マリ そこにある危機
─砂漠の祭典よ、再び─ 1.難民と化した「砂漠のフェスティバル」 毎年9月から10月に国連難民高等弁務官駐日事務所が開催するUNHCR難民映画祭。あまりに重いテーマが取り扱われるため、「楽しみにしている」という表現はふさわしくないが、私も例年、かかさず足を運ぶ。今のアフリカを知るうえで興味深く、見過ごせない作品が紹介される。 サハラ砂漠に暮らし、遊牧の伝統を引き継ぐトゥアレグ族。毎年開催される砂漠の音楽フェスティバルは、彼らの主張であり、アイデンティティとなってきた。独特の文化と独創的な感性は世界中の多くの音楽ファンを魅了し、祭典は多数の観光客を引きつけてきた。 本来、文化であり、伝統が語り継がれるべきフェスティバル。しかし、関係者が口々にしたのは、イスラム武装勢力の存在であり、治安の悪化であり、そしてフェスティバル存続の危機感だった。翌年、砂漠のフェスティバルが開かれることはなかった。いってみれば、祭典そのものが「難民化」して、離散してしまったのだ。 2.サヘルに進行した危機*2 (1)貧困のなかの平和 昨今、サヘル地域、マリについて話題に出すと、「治安の悪い国」「テロの温床」などというイメージを持っている方が多いように感じている。これは、この地域が日本では以前、ほとんど紹介されてこなかったこと、そして一気に注目を浴びたのが、2013年1月のアルジェリア、イナメナスにおける人質事件だったことに起因する。 (2)トランスカルチャー しかし、歴史を紐とけば、異なる社会グループ間で、摩擦が生じる場面もあった。生産資源が限られる乾燥地の厳しい環境のなかで生活している以上、ある意味当然の成り行きである。 図1 マリおよび周辺国
(3)イスラム武装勢力の影 イスラムは、砂漠を超えて西アフリカに伝えられてきた。今回取り上げているサハラ砂漠南縁地域でも、イスラムが主要な宗教だ。人々の生活に深く溶け込み、また熱心に信仰されてきた。そこに排他的、選民的思想はなく、他の宗教と広く共存が図られてきたことも特徴であった。 この地域に、聖戦主義(Jihadist)*5と呼ばれるイスラム勢力が頭をもたげてきたのは2007年頃。それまで「預言と戦闘の為のサラフィスト集団」(Groupe Salafiste pour la Predication et le Combat:GSPC)を名乗っていたグループが、「マグレブのアルカイダ」(Al-Qaida de Magreb Islamique:AQMI)を称し、サハラ地域でテロ行為を始めたのが、この頃だった。 2007年当初、アルジェリアやモーリタニアにおいて、より頻繁に観察されたテロは、その後、ニジェールやマリを主な舞台と移していく。また、北緯17度線といわれた警戒ラインは、2009年前後には北緯15度線を超えて南下していった。テロの主な犯行手口は、人質誘拐であった。実行には、土地勘と砂漠での機動性に優れたトゥアレグ族が報酬と引き換えに関与した、と報じられたこともあった*6。 この地域は、フランスの支配的な影響力が及んでいたとはいえ、国際社会の関心が十分には及ばない、事実上の真空地帯にあったといえるだろう。国際的無関心のなか、残念ながら当事国の各国政府は、このような武装勢力に断固たる有効策を打つことができなかった。その後も、水面下でのイスラム聖戦主義者の勢力拡大を許し、2012年にかけて、状況は悪化の一途をたどっていく。 冒頭に紹介した映画「トンブクトゥのウッドストック」、その制作の舞台は2011年1月に開催された音楽祭「砂漠のフェスティバル」。まさに、このような危機のなかで撮影が進行した。映画のなかでの関係者のインタビューでは、この当時のコンテクストが浮かび上がってくる。 (4)貧困、食料安全保障 この地域にはそもそも絶対的貧困、そして食料安全保障の問題が横たわってきた。国民1人当たりの国民総所得(世界銀行による)、人間開発指数(国連開発計画による)をはじめ、就学率、妊産婦死亡率、安全な水へのアクセス率など、サヘル砂漠南縁の諸国は軒並み低位に甘んじている(表1)。 表1 サヘル・サハラの開発指標
また気候変動の影響を受けやすく、食料安全保障の問題が常に付きまとう。 普段は水がないことに頭を悩ませている地域であるにも関わらず、雨期がくれば、近年、多発するようになった豪雨に襲われ、洪水となる*8。皮肉な話だ。 図2 「マグレブのアルカイダ」の勢力範囲
図3 サヘルの食料危機
(5)脆弱(ぜいじゃく)なガバナンス
とくに、ニジェールの政情は国際社会から危惧された。当時、イスラム聖戦主義者のテロ実行の舞台となりつつあり、また南からはボコ・ハラムの影響を受けていた。2009年、憲法規定を無視して再任を強行した前タンジャ大統領に対し、関係国は制裁発動に動かざるを得ない状況に置かれた。その状況が継続すれば、国際社会はニジェールを排除することとなり、同国がテロ勢力の温床となることが懸念された。これに対し、2010年、軍部がクーデターを敢行。皮肉にも暴力的な形で、同国の民主化、正常化へのロードマップが示された。 3.マリ内戦の経緯 (1)引き金─カダフィ体制の崩壊 2011年、マグレブで進行したアラブの春。リビアのカダフィ体制が崩壊すると、その影響はサヘル地域を直撃する。カダフィ政権を支えた傭兵部隊のなかには、少なからず、前出のトゥアレグ族がみられた。90年代のバマコ政権との対立の後、リビアはかれらの身の置き場であり、また一つの雇用機会、生計手段ともなってきた。 (2)サノゴ大尉の政変と南北分断 トゥアレグ勢力を前に、マリ国軍は十分な対処を行なうことができず、北部戦線は膠着した。トゥーレ大統領の弱腰な姿勢と、国軍の手ぬるい対処に不満を持った青年将校、アマドゥ・サノゴ大尉は2013年3月に政変を敢行。憲法を停止し、「民主主義と国家再建のための国家委員会」(CNRDRE)を組織。北部への攻勢を宣言した。しかし、軍事政権は事実上ほとんど有効な策を打つことができず、国家機能は全面的に停滞した。 冒頭で述べた映画「トンブクトゥのウッドストック」。2011年1月の祭典を最後に、フェスティバルは開催されていない。2012年、北部の拠点都市であるトンブクトゥやガオでは、イスラム武装勢力の支配下、シャリーア法典の極端な解釈を強要し、人々の生活と日常を恐怖と緊張に陥れた。犯罪者には、鞭打ちや手首の切断といった刑が執行され、音楽や踊りが禁止された。霊廟や寺院などの歴史的遺産が破壊の対象となり、アフリカでは極めて貴重な書物が焼き払われた*10。多くの白人系住民は身を隠し、また離散した。祭典の関係者も然りだ。 (3)事態の急転─フランス軍の介入と再建への動き
(4)正常化への道 マリ問題は、これまで見てきたように、地域の貧困と脆弱性のうえに、武装勢力の進行、政変といった治安、政治イシューが絡み合った複合災害である。地域の再建のためには、絡まった糸を、一本ずつ、プロセスを組んでほどいていくことが必要である。 表3で示したサヘルカレンダーに、「6月 ワガドゥグ合意」という項目がある。これは、マリ政府がトゥアレグ勢力と結んだ和平合意で、簡単にいえば、選挙プロセスの実施と引き換えに、選挙後の和平交渉を確約したものである。予定通りに進めば、11月24日には国民議会選挙も終了し、マリの国家秩序が名実ともに回復していくはずだ。以降が本当の意味での、国民和解の始まりである。 おわりに 冒頭に紹介した映画「トンブクトゥのウッドストック」。映画が世に出たのは2013年、残念ながら彼らの想いを先取りすることはできなかったが、貴重な追体験ができる映画であった。地域において危機が進行しつつある様子をリアルに描写し、また彼らの危機感と、これに立ち向かっていこうとする強い気概とともに映している点で印象深い。 トゥアレグ勢力による武装蜂起で始まったマリ危機。イスラム勢力の伸張と北部制圧、非人道的な戒律の強要、フランス軍による介入、その後に展開したマリ軍の白人系民族に対する暴力等々、たくさんの不幸な事件が生まれた。伝聞情報であるが、北部では以前にはなかった住民間の軋轢や疑心暗鬼がはびこっているという。 冒頭に述べた「貧困のなかの平和」、「違いを超えて助け合って暮らす社会」を真に取り戻すには、語り尽くせない苦難を伴うことだろう。 彼らがこの地に再び帰還し、生活とアイデンティティを取り戻し、そしてマリ北部社会が受容する真の「砂漠の祭典」が復活するまで、乗り越えるべき障害はまだまだ多い。その動きを関心深く見守り、支持、支援していくことは、われわれにもできることであると思う。何より、無関心が招く危機を、二度と許してはいけない、と私は思うのだ。 |