インドを緑に変えた偉人
─ Green Father 杉山龍丸伝 ─
1.「生まれ」そして「インドとの関わり」 早稲田大学図書館には杉山龍丸の祖父・杉山茂丸が大隈重信に宛てた書翰(しょかん)が17通遺されています。そのなかの大正7年(1918年)の書翰には、インドの惨状を憂える文面(写真1)とともに、5枚の写真が添えられています(そのうちの1枚が写真2)1)。 写真1 書翰の最後の部分
写真2 瀕死の婦人
その翌年の大正8年5月26日に、杉山龍丸は福岡で生まれました。 祖父の茂丸は日露戦争の舞台裏から頭角を現し、明治大正期の国家の重鎮たちと共に国政に関わった人間です2-4)。25歳の時に香港に渡り、イギリス人居住区の入口にあった「犬と中国人は入るべからず」という看板を見て驚き、欧米列強がアジア各国で行っている植民地運営の悲惨な姿を実感して帰国。それからの人生を「日本が独立を守るには、どうしたらいいか?」という想いを持って、過ごしたと伝えられています。 そんな杉山茂丸とインドとの関わりは、大正3年(1914年)に起こったインドの独立の運動家ラース・ビハリ・ボース(1886年〜1945年)を、日本政府が国外追放にした事件に始まります。 ボースはインド総督暗殺未遂事件などを起こして日本に亡命してきていた人物5)で、辛亥革命を主導した中国の国父・孫文らと日本国内で交流がありました。実は、当時の日本には「植民地からの独立」を夢見て活動し国を追われた人々が、アジア各国から多数亡命してきていました。それは、アジアのなかでそのような人々を受け入れることができる独立国が、日本しかなかったからです6)。 当時の日本は日露戦争の関係もあって、イギリスとの間に日英同盟を締結していました。そのため、イギリスからの要請によって日本政府はボースを国外追放にします。そこで、ボースを救うために活動したのが、孫文やボースたちを支援していた犬養毅(のちの総理大臣)や頭山満(とうやま みつる)(玄洋社)たちでした。実は杉山茂丸はその人々とも交流があり、アジアの独立運動家を支援していた仲間の一人でした7)。 孫文を支援したことで有名な梅屋庄吉のお孫さんが書かれた『革命をプロデュースした日本人』8)には孫文の結婚式に出席した日本人の名前が書かれていて、そこに杉山茂丸の名前を見ることができます。 その後、ボースは日本に帰化し、中村屋の娘と結婚します。そして、中村屋に日本で最初のインドカリーのレシピを伝えます。ボースは、日本でインド独立の支援を続けますが、愛する故国の土を踏むことなく、インド独立が間近に迫った1945年に亡くなります。今でも、東京新宿の中村屋ではこのレシピのカリーを食べることができます。杉山龍丸は「ボースに小さい頃に会って、『インドという素晴らしい国があるから、大きくなったら行ってごらん』といわれたという記憶を心に秘めてインドに来た」と、ガンジーの直弟子たちに語ったそうです。 写真3 ボースを乗せた杉山茂丸の車(『父ボース』9)より)
2.杉山農園 杉山龍丸が育ったのは「杉山農園」です。これは、杉山龍丸の父・夢野久作(作家・代表作『ドグラ・マグラ』は日本三大奇書の一つ)が、杉山茂丸から資金を渡されて、大正の初頭に造った農園でした。茂丸は農商務大臣であった同郷の金子堅太郎と意気投合し、殖産興業のための銀行として日本興業銀行設立のために奔走し、アメリカに渡って当時の世界の金融王J・P・モルガンと交渉を行いました10)。その時に、作家・星新一の父とも知り合っています11)。また、茂丸は農業や植林に対する想いも持っており、台湾でのサトウキビ栽培と製糖業の振興や蓬莱米(ほうらいまい)の開発や満州の植林にも、関係したといわれています。夢野久作に対して、「アジアの各国が独立した時に、農業指導者が必要になる。その農業指導者を育てるために、農園を造れ」と命じ、久作は現福岡市東区唐原に4万6000坪に及ぶ広大な農園を造りました(写真4)。 写真4 杉山農園(『夢野久作の日記』12)より)
夢野久作は、龍丸を農園で育てながら、杉山家に伝わるいくつもの話を伝えています。 龍丸は『わが父・夢野久作』13)のなかで、そのことについて、たとえば次のように四書中の『大學』經一章の冒頭「大學之道、在明明徳、在親民、在止於至善」の解釈について記述しています。 ──『大学』の第一章の文で、「在親民」を、「民に親しむに在り」とか、「民を新〔アラタ〕にするにあり」と、読みます。(中略)私が学校で教わった通り、読んでいましたら、突然書斎から飛び出して来た夢野久作にブンなぐられて、「馬鹿っ! そんな読みかたをする奴があるかっ!」 その他にも、「国の基礎は農業である」「世界の人々の平安な暮らしを望む大きな穏やかな心こそが大和心である」というようなことを教えられています。 3.孤独 昭和10年(1935年)7月、龍丸の祖父・杉山茂丸が、さらに、昭和11年には父・夢野久作が亡くなります。龍丸は、三人兄弟の長男として一家を背負う立場になります。そして、彼に遺された祖父と父からの言葉は「杉山農園の土地は私物化せず、当初の目的通りアジアのために使え」というものでした。そこで、龍丸は、給料がもらえる士官学校へと進学します。 士官学校卒業後、龍丸は指示により航空技術学校へ進学します。航空技術学校は、航空整備将校を育てるための学校で、龍丸は第1期生でした。航空技術学校を卒業した龍丸は、満州に赴任します。そこで待ち構えていたのは、突然エンジンが止まって墜落する飛行機です。龍丸は孤独のなかで苦悩します。第1期生なので、相談する先輩はいません。寝る時間を惜しんで解決方法を探し、戦闘機の設計者にも直接手紙を出して指導を仰ぎました。ゼロ戦の設計者の堀越二郎さんとは、生涯の友人となりました。 その後、部隊はフィリピンへ移動します。龍丸は、魚雷攻撃を受けた際に乗船位置(上甲板に近い位置に乗船すること)が部隊の生死を分けるかも知れないと考え、慣例を破り部下と共に船でフィリピンに向かいます。平時の定員の二倍に改装された船には、およそ4000名の兵士が乗っていました。36隻の船団はフィリピンを目前に、アメリカ軍潜水艦の攻撃を受け28隻が撃沈されます。龍丸が乗っていた船も明け方に撃沈され、南国の照りつける太陽の下14時間漂流し救助されますが、部隊の三分の一の方が戦死しました。 フィリピンに上陸後、部隊を立て直しフィリピン中部のネグロス島・ファブリカ基地へ部隊は移動します>15)。龍丸の部隊は陸軍で最初に特攻機を出した基地となり、レイテ戦にも参加。工夫しながら最後まで戦闘機を飛ばし続けた龍丸は、ボルネオに脱出し、そこで、アメリカ軍の機銃掃射を受け片肺貫通の重傷を負い、神経痛に生涯悩まされる体になってしまいます。龍丸は「トップに立つ人間は孤独なのだ」とよくいっていましたが、そのなかでも、戦後、「戦死した自分の部下の家を一軒一軒回って、遺品を届けて亡くなった状況を伝える旅ほど辛いことはなかった」という言葉が心に遺っています。 4.インド青年との出会い 昭和29年(1954年)、上京してプラスチック関係の仕事を始めていた龍丸は、東京駅でインド人の青年を連れた士官学校の同期生と出会い、インド人青年の世話を押し付けられてしまいます16)。それをきっかけにしてインドからの留学生が龍丸を訪ねてくるようになり、何人目かの留学生にミルミラー(S.K.Mirmira)さんという方がいました。この方はガンジー翁の直弟子で、ガンジー翁から「日本で、古来から庶民の間に伝わる陶器の技術を学んできなさい。近代的なものは、今のインドでは役に立ちません」との教えを受けて来日していました。龍丸は彼の真摯(しんし)な態度に動かされて、陶芸家の世話をします。このことがきっかけとなって、ガンジー翁の直弟子たちとのお付き合いが始まり、龍丸はインドにのめりこんでいくことになります。 昭和30年(1955年)、結婚したばかりの龍丸は福岡に帰り、国際文化福祉協会を設立し、本格的にインドの支援に取り組み始めます。それは、インドのネルー首相から「産業技術の指導支援の依頼」があり、これを受けたものでした。しかし、当時は日本自体がまだまだ貧しく、龍丸の行動は当時の人々からは、なかなか理解してもらえませんでした。 写真5 『印度をあるいて』
5.初めてのインド 龍丸は、ネルー首相からの親書を受け取り、昭和37年(1962年)、43歳で初めてインドに向かいます。実は、3年前からパスポートを申請していましたが、「ボースの逃亡を手伝った杉山茂丸の孫」ということが問題になり、3年間に及ぶ調査を受けて、やっと発行されたパスポートでした。 ──ふと気づくと、ネール(原文ママ)首相が私の眼の前にたっておられる。はっとして、合掌したまま、頭を少しまえにかしげて、静かに目礼をした。ネール首相は、私の眼をみつめたまま、やおら両手をあげて、合掌をしている私の手を、しずかに、柔く外から両手で挟んで、深く深く頭を垂れられた。私の足許から頭の中まで、何とも言えないものが貫いた。(中略)私は、ネール首相の千万無量の思いを受けた心地がした。 龍丸はインドで大歓迎を受け、インドの聖人ヴィノバ翁と約1か月の旅をします。ガンジーの教えを広めるブータン運動です。ある村の小学校で、子供たちが椅子に座り、土が入った箱を膝の上に置いて、箱の中の土に文字を書いて勉強をしている姿を見た龍丸は「日本に残してきた私の子供は、なんと贅沢な環境で勉強していることか」と書き遺しています。この言葉に、現地の人々の立場に立った龍丸の姿勢が凝縮しています。 別の村で、龍丸は村人にわらじを作ってみせたところ、そこの村長から、作り方を教えて欲しいと懇願されます。龍丸は、驚きと共に、日本で庶民の間に伝わる技術がインドの人々の役に立つということを実感しました。 そのなかで、インドは地下水位が低いこと、および土壌に有機物が少ないことに気づき、それが、レンガを焼くために森林を伐採した結果であることを確信します。そして、「世界中で、古代文明があったところは砂漠になっている。これは、森林(自然)と共存できない文明は滅ぶということだ」という結論に達し、インドの仲間たちに樹を植えることを提案し実践しました。 また、次のようなメッセージを残しています。 (1) 食物を自給できない国は滅ぶ。 (2) 化石燃料を消費するばかりでなく、 エネルギーが循環する新しい仕組みを作らないと、人類は滅ぶ。 (3) 西洋の科学では、植物があると蒸発+蒸散があるので木があった方が人間が使える水が少なくなるとなっているが、日本には古来から「木が水を作り出す」という考え方がある。この考えを広めていかなければならない。 昭和59年(1984年)、龍丸65歳の時に、第二回国際牧野会議(オーストラリア、アデレード大学)に参加し、「私たち人類は、近代文明を作り、自然を克服したと考えている。しかし、ほんとうに自然を克服したのであろうか? そこに、砂漠化の問題があるように思う。この砂漠の緑化の問題は、自然の中に一本、樹を植えることに始まる。誰でもできるし、具体化できることである。人間は、食料、酸素、水が無ければ生きられない。それらは、樹、植物によって培養され、作られている。自然の恵みに応ずることを忘れて、人間として生きられるのであろうか?」と前置きし、その成果を発表しました18)。 6.靖献遺言(せいけんいごん) 靖献遺言とは杉山家に伝わる言葉です。本来の意味とは少し違いますが、杉山家の解釈では、「正しいと思うことで、公の為になることであれば、自分の立場を顧みず直言しなさい」です。 昭和41年(1966年)、インドでは飢饉が起こり、多くの人々が餓死していました。龍丸は現地へ向かいましたが、手の施しようがありません。そして、インド政府の対応は緩いものだったようです。それは、亡くなっている方の多くがカーストの最下層の人々、または戸籍がない人々であったからではないかと推察します。この状況を見るに見かねた龍丸は、ニューヨークの国連本部に向かいます。インドを救ってくれるように、直訴するためです。 国連に行き、いくつもの部署を回りますが対応してもらえません。その状況を見ていたオーストラリア人の理事が、龍丸に声をかけて話を聞いてくれたそうです。理事は、こう龍丸にいいました。「国連は国が集まってできた機関である以上、当事国が飢饉(ききん)状況にあることを認めないのであれば何もできない。だからこそ、あなたのような人物の活動が必要ではないか」と。父が書き遺したノートに「この理事は本当のことを言っていると私も思う。これが現実の世の姿であろう。悲しいことである。非常に悲しいことである。私の全身は火のように悲しみに、憤りに包まれて地域開発のセクションをあとにした。(中略)非常に孤独である。どうしようもない悲しみである。胸が張り裂けそうな気がする。もう涙がこぼれそうな気がする」と書き残しています。 昭和42年(1967年)、48歳になった龍丸は、孫文生誕百年祭で、蒋介石総統から国賓として台湾に招かれます。その際に、あらゆる機会を通じてインドの窮状を訴え、台湾と同じ緯度にあるパンジャブ州に台湾の蓬莱米の種籾(たねもみ)を分けてくれるように懇願します。 「蓬莱米の種を国民党のみの独占とするならば、先輩志士たちが乏しい費用をすべて孫文先生に託し、アジア独立の為に行った運動の目的そのものが失われることになる」と。その結果、龍丸は6年間の台湾追放となりますが、翌年、その台湾政府から国連食糧農業機関(FAO)を通じて、インドに蓬莱米の種籾が贈られます。インドを訪れた龍丸の目に、栽培に成功した蓬莱米の稲穂が飛び込んできました。この時に龍丸は、「男の生きがいとはこういう事を言うんだ。インドの大地にキスしたい気分だ」という言葉を遺しています。 7.龍丸が遺したもの……そして未来へ (1)国道1号線のユーカリ並木 龍丸の提案によってニューデリーから北へ向かう国道1号線の両側に、470kmに及ぶユーカリ並木があります。ギネス記録の並木は日光の杉並木38kmですが、その何倍もの並木がインドにはあるのです。現在、パンジャブ州ルディアナ一帯はインド有数のビジネス先進地帯として注目を集めていますが19)、その背景には1960年代以来、急成長した豊かな農業生産によって治安が安定したことが挙げられます。現地によれば、並木ができる前は、作物がこんなに育つ土地ではなかったそうです。現在、並木によって地下水位が上昇したことの科学的検証を、九州大学農学部の福田哲郎准教授が始められています。 写真6 470kmに及ぶユーカリ並木
(2)シュワリク丘陵 インド西北部にある2400kmにも及ぶシュワリク丘陵は、雨期になると土砂崩れが頻発する危険な場所でした。龍丸は現地に何度も足を運び、サダバルという植物とモリンガという木を用いることを提案します。サダバルは、現地では刺があり家畜が嫌がって食べない植物で、「役立たずの木」として嫌われていました。しかし、サダバルは生命力が強く、小さく切って、渓谷に投げ込んでいると自然に芽を出し繁殖し、土砂崩れを止めました。モリンガは葉も実も食用になり、木部はパルプの材料になります。この木は、不可触選民の方の提案を採用したものでした。現在、モリンガは栄養分が豊富な「奇跡の木」といわれ、アメリカでは人気サプリメントとなっています。 写真7 シュワリク丘陵>
(3)シートパイプ 乾燥地に灌漑(かんがい)した時に生じる塩分集積を除去する方法として、龍丸が英文のパンフレットを作って推奨していました。 1981年、ペルーで塩分集積によって作物ができなくなった農地の除塩に成功したという記録が残っています20-22)。耐用年数が長く、土壌中に空気を流通させるという特徴があることから、栽培や作物の研究者から推奨され、国内でも農林水産省の新技術として大分県や山口県などで県営事業に本暗渠として採用されています。現在、農林水産省の官民連携新技術研究開発事業を利用して、九州大学と技術を継承する西日本圃場(ほじょう)改良株式会社などによって、地下灌漑への応用技術、酸性硫酸塩土壌への応用技術の開発が進められています。 なお、杉山龍丸の残した砂漠緑化の資料はホームページ「谷底ライオン」の『杉山龍丸氏関連文書アーカイブ』で読むことができます。シートパイプの映像は、YouTubeの杉山満丸で視聴することができます。 |