本技術は他地域をみても、文明の勃興とともに始まっていて、現代にも通じる技術である。

 寧夏回族自治区の灌漑地区である33万haの青銅(チントン)峡灌区、その北にあるのは三盛公(サンスンゴン)の頭首工から取水される河套(フートン)灌区という57.6万haの大灌漑区である。これは灌漑地の面積であって、実際の農地面積はこれよりはるかに大きい。

 その灌漑地の規模がいかに大きいかは、日本の鳥取県の面積が35万haであり、かつ2004年統計ではその耕地面積が3.6万haであることをみてもわかる。これだけの広大な地域であるから、灌漑地域のなかには町や工場も含まれている。

 大型灌区では主給水路という動脈から細分化された支線水路を経て、再び一つの排水路に戻る設計になっている。しかし、寧夏回族自治区では銀川は首府であり、人口の密集した町や工場で取水された河川水が利用されるために、農地で使った残りの水だけではなく、多様な用途に使われた廃水が最終的に主排水路に戻ることになる。規模の大きさのみならず、全体の管理の主体も灌区の水管理を役割とする技術者に実際的には委ねられる。また、黄河の下流部、大運河と交叉する地点の北側に、位山(ウエイシャン)灌区という31万haの大灌漑地が造成されている。

 青銅峡と河套の両灌区は、灌漑面積の約2倍にもなる灌漑区域面積を有している。この理由は、乾燥度が高いために表層に集積する塩類の除去に、数か月を要し、農地全域の半分程しか作付けできないことにある。しかし、位山灌区では両面積はほぼ合致している。

 青銅峡灌区では黄河から62億tの取水をして、35億tを戻すが、塩類収支が負の数値であるから、戻す水は塩類の洗い出しに使われた廃水であると解釈できる。水量としては差引の27億tが灌漑農地で消失した値である。一方では、その下流側にある河套は50億tの取水に対して、5億tの排出であるから、差引の45億tが灌漑で消失した水量である。

 

図2 黄河断流の時系列変化(利津水文観測所)
図2 黄河断流の時系列変化(利津水文観測所)

 少なくとも、青銅峡と河套およびその他、黄河上流の末端部で消失した水量は別途、区間流域の水収支から解析が可能である。下流域の位山灌区は天井川で、地表水と地下水の双方が灌漑に使われていて、黄河へ戻る排水路はない。灌漑地での消失量は上流域の二つの灌区の面積に比べれば少なく、わずか15.4億tである。黄河の河床面が位山灌漑地よりも高いから、この数値はほとんどが蒸発散に使われ、残る量があるとしても地下水として渤海の方に向かっているであろう。なお、位山灌漑面積は青銅峡灌漑面積にほぼ等しく、消失水量は青銅峡の27億tに比べて、15.4億tと半分程度であるから、この数値だけでも灌漑効率に場所ごとの相違があることがわかる。

 これらの各灌区面積の10年ごとの変化は中国側でもLi Huian 6)によって整理されていて、興味深い傾向が読み取れる。まず、上流部の灌漑面積はすでに1950年代に多くあったことがわかる。そして、中流部も同様ながら、増加傾向は50年代から80年代まで続くが、それ以降は拡大していない。いわば、頭打ちの傾向である。

 それに比べて、位山の位置する下流部では、1960年代までは灌漑農地は少ない状態で推移し、70年代から現在に至るまで増加の傾向が止まらない。中国では、すでに80年代に黄河の水量がどれだけ利用可能かの検討がなされて、農地拡大は下流側に集中させるという当局の方針が出ているという推測も可能であろう。そのような状況のなかで、1997年、年間で277日にも及ぶ「黄河断流」が発生したのである。

 


5.黄河断流の原因を探索する水文モデル

 水文モデルは筆者が開発したHYCYMODEL1)がデータの時間間隔に依存しないので最適と考える。蒸発や積雪・融雪は、東シベリア・レナ川解析の経験が生きている2)。問題は、灌漑もあるような半乾燥地表用のモデルである。

 熱収支を基本にしているかぎりは蒸発量を求めるだけでなく、融雪量推定にも応用が可能で、なおかつ地表面温度が関与するので、試行計算をすれば、地表面付近の空気を暖める顕熱量や地表面温度も求めることができる。地表面の熱収支を合理的に説明するためには、土壌水分による抑制効果の導入と植生の被覆効果をLAI(葉面積指数)の大小で判定し、指数が大きいほど蒸発散量は多くなると判定する方法で、実蒸発量を推測できるように工夫した7)。なお、これだけ広大な流域では流量流下の時間遅れも発生する。この点はレナ川と同じく、線形性を仮定し、0.6m/secの遅れとしたが、結果的に適切であったようだ。ダムの水文効果は上下流の流量を比較して、結局は平準化を目指していることが判明した8)。大型灌区への黄河から直接取水できる水量は前年に水文局で決められ、取水量は河川流量が割当量より少なければ、削減が求められる。


6.灌漑農地のモデル上の取り扱い

 灌漑農地には水田や畑地もある。また、年一作型から二作型まであり、一作型でも春コムギとトウモロコシの時間差を設けた混栽方式まである。毎年、週や月ごとに解像度の高い衛星データがあれば別であるが、現実には雲による判別不能時期も出てくる。本解析では大局的に40年間の流出量変化から、どのような灌漑や土地利用の変化が現れたのかを推測することを重視したので、MODIS衛星から解析された灌漑農地に対しては、一律に熱収支を満足するポテンシャル蒸発量を与えることにした。

 そのポテンシャル蒸発量は上記の枠組みをもった近藤・徐氏の方法9)で算定したもので、従来のペンマン式や国連食糧農業機関(FAO)10)方式に比べれば、算定されるポテンシャル値は従来の7〜8割程度に低下する。

 上記の方法で源流域から花園口までの5区間の40〜50年間について、再現性が調べられた11)。結果は驚くべきで、たった1区間を除いて、他の区間ではすべての流量変化と年水収支が再現されていた11)

 唯一、現在は合致しているが、1960〜80年に水収支が負となるのは頭道拐−三門峡間であった。現在でも良好とは決していえない黄土高原を含む、以前の記録は少ないが、73年発行の『人民中国』の黄河特集では、ほとんど裸地状であったことがわかる。水収支をみると、1960年当初の蒸発散損失は150億tである。続く1980年から2000年までは、おおむね水収支は計算値と合致している。

 以上の結果と図2の断流現象の時系列変化を比較すると、たいへんにわかりやすい結果が表れている。最悪の断流は1997年であったが、80年代から、すでに下流への流水が減じる結果が現れていた。これは黄土高原の支流で、ある程度の植林成功や谷間の土砂堆積区間に畑部分が増加した実態から、黄河への流出量が減少したと考えれば、説明可能である。

 別のいい方をすれば、黄河断流は下流域における灌漑で多量の流水を消費したから起こったのではないようだ。温暖化による影響を調べると降水量減少は1960〜2000年までで5%であり、気温上昇は1975〜2000年まで続いているが、この程度の変化は蒸発量増加に現れるとすれば全域に及ぶはずで、1区間だけ、水収支を大きく変化させてはいない。したがって、水文局が黄河断流は中流域における支流からの流入水量が80年代から著しく減少したことを、考慮しなかったからではないかと推測される。

 現在では、中国は食料輸入大国であり、無理な灌漑農業を続ける必要はなく、むしろ水質改善に努力すべき状況になっている。


<引用文献>

1)Y.Fukushima, A model of river flow forecasting for a small forested mountain catchment, Hydrological Processes. Vol.2-2, 1988.

2)Ma, X., Y. Fukushima, T. Hiyama, T. Hashimoto and T. Ohata, A macro-scale hydrological analysis of the Lena River basin. Hydrological Processes, Vol.14-3, 2000.

3)福嶌義宏、『黄河断流』、昭和堂、2008。

4)Matsuoka, M. , Y. Fukushima, T. Hayasaka, Y. Honda and T. Oki, "Estimation of the increase of agricultural area in Qingtongxia irrigation districts in Yellow River basin of China using AVHRR combined with ETM+", 2nd international symposium on recent advances in quantitative remote sensing, 2006.

5)Matsuoka, M. , T. Hayasaka, Y. Fukushima and Y. Honda, Land cover in East Asia classified using Terra MODIS and DMSP OLS products. International Journal of Remote Sensing, Vol.28-2, 2007.

6)Li Huian, Water use and water saving in Yellow River Irrigation Areas. Proc. 1st International Yellow River Forum on River Basin management. 2003.

7)Sato, Y., X. Ma, J. Xu, M. Matsuoka and Y. Fukushima: Impacts of human activity on long-term water balance in the middle-reaches of the Yellow River basin. IAHS Publ. 315, 2007.

8)Sato, Y., X. Ma, Y. Fukushima, Application of reservoir operation model to the upper reaches of the Yellow River basin. YRiS News Letter Vol.7, 2007.

9)近藤純正、徐健青:ポテンシャル蒸発量の定義と気候湿潤度、日本気象学会機関誌「天気」、44巻12号、1997。

10)例えば、http://www.fao.org/docrep/x0490e/x0490e00.htmが推奨されている。

11)Sato, Y., X. Ma, J. Xu, M. Matsuoka, H. Zheng, C. Liu and Y. Fukushima, Analysis of long-term water balance in the source area of the Yellow River basin. Hydrological Processes, Vol. 22-11, 2008.

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