マレー川水系の水資源管理

岩手大学農学部 准教授 木下幸雄

1.はじめに

 オーストラリアは乾燥大陸と呼ばれることから分かるように、水が稀少な資源である。それにも関わらず、灌漑(かんがい)農業の発展のために水資源開発が国を挙げて行われてきた。同国では、いわば水成熟経済時代の段階に至り、水資源の開発・利用をめぐって、農業と環境のバランスをいかに取るかが、国民的関心事となっている。そうしたなか、もっとも優れた水資源政策を実現している国の一つであると、国際的な評価も得ている。

 本稿では、同国において灌漑農業の中心エリアであるマレー川水系を対象に、水資源管理の基本的な枠組みを踏まえながら、水の市場取引や水利権の買い戻し事業など、特徴的な水資源管理政策について検討する。また、近年のミレニアム大渇水(今世紀初めの2002年から10年頃まで続いた渇水)によって、灌漑農業にどのような影響があったかを述べる。さらに、最新の水政策動向も紹介したい。


2.マレー川水系における水資源管理の概要

(1)マレー川水系

 マレー・ダーリング集水域(MDB:Murray-Darling Basin)は、国土の14%を占め、住民は約200万人に及ぶ。また、農業が盛んな地域であり、同国の農業生産額の約4割を占める。

 とくにMDBの南部域には、南東端側に位置する山地における降雨によって水資源が潤沢に存在する。MDB南部域の主要河川であるマレー川(NSW州とビクトリア州の境界をなし、サウス・オーストラリア州で河口に至る)、マランビジー川、オーヴンズ川、ゴールバーン川は年間を通して流水があり、また、これらは相互に繋がっている。

 マレー川水系管理の歴史を振り返ると、連邦政府によるさまざまな取組には限界があった。それは、オーストラリア憲法上、水資源管理は土地管理とともに、州政府レベルの専管事項と規定されているからである。そのため現在では、連邦政府と灌漑三州(NSW州、ビクトリア州、サウス・オーストラリア州)がMDB協定を結び、広域的に水資源を共有する管理制度が作られている。


(2)灌漑三州間の共有ルール

 灌漑三州間の河川水共有に関する基本ルールは、以下の通りである。

・アルベリー市(オーヴンズ川とキエワ川との合流地点)よりも上流区間の流入水ならびにメニンディー湖への流入水については、マレー・ダーリング庁(MDB庁:Murray-Darling Basin Authority)の管理下に置かれ、上流域に位置するNSW州とビクトリア州とで均等に共有する。

・上流域の二州はそれぞれ、サウス・オーストラリア州境よりも上流区間における貯水施設および河川における蒸発などの損失水量を、均等に引き受ける義務を有する。

・上流域の二州はそれぞれ、アルベリー市よりも下流区間における支流河川の流水を占有する(ただし、メニンディー湖に関する貯水管理は除く)。

・上流域の二州はそれぞれ、サウス・オーストラリア州境において同州の水利権量を折半して供給しなければならない。その水利権量は、同州における河川水の塩類化緩和のための希釈水量と河川における蒸発などの損失水量に相当する6億9600万m3を含めた年間18億5000万m3とする。

・サウス・オーストラリア州の水利権水量が完全には確保できないほどの渇水時には、上流域の二州が占有する支流河川流水を除いた利用可能な水資源について、貯水および送水で発生する損失水量分を満たしたうえで、その残りを均等に共有する。


(3)河川システムの運用原則

 マレー川ならびに主要河川水系の運用原則は、以下の通りである。

・ 河川水系における蒸発などの損失や漏水を最小限に留めることで、利用可能な水資源量を最大化する。

・ダム満水時は安全に放流しながら、下流域の洪水をできるだけ回避する。

・河川水系の複数地点において、要求されている流水量を確保する。

・環境用水を含む水供給サービスを享受する顧客の要望に応じた水供給を行う。

・送水能力、水質(たとえば塩類化)、河川や貯水施設のレクリエーション利用に対する影響を考慮する。

・水力発電に対して、契約を遵守した水供給を行う。

・河岸浸食をできるだけ弱めつつ公共の安全確保を図るため、流量の変化率を抑制する。

・環境保全のルールに従い、環境管理者の要望にできるだけ協力する。具体的には、小規模な人為的洪水、(せき)や水門周辺におけるさまざまな流水管理などがある。

 ただし、上記の運用原則が相互に矛盾する場合もある。たとえば、洪水回避の追求は、他方で、環境価値を損なうほどに洪水ピークを減じてしまうことがある。また、顧客サービス水準向上のために適時配水を優先すれば、送水で損失が発生し、達成すべき環境目的に反する事態が起こりかねない。したがって、現実には諸原則間でバランスの取れた河川システムの運用が求められる。


(4)用水の安定供給

 元来、オーストラリアの河川流水は、年間を通して、また、年によっても、変動が激しい特徴を有する。それに対して、水需要量には決まったパターンがある。都市・工業用水需要は気象条件によらず比較的安定している一方、灌漑用水需要は、豊水年か渇水年かによって大きく変動する。こうした水需給関係のもとで、確実な水供給システムを構築することは至難の業であろう。

 より安定した用水供給を図るために、以下のような河川運用方針を取っている。

・灌漑用水のうち、利水優先度の低い水利権(普通水利権)の供給は、利水優先度の高い水利権(安定水利権)の次年度供給水量を保全したうえで、利用可能な水量の限りにおいて行われる。

・灌漑用水(安定水利権)や環境用水の供給は、水利権水量を満たせるだけ行われる。また、都市・工業・家庭用水や家畜飲用水の供給も、利用可能な水量の限りにおいて、水利権水量を満たすよう行われる。

・水利権水量のうち未使用水量の次年度繰り越しを、ある程度は認める。


3.水利制度改革

(1)改革の背景

 1990年代に入ると、オーストラリアでは水利制度の改革が本格化した。その背景は二つある。一つは資源・環境問題の悪化である。たとえばマレー川水系では、水資源開発と利用が進むにつれ、塩類化、土壌流亡、富栄養化(アオコの過剰繁殖)、水質悪化、外来種など、水資源や生態系に影響する問題が生じてきた。

 もう一つの背景は、行財政改革の推進である。いわゆる「官」から「民」への流れのなかで、灌漑事業を含む水供給サービス事業も、公的部門から民間部門への移行が強く求められた。以下では、一連の水利制度改革のなかで、特徴的なものに触れておきたい。


(2)Cap政策

 水をめぐる資源・環境問題の重大な原因は、水資源と灌漑農業の開発の歴史のなかで、持続的利用の限界を超えて、水利権が過剰に許可されてしまった制度運用にあると考えられていた。そこで1997年には、この問題に取り組むため、河川取水に対する量的制限計画(Cap政策)がMDBにおいて導入された。

 具体的には、生態系とのバランスが取れた持続的な水利用の実現のために、1994年以前の過去6年間の平均年間取水量である108億m3を目安に、Cap政策導入以後は年間取水量の上限を110億m3にすると定めた。これは水利制度改革のなかでも、水資源の持続的な開発・利用を図る管理制度に向けた、最初の進展であったといえる。


(3)水の市場取引

 許可されている水利権にもかかわらず実際には十分に利用されていない、いわば「低利用水利権」や「休眠水利権」の存在が指摘されるなか、水資源の有効活用を促進する水利権制度の在り方が課題となってきた。そこで、水利権を土地と切り離して資産化し、市場で水を取引する仕組みが整備された。

 水取引の形態には二つある。一つは、水利権そのものの所有権を移転する「水利権売買(permanent water transfer)」である。もう一つは、水利権は移転しないまま当該年の水利用だけを譲る「水融通(temporary water transfer)」である。灌漑農場にとって、水の灌漑利用で得られる収益よりも取引益の方が高ければ、水取引の動機となる。

 マレー川水系において、水の市場取引は定着してきている。図1では、近年の市場取引水量をまとめた。およそ2000年代前半までは、水融通を中心に年間10億m3程度が取引され、水利権売買は薄い市場であった。ところが、07年以降、水利権売買が急増した。ミレニアム大渇水が灌漑農場の水利権売却の契機となり、大渇水によって悪化した農場経営の財務状態を水利権売却によって凌いだケースも少なくない。こうした理由に加え、後述するように政府による水利権買い戻し事業も水利権売買急増の要因となっている。

図1 マレー・ダーリング集水域南部における水市場取引の推移
図1 マレー・ダーリング集水域南部における水市場取引の推移
出所:National Water Commission, Australian water markets: trends and drivers 2007-08 to 2012-13より作成

 その後、水融通も増加傾向を見せ、大渇水が終結した2010年以降は急増している。


(4)水資源ガバナンス体制の中央集権化

 ミレニアム大渇水と容易に解決に至らない水利権過剰許可への対応策として、2007年、ハワード首相(当時)が、水安全保障国家10年計画(National Plan for Water Security)として、100億豪ドル規模の予算を提案した。これは、関係州政府に対して、水資源の監督権限を連邦政府に移管するよう求めるもので、その際、マレー・ダーリング集水域委員会を連邦政府の所管庁に格上げし、持続的な水利用に向けた管理権限が連邦政府に与えられるようにする機構改革を伴う内容であった。

 しかし、すべての州からは同意が得られず、連邦政府単独で管理できる体制を、法制化によって進めることとなった。2007年水法(Water Act 2007)を制定し、水資源管理を連邦政府が担うと規定したうえでMDB庁を設置した。同庁では、「新たな集水域計画(The Basin Plan)」を作成し、水資源担当大臣に提供することが、現在の最重要な業務となっている。なお、この「新たな集水域計画」については本稿の最後で言及する。


(5)水利権買い戻し事業

 2007/08水年度、環境用水の増加を図るため、政府が既得水利権を買い戻す事業(water buy-back scheme)に乗り出すことが社会的に注目された。入札など市場取引的手法によって、灌漑農場などから水利権を買い戻して、それを環境用水保有官(Commonwealth Environmental Water Holder)が環境用水として管理し、ある特定エリアの河川や湿地帯の水環境改善を図ろうとする仕組みである。

 実際に多様な政府、機関が事業主体となって、それぞれ類似した水利権買い戻し事業を展開している。たとえば、MDB庁が「マレー川環境用水買い上げ実験事業」として、2007年の買い戻し目標量に2000万m3を掲げた。連邦政府は、08年より「マレー・ダーリング集水域均衡回複プログラム」として、10年間にわたって31億豪ドルを予算計上している。また、NSW州政府は連邦政府と共同で、「河川環境回復プログラム」として、05/06水年度から6年間で1億7330万豪ドルの当初予算を計上した。前掲図1から分かるように、最近の水利権売買のうち、連邦政府による水利権買い戻し事業の存在感は高まり、とくに、09/10水年度は取引水量の4割近くにものぼり、水利権売買急増の一要因となった。


4.農業用水の動向

(1)農業水利権の特質と取水量

 MDBにおける水資源の主用途は灌漑用水である。代表的な灌漑作物は、酪農および牧草生産、綿花、稲作、麦類、果樹・ナッツ類などの園芸作物、野菜などである。

 先に述べた通り、州政府が水資源管理に対する権限を歴史的に有してきたため、州ごとに異なる水利制度が確立している。さらに、農業水利権の内容は異なる農業条件を反映している。NSW州では、牧草や一年生作物が主要な灌漑農業の形態であるので、普通水利権が多く見られる。ビクトリア州は、酪農や園芸作物が主要な灌漑農業の形態であるので、利水優先度の高い安定水利権が多く見られる。サウス・オーストラリア州では、園芸作物向け用水として、安定水利権しか設定されていない。

 いずれの農業水利権でも水利権水量が規定されているが、毎年、各州の水資源管理当局が季節的状況に応じて決定する水配分率(water allocation)によって、現実の取水可能量が左右される。とくに、普通水利権に基づく取水は水配分率によって大きく減じられる。

図2 マレー川水系における州別取水量の推移
図2	マレー川水系における州別取水量の推移
出所:Murray-Darling Basin Authority, Murray-Darling Basin annual report 2014-15より作成

 図2は、マレー川水系における過去20年間の州別取水量である。NSW州では、1996年頃から水配分率の低調傾向が続いたなか、2002/03水年度以降は恒常的に取水量も少なくなった。また、深刻な渇水によって水配分率が極端に低い年では取水量が半分以下にまで急減している。とくに、同州の普通水利権に対する水配分率は、06/07、07/08水年度と連続してゼロ%であった。さらに、先に述べた通り水の市場取引が活発化するなか、同州の灌漑農場では水利権の売却が進んだことも、最近の取水量減少の一要因となっている。

 対照的に、安定水利権を基盤とするサウス・オーストラリア州とビクトリア州の取水量は、2006/07水年度までは、安定的に推移してきた。しかし、07/08と08/09水年度は深刻な渇水が重なり、これらの州でも水配分率が50%を割ってしまい、取水量が落ち込んだ。これは、長年、永年生作物の栽培に依拠してきた灌漑農場にとっては強い衝撃となった。


(2)農業形態の変化

 こうした農業水利権の特質と渇水経験の影響を受け、最近、農業形態にも変化が見られる。表1は、直近10年において季節的状況が平均的な年(2005/06、13/14水年度)と深刻な渇水年(07/08水年度)の作物別灌漑用水量を示している。

表1 マレー・ダーリング集水域における作物別灌漑用水量(単位:100万m3
図1 インダス川流域
出所:Australian Bureau Statistics, Water Use on Australian Farmsの各年版より作成

 まず2007/08水年度を見ると、以前と比較して、一年生作物生産(稲作、綿花)が大幅に縮小していることが分かる。とくに、NSW州の水配分率がこの年はゼロ%であったことから、稲作は壊滅状態ともいえる。また、酪農放牧の牧草への灌漑用水も影響を受けている。

 次に、大渇水が終結して数年を経た2013/14水年度について、総灌漑用水量が同程度であった2005/06水年度と比較すると、作物別内訳に変化が生じていることが注目される。総じて一年生作物の用水量が大渇水時よりは回復したなか、綿花は以前よりも拡大しているものの、稲作ついては以前ほどは回復していない。これは、綿花の相場が堅調であることを背景に、稲作から綿花への作目転換が灌漑用水利用にも反映されたものと見られる。

 他方、永年生作物では、ブドウの灌漑用水利用が緩やかな縮小傾向であるのに対して、果樹・ナッツ類は拡大した。その背景には、ワイン原料用ブドウ生産が過剰となって価格が軟調であること、アーモンド、クルミ、ヘーゼルナッツの相場が堅調であることが挙げられる。このように、灌漑農業の形態には、国際的な農産物取引相場の影響とともに、利水優先度の差異や季節的状況といった灌漑用水をめぐる制度的・自然的条件も作用する。


5.新たな集水域計画

 水資源の過剰配分を是正し、水環境の改善を図るための政府を挙げての取組について、最新の動向は「新たな集水域計画」である。同計画はMDBの関係州・地域において、横断的な水利調整を強化するものである。環境・経済・社会の面でバランスの取れた水資源利用を実現することが基本目的とされ、また、たとえば気候変動といった水資源管理上のリスクとそのマネジメントにも言及している。同計画の枠組みは適応管理システムであり、開始年は2013年、計画期間は7年間となっている。

 とくに重要な点は、河川水に加え地下水に対しても、持続的取水制限を設けたことである。MDB庁が環境持続性の観点から、長期的平均取水量基準(Sustainable Diversions Limits)を、河川水に関しては年間108億7300万m3、地下水については年間33億2400万m3と定めた。計画の実効性を上げるために、長期的平均取水量基準の見直しを可能とする仕組みにもした。

 同計画の概略は以下に列記したが、取水量抑制を図るための具体的施策は主に、(1)連邦政府支援による灌漑インフラ更新事業、(2)環境用水回復に向けた水利権買い戻し事業、の二つとなっている。

・環境管理の全体的な目標と成果

・長期的平均取水量基準(河川水および地下水)

・長期的平均取水量基準の見直し方式

・制約構造物(たとえば橋、道路)や制約活動(たとえば航行、灌漑)の管理戦略:環境用水に対する阻害要因への対応

・環境用水計画:河川と湿地帯の保全と修復

・水質および塩類化管理計画:目標値の設定(たとえば、塩類の年間流出量)

・州水資源計画:2019年までに連邦政府の承認が必要

・人間の生存に必要な水需要の管理方式:地域における最低必需水量の確保

・水取引と水市場情報の利便性向上に資する制度の整備

・持続的な水資源利用をめぐるリスクの特定とリスクマネジメント

・監視および評価プログラム:集水域計画の実効性に関する年次報告など

 この「新たな集水域計画」は現在進行中の政策であり、その評価を与えるには時期尚早である。なお、2009年における河川取水量は136億2300万m3であった。したがって、基準を上回る27億5000万m3の河川水をいかに回復するかが数値目標となる。14年3月時点では、その数値目標の約7割が回復されたと報告されている。


6.おわりに

 このように同国の水資源管理政策は進化を続け、国際的な注目を浴びている。とはいえ、その水資源管理には課題も残る。たとえば、環境用水のために水利権が買い戻されたからといって、それ自体は環境の改善を意味しない。水環境の改善のためには、環境用水をいかに再配分・活用するかが決定的に重要であるが、そのための科学的知見が十分に蓄積されているとはいえない。灌漑インフラ更新事業による余剰水の創出も、同様の問題を抱えている。こうした課題とともに、今後の成果を注視しなければならない。


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