無料食堂試論
1.思考の風景 縁あって、ここ数年、さまざまな地域で聞き取り調査をする機会に恵まれている。おかげで、研究室の外で考える時間が格段に増えた。歩いて考えて話して食べることの快楽の循環から、いまはもう抜け出せなくなっている。それはいまや中毒に等しい。呼吸をして、汗をかき、地元の旬の野菜を食べ、地酒を呑むと、体中の細胞が活性化し、それがカフェインとは異なる何らかの分泌物を脳髄に加える。考えたことを呼び覚ますときには、パソコンのフォルダを探すのではなく、そのとき歩いた風景を思い起こせばよい。思考は、紙に鉛筆で書いたり、パソコンに入力したりするよりも立体的に脳髄に刻まれる。これを仮に「思考の風景化」、頭に刻まれた風景を「思考風景」と名づけておきたい。 たとえば、ナチスの動員力の秘密がヒトラーというカリスマだけではなく、ヒトラーの演説を聞きにはるばる半日歩いてやってきた個人個人の達成感にあるのでは、というアイディアは、ドイツ北西部の真っ平らな麦畑の風景を見ながら10キロほど歩いて向かった野外博物館への道、とくに、小さな農家の堆肥小屋のそばを流れる小川と結びついている。ナチスは、同じ州で催した収穫感謝祭で100万人の民衆を集め、農民のための国を作ると豪語したのであるが、参加者たちの手記を見ると、到着時にはすでに疲労が頂点に達し、ヒトラーが来るのを待ちくたびれたと書いてあったからである。日曜日は、駅から野外博物館へのバスがないことを知ってしかたがなく歩いたのだが、そのおかげで過去をめぐる思考は私自身の疲労が頂点に達した小さな農家に集約されたわけである。 とはいえ、私はどちらかというと野外活動派というより室内隠遁(いんとん)派であり、これまでのアイディアと結びつく記憶の像は、本棚に飾ってある背表紙であったり、コーヒーのシミのついたレジュメであったり、子どもが観ていたアニメの主題歌だったりに結びつくことが多かった。現地を歩かないと物事は分からないというフィールドワーカーやアクティヴィストたちの口癖を聞くと、いやいや想像力はフィールドワークに拮抗するのだと見栄を張っていたし、実はいまもそうかもしれない。しかし一方で、私はいつも筋金入りのフィールドワーカーたちの書物に惹かれ、いつのまにか現場に引きずり込まれていた。しかも、そのフィールドワーカーたちは私よりもよっぽど読書家であることに気づき、ひたすら落ち込むことも日常茶飯事であった。 思考を風景化するという手法は、畏敬すべきフィールドワーカーたちのモノマネなのだが、脳内神経細胞の情報処理スピードが遅い私には、ひとつの自己防衛手段に成り下がっている。私の頭は許容量以上の情報を入れようとすると、ミシミシと板の軋む音がするが、こんな前近代的な容器であるため電子メールを打つよりも手紙を書いたほうが早いことも多く、そもそも考えるのが面倒くさくなってチョコレートをかじる頻度が多い。だから、風景という記憶容器に頼る頻度が高いのかもしれない。けれども、多かれ少なかれ、誰もがこの思考の風景化の経験があるのではないかと自分をなぐさめている。 2.ムラサキシキブの食堂にて 地球という惑星に生存するヒトという生物の七分の一の個体が飢えているということは、地球以外に暮らす宇宙人たちには不可解に違いない。少なくとも「食べなくては生きられない」という程度の知識を持つ生きものであれば、そんな残酷な現実におそらく耐えられないはずだからである。しかも地球は全人口を養えるだけの食料を生産しているにもかかわらず、飢餓はいっこうになくならない。思想的かつ歴史的課題としてこの問題に取り組むことは難しい。きわめつけの鈍脳の持ち主ならなおさらだ。とても私の脳みそのスペックでは足らないので、いろいろな風景を借用してきた。それは、つい最近、ムラサキシキブという植物で彩られるようになった。 それまで飢餓をめぐる思考風景は、小学校のときに観ていた『愛は地球を救う」と銘打つ長時間テレビの映像によってほとんど占拠されていた。お腹のふくれた子どもたちがハエのたかる野外病院で泣きじゃくるあのシーンである。この映像はウブな子ども心には強烈であったし、募金こそがこの子どもたちを救うのだと本気で信じたものだ。もちろん、いまではこのテレビが芸能人のマラソン中継に成り果てたように、本当は映すべき事実を覆い隠す番組であったことは常識程度には理解しているのだが、頭をよぎる風景はずっとあのシーンであった。 この秋、青い山々に囲まれた本州内陸部の盆地に研究者仲間と訪れたとき、馴染(なじ)みの食堂で焼き肉定食を食べた。柿の実が山の斜面に釣灯籠(つりとうろう)のようにぶらさがって道しるべとなり、紅葉をはじめた葡萄(ぶどう)の葉は農家の繁忙期が終わったことを訪問者に静かに告げている。訪問の目的は、その地域で自家製の新聞を発行したり、都市からの農業体験者の受け入れシステムを作り上げたり、地域の朝市を組織したりして、地域全体の活性化に貢献したUさんの話をご遺族から聞くことであった。これらの発想はすべて役所や大学からはやって来なかった。どれもが地元産のアイディアであった。Uさんは、コックの制服を着て焼いたピザをみんなに食べてもらうことが好きだった。志半ばで夭折(ようせい)したUさんの葬式には、全国から彼を慕う人々が訪れ、ご両親をびっくりさせたという。 Uさんの墓前に手向(たむ)ける花を持っていなかったので、このあたりに花屋があるかをおかみさんに訊(き)いてみたのだった。おかみさんは、この食堂の周りの花を切っていきなさいよ、とハサミを渡してくれた。外には、ムラサキシキブ、ローズマリー、野菊や蔓日日草(ツルニチニチソウ)が生えていた。ムラサキシキブとは、3ミリくらいの小さな紫色の果実をびっしりとつける低木で、花瓶に活けると映える可憐な植物である。取ってくると、おかみさんを手伝っている女性が広告紙とティッシュを持ってきて、これに水を含ませてね、と言ってくれる。その地味だが力強さを秘めた花束は、この盆地の風景をとことん愛したUさんの墓にとてもよく似合っていた。 では、なぜ、飢餓をめぐる思考がこの植物に結びつくのか。ムラサキシキブとローズマリーの食堂で、大きなフライパンを細腕でブンブンふって切り盛りするおかみさんは、この地域の情報の結節点であり、私たちがここにやって来ることも、その目的も私たちから何も連絡していないにもかかわらず、すでに知っていた。おしゃべりの上手なおかみさんの心の広さと畳の上の座布団とテーブルと椅子が混在する食堂の居心地の良さと、そして、この辺のお花を切ってお墓に持っていって、と言ってくれるおかみさんの度量こそが、そして、そこにギャンブル的市場経済が介在しない人間と人間の関係性こそが、食べものが動く通路として、もっともふさわしいのではないかと思う。 3.飢餓と関係性 上述のテレビ番組が端的に表しているように、マスコミは飢餓の本当の哀しさを覆い隠している。住人の七分の一が十分な栄養に達していないというこの惑星の新聞であれば、せめて紙面の七分の一はこの問題に割かねばならぬはずである。だが、私たちは、どこで誰がどんなふうに苦しんでいるのか分からない。オリンピックやワールドカップの過剰な記事が本当に大事な事実を伝えるスペースを圧迫するこの時代、エチオピアをフィールドとする人類学者の友人から勧められた本に胸を射抜かれた。ジャーナリストの小板橋二郎が書いた『ふるさとは貧民窟なりき』(風媒社、1993)である。この本は、飢えとは何が哀しいのかをとらえた、もっとも美しく哀しい表現のひとつだと私は思っている。板橋の貧民窟で生まれた小板橋は、食べものを乞いに来る戦争孤児の思い出をこう振り返っている。 彼は戦災孤児、当時の言葉でいえば浮浪児だ。戦災で両親や家族を失った子どもである。そして明らかに知恵遅れだった。私よりは二歳ほど年上だったろう。顔は色艶がわるく汚れている上に栄養失調でむくんでいた。 ガラス戸を開けて「立ったまま何をいうでもなく彼は家の内側に向けて手をのばすのだ。無言でただゆっくりと右手をのばす。その手の先には空拳があり、手をのばしおわると彼はその空拳を手の平を上に向けた形で広げる」。しかし、ヌカの団子や芋(いも)の粉のパンなどで食いつないでいた小板橋の家には少年に恵むものはない。一度「一箸分のたべもの」を手のひらに載せた著者の母親は、何度もやって来るこの少年にとうとう「ダメ、帰っておくれ。あげられない。もう、お行き!」と言って内側からピシャリと戸を閉めたという。 翌日、身震いするような寒さのなか、小板橋は、中山道に面したガソリンスタンドでその少年をみつける。 近づいて彼の顔をのぞきこんだ私は思わず息を飲んだ。 心安らかに、思い残すことなく綺麗に死ぬこと、潔く死ぬことを美化する言説に私はいつも違和感をぬぐい切れない。この世にたっぷりの未練を残し、歯をくいしばって、もう体内には残っていないはずの水分を目尻から落としながら苦悶(くもん)の表情を浮かべたまま死ぬことも人の死である。「地球の飢餓人口は10億人」という数値から、飢えて死ぬ最後の時間、涙を流し続ける数億の少年や少女の顔を思い浮かべる人は少ないだろう。最後の関係性が断ち切られたとき、この少年に残された道はもはや死だけだった。哀しいのはそればかりではない。自分の食べるものがない小板橋少年やその母親の心に、この少年の死は罪悪感を植えつける。餓死とは、個人の生命現象の終焉であるとともに、その死者をめぐる関係性の残酷な現われでもある。 もしも、この虚ろな表情の少年の前にムラサキシキブの食堂があったとしたら、少年はいつものようにおそらく手のひらを伸ばすことだろう。そして、細腕のおかみさんは、毛布と食べものを持ってきてくれるだろう。しかし、そればかりではない。少年を生かし活かしていくための、さまざまなアイディアがこの食堂に集中するだろう。なぜなら、この食堂は、この少年の全人生を養うためのお金はなくとも、その少年を救うアイディアと物資を提供することに全く躊躇しないUさんのような人間をたくさん知っているからである。そして、もしもこの少年が力つきたとしても、彼を手厚く葬るために必要なムラサキシキブやローズマリーが、この食堂には植わっている。 4.食をめぐるアイディア 私は、墓参の帰りの特急のなかで山や空の表情を観察しながら、いまを生きているおかみさんに、もはやこの世にいない少年をこんなふうに出会わせてみたのだった。 このとき別の記憶がふと蘇(よみがえ)った。学生時代に入ったチェーン店の牛丼屋である。ある日、ここで納豆と生卵つきの朝定食を食べていたとき、やせ細ったホームレスのおじさんが端っこの席に座った。学生アルバイトの店員は、このかなり弱っているおじさんの注文を聞いて牛丼を持ってきた。厨房(ちゅうぼう)にはもう一人か二人働いていたと思う。おじさんは牛丼を食べて、お金を払わずそのまま去っていったが、いぶかる客たちの目線をかわしながら、学生はそれを見て見ぬ振りをした。おじさんの手を掴(つか)んで警察に突き出すことだってできただろう。店内のマニュアルにそう書かれてあるかもしれない。しかし、おじさんは、この学生のおかげで少なくともその日は生きることができるのである。 パン屋でアルバイトをする学生のレポートを読んだときも、同様の感慨を得た。そのパン屋は閉店後、売れ残った大量のパンをゴミ袋に詰めて捨てるという。ホームレスがやって来て店のイメージを悪くしないために、ゴミ箱のなかに入れて蓋(ふた)をするというのが、その学生が教えられたマニュアルであった。レポートのなかで学生は、大量の廃棄物に無感動になる自分を冷静に観察していた。ところがある日、売れ残ったパンを捨てようと勝手口に出たとき、ホームレスと鉢合わせをしてから自分に素直になろうと決意する。それ以後、学生は、袋を捨てにいくとみせかけて、袋をゴミ箱の蓋の上に置くことにしたという。しばらく経つと袋はなくなっている。学生アルバイトの機転によって、そのホームレスも今日の生を明日に繋(つな)ぐことができたのである。 ホームレスが寄ってくることを、お洒落なファストフード店や料理店は懸命に防ごうとする。ある学生は、ファストフード店の生ゴミは、残飯も含めてすべて室内の倉庫に鍵をかけて入れてあることを話してくれたが、もちろんこれも、朝ホームレスが店にやって来てイメージが悪くならないようにする工夫である。しかし、ホームレスを排除してイメージが悪くなるのはむしろ店のほうだ。漫画の『美味しんぼ』で、料亭街の残飯を食べるホームレスがそれぞれの料亭の味をもっとも敏感に知っているという場面があるが、ホームレスが勝手口に集まる料亭はむしろレベルが高い。学生のように機転をきかせて、残った食べものをホームレスにいきわたるようにしているレストランを、私はむしろお洒落でスマートだと思うし、そういう関係性を作り上げられるお店の食事こそ、じっくり味わってみたいと思う。 廃棄というプロセスを経て無料になった食べものは、日本という大量食料廃棄国家の分だけでも、地球上で飢える人々のかなりの部分を救うことができる、といわれている。そのとき、おそらく考えるべきなのは、その食べものがすぐに食べられるということである。米や麦を口に入れるには燃料と水が必要であるが、食堂の食べものは調理済みであり、そのまま食べられる。その分配こそが、いま、飢餓地帯に問われているのかもしれない。 5.有機認証のいらない有機農作物 夏真っ盛りの九州。市街地から離れたところに、有機野菜をふんだんに使った大きな自然食の食堂がある。ここにレンコンなどの野菜を仕入れているというMさんと一緒に昼ご飯を楽しんだ。バイキング方式だが味付けは比較的薄めで、素材の力が味覚神経に伝わるまでに時間がかかる。だから美味しい。厨房はテーブルに開かれていて、そのプロセスを眺めることができる。 Mさんは農家の出身ではないが、幼少期に海の向こうの島で自然に囲まれて育った体験が忘れられず、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て農民になった。干拓地に農地を借りて、米とレンコンを作っている。しかも、彼は有機農法を選ぶ。先輩農家から多くのことを謙虚に学び取り、独自の農法を築き上げた。地元の消防団に入ったり、地元の未就学児を農園に招いたりして、地域社会にも貢献しつつある。 私は、Mさんの軽トラに乗ってジャンボタニシが生息する有機栽培の田んぼと、レンコン畑を案内してもらった。田んぼの肥料は稲藁(いなわら)のみ。たくさんの除草用のジャンボタニシが土を這(は)っている。田んぼには、時折、ピンク色の粒が見える。これはジャンボタニシの卵だという。Mさんは農民になるために、すさまじい勉強を重ねた。耳と本の両方からである。視察中、Mさんは次のように語ってくれた。「信頼があれば、有機農産物に特段のマークなんていりません」。有機野菜や無農薬野菜の基準をクリアしたものは、その商品に表示してもかまわないが、Mさんの場合、消費者にまず自分の考えを理解して、信頼してもらうこと、それができれば有機野菜の認定は必要ない、と考えているのである。 Mさんとこの食堂に入ってお惣菜を選んでいると、オープンキッチンで料理をするおばちゃんに声をかけられる。Mさんのレンコンは本当においしいのよ、Mさんの真面目な人柄がそのままレンコンにあらわれているから、という言葉にMさんは少し照れる。 人材、取引費用、ソーシャル・キャピタルといった社会学者や経済学者たちの用いる言葉をなかなか用いる気になれないのは、経済外的な要素を市場経済のなかに組み込もうとする上からの目線をかすかに感じとってしまうからである。Uさんや食堂のおかみさんやMさんが築き上げた信頼関係と、アルバイトの学生たちの思考の柔軟性を、ソーシャル・キャピタルという言葉が掬(すく)い上げる過程で落ちるものはあまりにも多い。むしろ、その信頼関係の手のひらのなかで、ソーシャル・キャピタルという言葉が辛うじて泳いでいるにすぎない。手のひらのなかには、ムラサキシキブ、ジャンボタニシ、食堂にぶら下がったハサミ、広告紙、あるいは干拓地の土手、盆地を囲む青い山々、そして突拍子もない規格外の思いつき、ゴミ箱の蓋の上のパン、どれもがみんな含まれている。試行錯誤の末に育て上げたレンコンや米に有機農作物という認定を与えることは、むしろMさんの野菜の価値を下げることになるだろう。Mさんの考え方を信頼して有機農産物の認証なしでレンコンや米を買う人々をMさんもまた信頼している。クーラーの効かないMさんの軽トラに揺られながら眺めた干拓地の高い空が、こうした思考にいまなお彩りを添えている。 6.アテネのアゴラ 私の知る優れたフィールドワーカーたちは、実地で学んだことをもう一度本の世界に持ち込んで吟味する。この地道な往復運動こそが、知を強靭(きょうじん)にしていくのである。花束を作るためのハサミを渡してくれたおかみさん、地元新聞を発行し、朝市を組織したUさん、信頼を認証よりも重視するMさん、雑草を食べるジャンボタニシ、食料廃棄物の再分配に成功した学生アルバイト、これらの経験と体験を少しずつ消化していかなければならない。 フィールドワーカー見習いの私は、たまたま読んでいたポランニーの助けを借りた。彼の遺作である『人間の経済』(The Livelihood of Man, 1977)の半分は、古代ギリシアの交易・市場・貨幣の分析に充てられているが、ここでポランニーは食料についてかなりのページを割いて論じている。原始社会では利得操作が禁止されていた食料は、次第に経済の融通性が高まっていく古代ギリシアの時代になっても、基本的に価格は安定し、利得の対象となることから守られていたという。それは、マーケットという言葉の本来の意味でマーケットを利用していたからである。ポランニーは言う。マーケットとは第一に場所である。それは「典型的には、主として食糧または食料品である生活必需品が、少量でも原則として固定価格で買えるような戸外の場所である」。このマーケットは、ポリス国家の政治の舞台であるアゴラ(広場)にあった。たとえば、決して肥沃な土地に囲まれているわけではなく、飢えの危機に晒(さら)されていたアテネにとって、食料の分配は政治のもっとも重要な課題であったが、民主制を敷くポリスにとって官僚制が入り込んではならない。そこでアテネの市民たちは、民会の開かれるアゴラにおいて、食料を安定して入手できるように工夫をした。第一に、価格を一定にして、食料の売買が利得の対象となることを防ぐこと、第二に──これは偶然の発見だったが──調理済みの食べものもここで販売することである。飲食店からの湯気や香りがあふれるアゴラは、同時に政治の話し合いの場所であったわけだ。 ポランニーはもちろん、アテネの市民は外国産の小麦を食べ、奴隷は国産の大麦を食べていたことを指摘することを忘れない。こうした食の構造をもつギリシア経済の賞賛が彼の目的では全くない。いま、私たちがマーケットと聞いて思い浮かべる自己調整的市場は、きわめて例外的な歴史的現象にすぎないことをポランニーは伝えているのであり、食料を自己調整的市場に委ねてしまったことが人類に取り返しのつかない打撃を与えてしまったことを示唆しているのである。食料が投機の対象となる現代世界がどれほど狂っているか、このことをポランニーの著作を読むと考えざるをえない。 7.インドの無料食堂 もちろん、ポランニーだけでは、歩いて考えたさまざまなことを整理するのに十分ではない。これまで紹介してきた調査の最終局面で観た『聖者たちの食卓』(ベルギー、2011)という映画が大きなヒントをくれた。原題は、『神はみずから料理をし賜う』(Himself He Cooks)、監督は、映像作家兼フリーの料理人フィリップ・ウィチュスと映像作家兼フォトジャーナリストのヴァレリー・ベルト、65分の短いドキュメンタリー映画である。 舞台はインドのシク教総本山にあたるハルマンディル・サーヒブ(黄金寺院)である。ここにあるランガルという共同食堂では、驚くべきことに、毎日10万食の食べものが巡礼者や旅行者のために、すべて無料で提供されている。宗教も人種も階級も職業も国籍も問わない。以下の約束さえ満たせば、誰もが心行くまで胃袋を満たすことができる。 寺院に入る前は、手を洗い、靴を預け、足を清める 一日に使用される食材は、小麦粉2300kg、ダール(豆)830kg、米644kg、牛乳322kg。さらに燃料として、一日100本のガスボンベ、薪5000kgが必要とされる。この映画のなかでは、さまざまな人が出てくる。寺院の近くでジャガイモを掘る人々、キッチンでニンニクの皮を剥(む)く人々、豆を莢(さや)から取り出す人々、タマネギを刻んで涙を流す人々、ショウガを小さなナイフで刻み続ける人々、それを回収しに来る人々、燃料を運んで来る人々、鍋のなかで煮込む人々、チャパティを鉄板で焼く人々、食堂にゴザを敷く人々、訪問者に食器を配る人々、お茶を配給する人々、カレーを皿に入れる人々、お代わりを配る人々、終わった食器を洗う人々、それを運ぶ人々、大きなカレー鍋に入ってそれを磨く人々……そのほとんどは無償で働くボランティアであり、また、有給のシク教徒であるという。彼らもまた同じ食事にありつくことができる。資金は、世界中のシク教徒からのお布施や訪問者の寄付、あるいは残ったチャパティを乾燥させて家畜のエサとして売った収入だというが詳しいことはわからない。ただ、食が無料で提供できる一番の理由は、300人の無償労働、そして宗教心だろう。冷蔵庫や食洗機など近代的な調理器具を使わずに、人海戦術で作り上げられるがゆえに、機械の購入と修理のコストもかからない。 この無料食堂が世界中にわずか7万か所できれば、世界中の人々は少なくとも一日一食は無償でご飯にありつける。マクドナルドは2013年の統計で世界に約3万4000店舗、セブンイレブンは2014年6月末の統計で約5万3000店舗というから、夢の話ではない。国連の食料援助はもちろん、飢えた人々を救っている。しかし、それは調理されていない。たとえ現地に物資が到着したとしても、それが地域の市場で商品に変わってしまう例を人類学者から聞いた。UNと記した穀物袋が売られているというのである。そうではなく、食材は商品化される前に直接共同食堂に届けられなければならない。アテネのアゴラは調理済みの食べものを売る飲食店であふれていた。九州の自然食のレストランには、地域の有機農法家たちが、食材を直接運んでいる。 もちろん、シク教徒ではなく、現代文明の大量消費社会にどっぷりつかってしまった私たちに、こんなことはできないという反論にも説得力はあるだろう。だが、繰り返すが、この無料食堂のシク教徒たちは、宗教も人種も階級も職業も国籍も全く問わないといっている。われわれが小学生で習う常識があれば、それで十分なのである。もちろん、世界のファストフード店はこの試みを応援しないだろう。営業妨害として法廷に訴えるかもしれない。しかし、営業が生命活動を妨害するのであれば、営業は妨害されるべきなのだ。 この映画のところどころに、私は、手作り新聞を壁に貼ったあと、コック帽をかぶってピザを焼くUさんの影をみた。泥をかき分けながら懸命にレンコンを収穫したMさんは、軽トラに積んで黙々とこの食堂に運んでいる。細腕のおかみさんと九州の自然食レストランのおかみさんは、ムラサキシキブの活けてあるキッチンで、大きな鍋をかき回していた。食堂は、単なる生命維持装置ではない。情報と文化が集積する。もちろん、無料食堂の光景にはあの少年がいなくてはならない。彼が伸ばした手のひらには、食器がきちんと渡される。そうでなくては、ならないのである。 |