「飢え」にまつわる言葉に託された自然観
─サヘル農耕民のレジリアンス─
1.西アフリカの環境問題 西アフリカの半乾燥地域はサヘル地域とよばれ、風雨や人為的な要因による土壌侵食によって、砂漠化が進んでいる。かつて栽培植物学の中尾佐助が「人類史上重要な農耕起源の地」と位置付けたこの地域は、雑穀栽培を中心とする伝統的な農耕が続けられてきたが、この100年間は、自給自足さえも、ままならない食料安全保障の危機にさらされている。 砂漠化を進める干ばつは、遅くとも17世紀からこの地域で始まっていたとされているが、頻度が高まったのは19世紀末からで、1910年代、1940年代そして1960年代末・1970年代・1980年代の3度の長期干ばつの後には、それぞれ深刻な飢饉が起こっている(図1)。 図1 サヘル地域(北緯10-20度、西経20度-東経10度)の降雨量の推移(1900-2012)
1960年代末から1980年代にかけてサヘル地域で起こった干ばつは、10万人に及ぶ死者と75万人の食料援助依存者そして5000万人の生活に影響を与えたとされている。サヘル地域に位置するモーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェールそしてチャドの人々が主たる被害者であった。 2010年2月から8月にかけて再びサヘル地域を干ばつが襲い、モーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、北部ナイジェリア、北部カメルーン、チャド、スーダンといった国々の深刻な食料不足をまねいた。 2.砂漠の自然観 上記のように、干ばつを繰り返し経験してきた西アフリカ農民の「自然」に対する考え方は、人知を超えた神聖で、畏怖すべきものととらえる傾向がみられる。西欧社会思想においては、人間が自然に働きかけをする関係と構造が支配的であることから考えると、全く逆の発想である。十九世紀半ば過ぎにチャールズ・ダーウィンが登場し、西欧社会思想が育んできた理性的な「人間─自然」観は覆された。人間はあくまでも自然の一部にすぎないという、今となっては当たり前の思想は100年前の西欧中心主義的な世界基準では新しい考え方だったようだが、西アフリカの人々はすでに、経験からそのことをわきまえていたと推測できる。 筆者が1996年から98年まで、協力隊員として一緒に暮し、その後も断続的に調査で訪れ、親交を温めてきたザルマ社会の人々(写真1)は、現在、総人口が約566万5000人、そのうち550万7000人がニジェールの西部地域を中心に暮し、その他ナイジェリア(11万3000人)、ベナン(3万8000人)、ガーナ(6900人)、ブルキナファソ(1100人)に分布している。ニジェール以外の人口分布は、恐らく出稼ぎで移動した人々が移住先に定着した結果を反映していると考えられる。 ザルマ語はニジェールでハウサ語に次いで二番目に多くの人々が使用している言葉で、同語で「緑生い茂る自然」は、saaji(サージ)あるいは ganji(ガンジ)で、後者は「精霊」を意味する用語もあてはめられている。 [例文 01]
大昔、野生動物たちは、緑の中で、それぞれが主のように生きていた。 ganji(ガンジ)には精霊という意味があることから、ザルマの人々が内面的にも自然を畏敬の念でとらえていることは想像に難くない。砂漠化は恒常的な現象で、ザルマの人々にとっては、いまに始まった問題ではない。そうしてみれば、地球環境問題としての砂漠化現象は、彼らにとっては押しつけの世界基準によって、差し迫った重要問題になっているのにすぎない。 [例文 02]
私たちの土地は、どこへ行っても砂しか見ることができない。 飢餓そのものは、砂漠化以外の理由によっても起こることがわかっている。感染症、貧困、紛争など、西アフリカの人々が飢餓に苦しむ原因となってきた要因は、さまざまに挙げることができる。 3.言語文化に埋め込まれたサヘルの自然環境 飢餓が社会現象となって広がると飢饉とよばれる。図1の降雨量の推移から読み取れることは1960年代末以来、およそ40年間にわたっては降雨量の少ない年がほぼ継続してきた時期であること、一方で1920-40年、1950-60年の間は農耕作にとっては比較的良好な水準の降雨が得られた時期であったということである。つまりサヘル地域では、降雨の少ない時期と多い時期は交互に繰り返され、それに呼応するように飢饉が繰り返されてきた。 [例文 03]
毎雨季に人々は種をまく。 ザルマ語で乾季はkoogandi(コーガンディ)あるいはkwaari(クワーレ)、雨季はkaydiya(カイディア)と呼ばれる。彼らの生態学的な時間は、このkwaariとkaydiyaの2つの時期によって構成され、しばしば1年の間でも雨季がどうだったかを話題にすることにより、過去のある年を特定し、話題が共有されることがある。 表1 ザルマの飢饉の歴史
また、飢餓対策のために彼らが採っている木の実、葉、さやの部分を示す言葉もあり、食べ方も工夫されていることから、飢餓対策の手段も文化の中に埋め込まれているものと考えることができる(表2)。 表2 飢餓対策の植物
4.多様化する農村生活 西アフリカでは昔から自給作物栽培が主流の、家畜飼養も導入した複合農業が行われているが、農業経営の近年の実態は多様化している。新自由主義的なグローバル経済が農村にも浸透してきた結果、農民の生計戦略上の選択肢が増え、専業農家の割合は少なくなってきている。それと連動して、昔は大家族制度で共同の畑を耕す集団労働が行われてきたようであるが、いまは農村でも核家族化が進み、共有地や共同作業が減少し、土地の細分化も進み、集団労働が少なくなった。 農村世帯の収入変化の研究者の間で指摘されているのは、出稼ぎや非農業就業の割合が増加していることである。たとえば、手工業やタクシー業の経営、マイクロ・クレジットなどをはじめとする個人金融などをしながら現金収入を得て、農業は繁忙期に専念するパターンがみられるようになってきている。村を出る出稼ぎと、村を出ない非農業就業の比較をすれば、アフリカの場合は出稼ぎによる送金よりは、現地で農業以外の仕事をしている人々が増えているとされる(表3)。 表3 アフリカの諸国およびそれらの平均の農外収入の割合
5.砂漠のレジリアンス サヘル地域の人々への農業の技術移転を通して著者が学んだことは、多々あるが、概括するならば、彼らは「簡単には揺るがない彼らの自然観」をもっている、ということである。したがって、技術移転の場面において、「よそ者」は簡単には受け入れられない。 [例文 04]
白人は黒人ではないし、黒人は白人ではない。 援助をする側は、とかく援助をされる側の考えや価値観に考えを及ばせることを、おろそかにしがちであるが、残念ながら著者がかつて関わった開発プロジェクトにおいても、そのことは例外ではなかった。 それでも著者の所属していたプロジェクトが、技術の容易さ、自生する E.Balsamifera の多さから、「この挿し木プロジェクトを、薦めないわけにはいかない」と判断し、「子どもにもできる」挿し木技術として、少しでも関心を示した農民にはデモンストレーションを行っていった。 日本人は事態が理解できず、現場調査をするとともに、挿し木を実践している農民の村や周りの村の人々に聞き取り調査をしていった。徐々に明らかになったことは、この挿し木が意外なところで、村民に被害を与えているということであった。 私たち日本の協力隊員は、この事実を知り、村人が挿し木を折ったり、抜いたりする行為が、ただのいたずらではなく、子どもたちを守るためのやむを得ない行為であったことを理解した。また、もう少し注意深く村人の生活事情を把握していれば、むやみに挿し木を薦めずに済んだのではないかと反省もした。 [例文 05]
真実自体が、何か人を喜ばせたり笑わせたりするようなことはない。 この例文05は、「あるがままの真実を見極めよ」という含意の、ザルマの諺である。彼らの「よそ者=yaw(ヨウ)」への姿勢を裏打ちしている言葉である。開発は彼らの言葉では「bon feeri goy (ボン フェーリ ゴイ) =頭を閃(ひらめ)かせる仕事」であり、思考のうえで納得ができなければ、受け入れられない種類の仕事である。だから、時間がかかっても納得するまでは、「よそ者」のすることをすんなり受け入れてはいけないのである。 [例文 06]
私は、自分の畑の周りに E.Balsamifera を植えて囲いにした。 ザルマをはじめとするサヘル地域の人々にとって、砂漠化はいまに始まった問題ではない。「よそ者」として受け入れられながら、彼らと一緒に開発に取り組む可能性があるとすれば、それは彼らの自然観や価値観を尊重したうえで、お互いにとって利益になるような技術なり方法論なりを模索していく必要がある。近年、彼らの生活に起こっている変化をみるに、彼らも厳しい自然環境に合わせ、くわえてグローバリゼーションとも歩調を合わせながら、生計戦略を多様化させていることにも注意しなければならない。 <参考文献>
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