灌漑の国スリランカ

政策研究大学院大学  特任教授 粗 信仁

 スリランカは、インドの南東に浮かぶ北海道の約8割の面積の島国だが、古代からの伝統がある灌漑(かんがい)の国としても知られている。スリランカは、シンハラ語で「光り輝く島」という意味で、かつてはセイロンと呼ばれ、さらに古くは「セレンディップ」と呼ばれていた。思わぬものを偶然に発見する力という意味の英単語「セレンディピティ」もここから生まれている。まさに、南海に浮かぶ不思議に満ちた美しい国である。

 私個人にとっても、この国に昨年まで3年8か月にわたり、大使として在勤することができたのは、大変に幸せな経験であった。この稿では、私が在任中に見聞きした灌漑にまつわる話を中心に、スリランカの不思議な魅力を紹介したい。


 スリランカの魅力は、一つには気候の多様性から生まれている。島の中央部には標高1000m以上の中央高原が広がり、気温の変化に富んでいる。また、季節により南西モンスーンと北東モンスーンがあるため、島の南西部には年間降雨量が2000mm以上のウェットゾーンがあり、それ以外の国土の4分の3は雨期が1回だけのドライゾーンとなっている。この気候が歴史を作ってきた。


 スリランカの古代王朝は中北部のドライゾーンに生まれている。その繁栄を支えていたのが、大小のため池(タンク)を連結し高度に発達した灌漑ネットワークであった。紀元前5世紀に誕生したシンハラ王朝の最初の首都は、島の北西部にある聖都アヌラーダプラで、歴代の王が数多くの大規模なため池(ウェア)や導水路を造り、古代からの灌漑ネットワークは今でも地域の命綱となっている。また、昔から農村共同体が、この灌漑ネットワークの維持と水管理にあたっていたという。スリランカの人の穏やかさと、どこか日本人によく似たメンタリティーは、灌漑稲作を担う共同体の文化に由来しているようだ。

写真1 2012年2月、アヌラーダプラでのプロジェクト竣工式。
水路に花を献じる筆者と灌漑大臣
写真1	2012年2月、アヌラーダプラでのプロジェクト竣工式。水路に花を献じる筆者と灌漑大臣


 残念なことに、民族問題に端を発し2009年まで約30年続いた内戦中、多くの灌漑システムが放置・破壊され、機能しなくなっていた。今では完全に平和が戻り、灌漑システムの復旧も加速している。和平・民族融和を支援してきた日本政府も、平和構築を支える農業生産と村落共同体の再建のために、多くの経済協力を実施している。


 その代表的な例が円借款による農業経済開発復興事業(PEACE : Pro-poor Economic Advancement and Community Enhancement Project)である。内戦中の2003年に事業が始まり、2013年に事業が終了した。その間に、北西部のアヌラーダプラなど比較的落ち着いていた地域では、大中小98のため池と水路の改修を行い(対象耕作地約1万6000ha)、激戦地でタミル人帰還難民の多い北・東部州では、パイロット地区で10か所のため池と水路の改修(対象耕作地約6000ha)を行った。加えて、この事業では、水路の改修等に農民の参加を促し、農民組織の強化トレーニングや畜産・内水面漁業にまでわたる所得創出支援を行った。

 私自身、この事業のいくつかの完成式典に参加し、また、事業地を訪問して農民の声を聞く貴重な機会を得ることができた。今でも、その時の老若男女の高揚と目の輝きを忘れることができない。人々にとって、まさに水は命だった。

写真2 農村住民による水路のメンテナンス工事。楽しそうでした
写真2	農村住民による水路のメンテナンス工事。楽しそうでした


 今では、聖都アヌラーダプラとその後、東に遷都したポロンナルワ、中央山地中腹の古都キャンディはいずれも世界遺産に指定され、この3点を結ぶ地域は黄金の文化三角地帯と呼ばれ、多くの観光客を魅了している。なかでも人気のシーギリア遺跡は、父王を殺した愚昧な王が弟の復讐を恐れ切り立った岩塊の上に作った王宮跡だが、水にまつわる悲話がある。権力を父から奪った愚かな王は、父王が秘宝を隠したと信じ、そのありかを詰問した。そのとき父王は、自らが造った大きなため池湖のほとりに息子を連れて行き、湖の水を手で汲んで「これが自分の宝だ」と諭したが、逆上した息子に殺されたと伝えられている。


 歴史とロマンに満ちたスリランカの旅は、古来の灌漑文化を巡る旅でもある。より多くの人々がスリランカを訪れ、その魅力を発見されることを切望する次第である。

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