『貧乏人の経済学』
─もういちど貧困問題を根っこから考える─
これまで貧困問題を解決するために、貧しい人々の人権を考慮しながら、資金や物資を支援したり、自由市場への参加の機会を与えたりする取り組みが、さまざまな主体により実施されてきた。しかし、本書は、こうした取り組みは、実は貧しい人々の生活や選択と乖離して、貧困問題の根本的な原因を見逃しているのではないかと指摘する。そこで、貧困に対する先入観によってではなく、貧困問題に対する施策を実施する場合としない場合の社会経済的な影響を比較する実証実験(ランダム化対照試行*)によって、貧しい人々の行動原理を分析し、貧困の原因を明らかにしている。そして、貧困問題を従来の理念や理論で考えるのではなく、貧しい人々の視点で考えることで彼らの選択の論理を理解することの重要性を提言している。 以下に、本書の内容を概観する。 第1章では、「貧困の罠」を例に挙げ、貧困を削減するためには、「援助が必要である」と「援助は自立的な発展を妨げるので、市場に任すべきである」という相反対する二つの考えだけでは、いずれも問題を解決できないとし、具体的な課題とそれぞれの課題ごとの答えを考えることが重要だと指摘している。 第2章では、栄養摂取に関する「貧困の罠」について分析している。貧しい人々は、飢えのために生産性が低く「貧困の罠」から抜け出せないという紋切り型の考えに対して、実は貧しい人々でも成人のカロリーはほぼ足りているので、重要なのは量よりも質であると指摘し、幼児期の適切な栄養摂取が将来の収入増につながることを明らかにしている。 第3章では、健康による「貧困の罠」について分析している。貧しい人々は健康について十分な情報をもたず、また、問題を先送りする傾向があるため、将来の医療費を抑制する予防接種の効果を理解せず、罹患した際には必要性の低い高価な医療を信用し利用することで、結果としてより貧困になると考察している。 第4章では、教育による「貧困の罠」について分析している。開発途上国ではエリート志向の強い教育が行われるため、教師は落ちこぼれ生徒を無視し、親は子供の教育に関心を失い、子供自身も自分の能力を不当に低く評価することになり、貧しい人々が教育によって貧困から抜け出す機会を失うことを指摘している。 第5章では、貧しい人々が子だくさんである理由について明らかにしている。子だくさんなのは、自制心の欠如や社会規範の押しつけが原因ではなく、年金や医療など社会保障制度が整っていない開発途上国では子供は老後への備えであるため、貧しい人々はより大きな家族を必要とすると考察している。 第6章では、貧しい人々が保険を買わない理由を明らかにしている。貧しい人々にとっては日々の暮しのなかに存在する多くのリスクへの対処が重要であるが、市場が提供する保険は干ばつによる不作や大病による死亡など稀に発生する危機的な事象しか対象としないため、貧しい人々は保険を購入する意欲が低いと考察している。 第7章では、マイクロ融資は貧しい人々の生活を変えたのかという問いに答えている。マイクロ融資は貧しい人々への融資事業が成り立つことを実証したが、リスクの高い事業や利益が出るのに時間がかかる事業に投資したい人にとっては不向きな仕組みであり、貧困から抜け出すための革命的な変化をもたらしてはいないと指摘している。 第8章では、貧しい人々が貯蓄をしない理由を明らかにしている。金融機関の口座開設や預金の引き出しの費用が高いというためだけでなく、積立年金のように給与からの天引きによる自動的な貯蓄システムもないため、貧しい人々は確実に貯蓄することが難しいと考察している。 第9章では、グラミン銀行創設者ムハマド・ユヌスのいう「貧しい人々は天性の起業家だ」という考えに疑問を投げかけている。貧しい人々の事業規模は小さく、限界収益率は高いが総収益が低いため、事業規模を拡大することが難しいと分析している。このことから、事業を実施している多くの貧しい人々は起業家の資質が高いというわけではなく、他に生き抜くための選択肢がないため起業しているにすぎないと指摘している。 第10章では、制度は貧困を改善するかという問いに答えている。マクロな視点で制度をみるのではなく、細部に注目した貧しい人々の視点に立つ必要があると指摘している。そして、貧しい人々の動機と制約を理解すれば、運用の工夫次第で制度や政策を改善でき、多少なりとも貧困を削減することが可能であると述べている。 以上が本書の概要であるが、貧困問題を理解する視点として、「貧しい人々の意思決定」に注目しているところが興味深い。開発途上国に暮す貧しい人々は、どうすればきれいな水を入手できるのか、明日はどうやって食事にありつくことができるのか、病気や農作物の不作といった災厄に対して、どのように対処すればよいのか、老後の準備はどうすればよいのか、など、あらゆることに対し自分で意思決定を下さなければならない。しかも、問題解決について十分な情報をもっていないため、正しい判断ができていないことが多い。 一方、豊かな国に暮す我々といえば、蛇口をひねれば衛生的な水が流れ、病気に対しては公共の保険制度によって、安心して医者にかかることもできる。また、コンビニに行けば栄養バランスのとれた出来合いの食事にありつける。 さらに、貯蓄についても社会保障負担や積立年金の天引きなど貯蓄を後押しするシステムも存在する。我々は、こうしたサービスを当たり前のように享受し、充実した社会システムに取り込まれているため、自ら意思決定を下す必要がない。そのおかげで、我々は生きるためというよりも、生活を豊かにするために、自らの時間や労力を割けるのである。このことは、逆の見方をすれば、豊かな国の人々が貧困に陥らない理由を意思決定という視点で再考することが、貧困問題の解決策を探る一つの有用な方法になりうることを示唆している。 本書は、難しい経済理論を避け、貧困問題について貧しい人々の現実的な目線で説明を展開しているので、経済学に明るくない人にとっても読みやすく、開発途上国の貧困問題に関心のある方や援助関係者にもお薦めしたい1冊である。 なお、本書では「貧乏な人々」と訳されているが、本稿では「貧しい人々」とした。 *みすず書房刊 本体価格 3000円 |