ベトナム・メコンデルタにおける
輪中農業のレジリアンスと脆弱性

神戸大学 大学院農学研究科 小寺昭彦、長野宇規

1.はじめに

 ベトナム・メコンデルタではメコン川の氾濫によって長期間にわたる洪水が毎年発生する。デルタの農民はそのような環境条件に適応し、洪水の季節周期に合わせた農法を長く用いてきた。
 メコンデルタは2000年の大洪水によって甚大な被害を経験し、その後の洪水対策として、洪水地帯の輪中化が急速に進められた。洪水を遠ざけた新たな環境を得たことで、これまで問題であった生活の安全や農業生産の安定が達成されることになった。
 しかし、2011年、輪中建設後初めての大洪水が発生し、それを契機に輪中農業に関するさまざまな矛盾や問題点が露呈しはじめている。 本稿では、ベトナム・メコンデルタの洪水対策としての輪中とその脆弱性に関する問題について整理し紹介したい。

2.メコンデルタの自然と農業

(1)自然環境

 メコンデルタはメコン川最下流のカンボジアとベトナムにまたがって位置し、面積はおよそ6万2500km2、そのうちベトナム領がおよそ4万km2を占めるが(図1)、これは日本の九州とほぼ同程度の広さである。

図1 ベトナム・メコンデルタ
図1	ベトナム・メコンデルタ

 チベット高原を源流とするメコン川は、カンボジア・プノンペンでトンレサップ川が合流し、その直後にメコン川(ベトナム名:ティエン川)とバサック川(ベトナム名:ハウ川)の二手に分かれる。川はベトナム領に入り、さらにいくつもの支流に分かれ南シナ海に到達する。
 メコン川の流量は乾季と雨季の差が極めて激しい。ベトナム・カンボジア国境付近のタンチャウでは9月の月間平均流量が約2万1000m/秒を記録する一方、4月になると約2300m/秒まで低下する。
 国境付近の後背湿地では、雨季のメコン川氾濫が毎年繰り返され8月〜12月頃までの長期間にわたり冠水状態が続く(図2)。

図2 洪水範囲と浸水深(2000年)と国境付近の洪水風景(同年9月)
図2	洪水範囲と浸水深(2000年)と国境付近の洪水風景(同年9月)

 月平均気温は4月がもっとも高く28.5 ℃、そして12月がもっとも低く25 ℃となる。年間を通して温暖で気温変化が小さいため、気温が作物生育の大きな制限要因とはならず、水条件さえ良ければ非感光性品種を用いることによって、年間を通していつでも作物栽培を行うことができる。
 年間降雨量は西岸のタイ湾に接する沿岸部でもっとも多く2400mm、そして内陸に行くほどモンスーンの影響が低下し、デルタ北東部に至ると1300mmにまで減少する。年間降雨量の約9割は南西モンスーンによって5月〜10月の雨季期間中にもたらされる。雨季の開始時期は内陸になるほど遅い傾向にあり、また年変動も大きい。

(2)コメ栽培

 ベトナム領メコンデルタで毎年生産されるコメは2000万トンを超える。これはベトナム国内で生産されるコメの約半分、日本の約2倍に相当する量である。また余剰分は主にアジア島嶼(とうしょ)部に向けて輸出され、コメ輸出が本格的に開始された1990年代以降、ベトナムは長らくタイに続く世界第二位の輸出国であったが、2012年度にはタイのコメ価格上昇を受け初めての第一位となった。
 メコンデルタの高いコメ生産力は豊富な水資源の利用によって成り立っている。しかしこのことは同時に、水資源がコメ生産の制限要因になりうることを意味する。とくにメコン川流量、海面水位、降雨パターンの変動は洪水、干ばつ、塩水遡上などの脅威現象の発生に影響を及ぼしコメ生産を著しく制限する要因となる。また、これらの現象は地域によって程度が異なるため、それぞれが適応した結果、メコンデルタには多様なコメ栽培様式が分布することになった。
 デルタの洪水地帯では、11月〜12月頃の洪水退水期にあわせて播種が行われる冬春作と、続けて4月〜5月頃に播種を行い洪水増水期の前に収穫が完了する乾季中心の夏秋作との年2期作が基本となる。近年構築が進む輪中堤の内側では、この2期作に加えて洪水期間中に第3期作の栽培が可能となっている。さらに最近では輪中内で年3.5期作(2年間で7期作)を行う水田が増加しているが、この場合播種の開始が前作の収穫直後に連続して行われるため栽培暦の季節周期性は希薄となる。
 デルタ中流部の洪水と塩水遡上の影響が少ない地域では、年3期作または3.5期作が行われ、デルタ下流部の塩水遡上影響を受ける地域では、乾季の塩分濃度が高い時期を避け、雨季を中心とした年2期作が行われている。

3.輪中による洪水対策と脆弱性

(1)輪中の拡大

 2000年の大洪水による被害経験を契機に、メコンデルタの洪水常襲地帯において、大小の輪中で構成される非洪水地帯の拡大が急速に進んだ(図3)。これまでにデルタ全体で構築された輪中地帯の面積は2011年現在、デルタの水田面積の約34%を占める60万haに達する。なかでもアンジャン省にもっとも集中しており、かつての冠水域はほとんどが輪中で囲まれるようになった。アンジャン省は2000年の洪水被害がとくに甚大であった地域でもあり、省政府は早くから輪中堤建設の投資に積極的であった。また、国内外の援助団体からの支援も多くあった。

図3 2000年と2011年の浸水域の比較 左:2000/8/10 右:2011/8/10
(MODIS衛星画像による判別結果で、色の濃いエリアが浸水域)
図2	洪水範囲と浸水深(2000年)と国境付近の洪水風景(同年9月)

 一方でドンタップ省も洪水面積の大きい土地であるが、これまで輪中の建設は積極的に進められてこなかった。ところが最近2、3年の間にドンタップ省の輪中は急速に拡大している。ここでは省政府が積極的に投資を進めているというわけではなく、農家自身が発案し建設費用を出資するケースが多い。これまでのアンジャン省の成功例を目の当たりにしたことが、農家の決断を促していると思われる。

 輪中堤防の構造や規模は洪水の程度または投資金額によって、強固なものから簡易なものまでさまざまであるが、ほとんどの輪中堤防は写真1に示されたような、主に水路の浚渫から得られた土砂を既存の土手に積み固めた、簡易な方法で構築されている。このような簡易な堤防でも、平年並の洪水規模であれば水の流れは緩やかであるため、洪水防御機能は十分に果たされている(写真2)。

図1	ベトナム・メコンデルタ
写真1 輪中堤(キエンジャン省ホンダット県、2009年2月。堤防の水面近くに見えるいくつもの穴はカニ穴)

図1	ベトナム・メコンデルタ
写真2 雨季の輪中
(アンジャン省トアイソン県、2007年9月)

 輪中に農業被害対策として本来期待される機能は、従来の年2期作の作付体系において、増水期の収穫および退水期の播種直後のイネを時期外れの洪水から防御することであった。しかし、輪中の完成後すぐに洪水期間中にも作付けが行われるようになり、現在は年3期作が一般的となっている。
 農地の輪中化によって洪水常襲地帯の増水期と退水期における被害リスクは低下し、コメ生産量は大きく増加した。


(2)輪中農業の被害

 2011年、メコン川流量は輪中建設以降で最大となる値を記録した。アンジャン省チャウドックで観測されたピーク流量は2000年の7676m3/秒を上回る8210m3/秒にまで達した。一方で冠水域は、輪中の効果によって大幅に減少している(図3)。
 しかし、2011年の洪水では多くの輪中が危機的な状況にあった。輪中内ではすでに作付けが始まっていたため、9月下旬の洪水ピーク時には堤防のかさ上げや削られた箇所の補修作業が、ほぼ人力で昼夜通して行われた。なかには、作業中に犠牲になった者もいた。
 最終的に割合としてはほとんどの輪中が防衛に成功したが、堤防の決壊を免れることができなかった輪中も実数としては多数存在し、約7000haのイネが枯死した。チャウフー県オーロンビー村の輪中(1500ha)は9月27日に堤防が決壊し、播種後2週間のイネ全てが失われた(写真3)。さらに12月に予定されていた次作の作付けまでに修復工事が間に合わなかったため、結果的に合計2期作分の収穫機会が失われることになった。

写真3 2011年の洪水による堤防の決壊
(破堤1か月後に撮影:アンジャン省チャウフー県オーロンビー村)
写真3 2011年の洪水による堤防の決壊

 我々が調査したのは被災後1か月が経過した頃であったが、その時点では省政府からの見舞金の話はあったものの修復費用を誰が負担するのかという問題について未解決のままであった(2012年の雨季までに省による修復工事が完了し、さらに堤防は1mのかさ上げが行われた)。
 被災した農家は、輪中がこの村に建設された2006年以前、洪水期は農業を休み、冠水した農地に漁網をはって過ごしたものだという。大洪水であっても、いつもどおり自然に水が引くのを待ってから播種を行うだけであった。洪水による農作物の被害は、今回が初めてであった。


(3)周辺地域への影響

 輪中建設による広大な非洪水域の出現によって、行き場を失った洪水の排水が新たな問題として懸念されている。輪中だけでなく、近年は既存道路のかさ上げや新規道路の建設も同時に進んでいるが、これらの計画には洪水時の水の流れに対する影響が考慮されていない。洪水の流れはますます複雑になり、予想が困難な状況になっている。
 アンジャン省における洪水排水路の建設は2000年以前からも盛んに行われており、カンボジア国境に沿って流れるビンテー水路をはじめ、大小の水路がバサック川からタイ湾に向けて掘り進められた。輪中建設の進んだ近年でも、既存水路の浚渫や堤防強化、新規水路の拡充が進められている。
 アンジャン省の南に位置するカントー省では、これまでほとんど冠水することのなかった地域が、最近になり満潮時に冠水するようになったとして問題になっている。さまざまな原因が考えられるが、その一つとして、上流の輪中によって行き場を失った水が河川水位を上昇させているのではないかと疑われている。
 カンボジア南部のベトナム国境に接するタケオ州でも、冠水域と冠水期間が拡大する傾向にある。以前からも、国境沿いのビンテー水路の堤防によるベトナム側への洪水流のせき止めが問題視されていたが、アンジャン省の輪中拡大によって、メコン川以西の洪水流の流路は、河川への再流入を除き、ほぼ閉ざされてしまった。カンボジア側は自国領内にタイ湾への排水路を建設する計画を立てたが、下流国であるベトナムから、乾季の水分配に支障が生じるとの理由から反対されていて、実現には至っていない。
 近い将来懸念されるのは、現在急速に拡大するドンタップ省の輪中である。輪中が国境線を埋め尽くすようになれば、次は、メコン川以東の洪水流が行き場を失うことになる。そうなれば、カンボジアの洪水が拡大することはもとより、行き場を失った洪水は河川水位を押し上げ、ドンタップ省の脆弱な輪中を破壊し、さらに下流部に新たな洪水地帯を発生させるかもしれない。


(4)長期的な問題

 農地の輪中化の長期的な問題点として、これまで毎年の洪水によってもたらされてきた微量元素の供給と病原・害虫の浄化作用機能の低下が懸念されている。 この点について、輪中建設当初から、(サールー)と呼ばれる、3年に一度の頻度で洪水期間中の輪中内に水を掛け流す対処方法が推奨されていた。すなわち3年間で8期作を行い、1作分をサールーのために休耕することになる。
 しかしながら2、3巡目あたりを過ぎた頃から、サールーを実施しない輪中が増加するようになった。その理由としてはサールーのために失われる一作分の収穫分が惜しい、という意見が多い。また、他の輪中がやらないのなら我々も守ることはない、という集団心理も働いているようである。
 多くの農家はサールーによる効果について理論的には認知しているが、実際にこれまで実施してきた感想として、その効果はなかった、または少ししか感じられなかったという声が多い。この点については、普段から過剰ともいえる施肥と農薬散布が行われており、その影響によって自然の力によるサールーの効果が見えなかったのではないかと考えられる。
 輪中の建設が開始されてからおよそ10年しか経過しておらず、長期的な影響については未だ不明な点が多い。今後の科学的な調査が待たれる。


4.おわりに

 ベトナム北部の紅河デルタでは輪中堤による治水の歴史が長く、古くは紀元前後に遡る。河川は天井川と化し、現在の輪中はかさ上げにかさ上げが重ねられた強固で巨大な堤防によって形成されるようになった。
 それに比較して、メコンデルタの開発の歴史はまだ浅い。この10年の間にも、これまでに経験することのなかったさまざまな新たな問題に直面した。このまま紅河デルタのような輪中システムを増強し自然を押さえ込む方向に進むのか、または自然に適応した新たな開発方向を見出すのか、メコンデルタの今後進む方向は注視に値する。


<参考文献>
ベトナム国内新聞紙(2011〜12年)
 Bao An Giang online;http://www.baoangiang.com.vn
 Bao Nong Nghiep Viet Nam:http://nongnghiep.vn
   等

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