高橋正郎 著

『日本農業における企業者活動』
  ─ 東畑・金沢理論をふまえた農業経営学の展開 ─

なぜ本書をとりあげるのか

 本書はその書名から分かるように、ARDEC誌の読者の大多数の主な関心分野、すなわち途上国支援や技術協力、世界各地域における農業を含む社会経済の情勢といった分野を論じているものではない。純然たる日本農業を担い手、とくに企業的な農業経営体の勃興と現状を中心に論じた学術書である。それでは、なぜこの著作を本誌で取り上げるのか。それは、日本の農業(農業経営主体、農政、農業生産技術等をすべて含め)を理解するための枠組みを獲得することが、発展途上国への我が国の関わり、とくに農業セクターや食品関連産業のビジネス活動を考察するうえで、大きな示唆を与えると考えるからである。


著者経歴

 著者は、農業経済学を専門としてきた学者である。一口に農業経済学といっても、そのカバーする分野は多様である。著者は農業経済学を金沢夏樹教授に、そして経済学・経営史学を、アメリカのケーススタディを用いた経営史学の我が国における先駆者であった、中川敬一郎教授に師事した。著者ご本人の記述によれば、「農業経営理論、地域農業の組織化論、フードシステム論などとテーマを広げてはきたが、一貫して日本農業の発展を希求し、その研究、教育、社会活動に関与」(「はしがき」)してきた方である。


本書の概要:「主体―環境系」フレーム

 本書の概要をあえて1行で要約するとすれば、【農業における企業的経営を「主体−環境系」というフレームワークを用いて分析する】となろう。「主体−環境系」という分析フレームが、本書における論考の中心をなすものとなっていて、以下に評者なりの概要を記す。

 著者は、農業経営を論じる方法論として、社会科学一般の手法や東畑精一、金沢教授らの論考にも言及しつつ、主要な検討対象を「環境」と「主体」として抽出する。農業経営主体にとっての「環境」とは、経済的・社会的・法制上などのすべての農業経営上の与件といってよかろう。それに対して「主体」とは農業経営の判断を行う主体である。「環境」と「主体」との相互作用によって、農業経営による「成果」が生み出される。そして、農業経営を分析する立場として2つの立場、「経済学的接近」と「経営学的接近」があると述べる。

 「経済学的接近」においては、「主体」はホモエコノミクスとして、「環境」に対して常に同一の合理的対応をとると仮定する。そのために、独立変数すなわち操作可能であるのは「環境」である。そして、「主体」は不変要素(「環境」が決まれば自動的に経済合理的に反応するので)となる。したがって、政策的働きかけが可能なのは、「環境」に対してであり、農業政策担当者は「環境」への働きかけを通して、より望ましい経営成果を得ることをめざす。(原書P242の図11-2参照)


 そして、『現在、国や都道府県が行っている施策、すなわち、価格政策、金融政策、基盤整備や近代化施設に対する補助金対策などは、ことごとくこのようなフレームによって進められている。すなわち「農業経営主体」の行動を予測し、それを前提として、政策的に変えることができる「経営環境」に働きかけることを通じて「成果を上げようとするのである。』と述べる。(P243)

 対する「経営学的接近」においては、(以下、該当部を引用)『「環境」は「主体」にとってその総てを自由に、主体的に改変できるものではないが、そこには一定の自由選択の幅があり、「主体」が積極的に対応していくべき対象があると考える。理論フレームにこれを位置づけると、その「環境」は「不変要素」となり、その「環境」に対して「主体」のとる「行動」が、そこに自由裁量によって選択しうる幅があることから「可変要素」ということになる。そして、その「主体」のとる「行動」の如何によって「経営成果」が規定されるということになるのである。』(Web版編集注:原著者による傍点をWebサイトでは太字に変えた)としている。(原書P244の図11-3参照)

 そして、上述の2つの接近手法について、『農業経営研究の場合、なぜに今まで、その2つの流れのうち、経済学的接近の経営研究が主流を占め、経営学的接近の研究成果が蓄積されてこなかったのか。』と問うた上で、次のように答える。

 一つには『農業経営学の講義の聞き手が農業経営者ではなく、農政を担当する行政官や団体職員となるものであったため』であるとし、二つには『これまで我が国の農業構造が固定的で、個々の農業経営者にとって自由に意思決定できる幅が極めて狭く、経済学的接近の理論フレームで解説したように、「環境」のあり様がその「成果」をストレートに決定づけるという状況に個々の農業経営が置かれていたからである。』としている。

 そして、近年では、上記のうちの二つ目の条件である「環境」が、農業経営の自由度を大幅に拡大する方向に変化してきたと述べる。具体的には、『「土地・労働・資本」といった生産要素の流動化が大きく進展したことや、諸規制の緩和によって競争原理が積極的に導入されるようになったことなどから、個々の農業経営者にとっての新たなビジネスチャンスがそこに発生するようになった。』(P246)と述べる。「ビジネスチャンス」という極めて企業家的な用語が、日本の農業経営においても、漸く語られる段階になったといえよう。


「主体―環境系」スキームで技術協力プロジェクトを考える

 ケニアで実施された「小規模園芸農民組織強化計画プロジェクト:略称SHEP;Smallholder Horticulture Empowerment Project」をご存じだろうか。小規模園芸農家グループの組織強化を支援するプロジェクトであり、事例紹介のキャッチコピーが『「作って売る」から「売るために作る」へ』となっているように、市場における価格調査やマーケティング活動も、農家グループが行った。結果として、支援農家の収入が2倍となるなど、成功プロジェクトとなり、ケニア国内で継承プロジェクトが行われるのみならず、アフリカの他国への展開も行われている。

 SHEPプロジェクトが短期間に目に見える成果を上げた理由の一つは、プロジェクトが働きかける対象が、「環境」(農産物の市場価格、生産のための技術普及、農業資材の価格や供給、灌漑(かんがい)施設の整備など)ではなく、「主体」(小規模な園芸作物農家をグループ化したうえで支援)であったことが、一因であると考えることができるのではないか。

 SHEP以外のこれまでのプロジェクトが、日本国内の農業支援施策と同様に、経済学的接近によって、「環境」に働きかけるプロジェクトであるのに対し、SHEPプロジェクトは「主体」(この場合には農家グループ)に働きかける経営学的接近によるもの、とはいえないであろうか。収穫した作物の売価を農家グループが高くすることはできないが、市場動向を予想し高く売れそうな作物を栽培するという経営戦略があったからこそ、農業所得が短期間のうちに向上する結果に結びついたといえよう。評者は本書の「主体―環境系」スキームを読んで、「SHEPが、経営学的接近に当てはまるのではないか」と考えたとき、SHEPプロジェクトの持つ本質的かつ根源的な新規性が、理解できたように思う。

 経済学的接近に基づくプロジェクト、たとえば灌漑開発プロジェクトとして、灌漑施設の整備や維持管理、維持管理の主体となる農家による水利組合の育成・支援、国・地方公共団体の灌漑技術者の育成などを行う場合を考える。「主体」たる受益農家にとっては、灌漑プロジェクトは「環境」に対する支援である。このため、プロジェクト設計時に議論されるプロジェクトのアウトプットやアウトカム指標として農家の所得向上が選ばれることは少なく、アウトプット(例:ダムや用水路が整備される)やアウトカム(例:灌漑面積が増大する)が例示のように設定される。そのような経済学的接近プロジェクトでは、アウトカムが達成されたのちにはじめて農家所得が向上することになるので、所得向上が実現するまでの時間も、SHEPにみられるような経営学的接近プロジェクトよりも、長きを要するといえよう。灌漑プロジェクトのような経済学的接近プロジェクトにおいても、受益農家の経営改善により近い、経営学的接近に基づく活動を一つのコンポーネントとして入れ込むような工夫も、考えるべきではなかろうか。

国立研究開発法人 国際農林水産業研究センター(JIRCAS)
農村開発領域 領域長 藤原信好

*農林統計出版刊 本体価格=4200円

前のページに戻る