2011年タイ・チャオプラヤ川における
洪水被害 わが国では昨年(2011年)、多くの自然災害が発生した。そのなかでも気象災害は多発しており、本誌第45号にて鬼頭氏が「近年の集中豪雨について」で紹介している1)。一方、世界に目を向ければ、アメリカ南部やメキシコ北部における異常高温(3〜9月)や異常少雨(1〜11月)、ブラジル南東部の大雨(1月)、パキスタン南部の多雨(8〜9月)、アフリカ東部の干ばつ(1〜9月)、そしてインドシナ半島の多雨(7〜11月)といった多くの地域で異常気象・気象災害が発生している(気象庁、2012)2)。とくに鬼頭氏も紹介しているインドシナ半島の多雨1)は、タイ北・中部において甚大な洪水被害をもたらし、日本の経済にも大きな影響を及ぼすこととなった。 1.チャオプラヤ川の概要 タイは半島部など一部を除いて熱帯サバナ気候に属しており、雨期(5〜10月)にもたらされる降水量は、年降水量の大半を占める。その熱帯サバナ気候に属するタイ北・中部を南北に流下するのが、チャオプラヤ川である(図1)。チャオプラヤ川は、タイ北部を発する4つの支流(ピン川、ワン川、ヨム川、ナン川)がナコンサワンで合流し、さらに南のアユタヤでパサック川が東から合流して、バンコク中心部を通り、タイランド湾に注ぐ。ピン川をその上流地域とするとチャオプラヤ川の河川延長距離は990kmであり、支流を含む流域面積は約16万3000km2と、利根川の流域面積(約1万6840km2)のおよそ10倍である。 図1 チャオプラヤ川流域図および主な河川施設
また河川勾配は、Kurauchi et al.(1998)3)によれば、ナコンサワン(河口より約370km)からアントン(河口より約200km)との間は約 1/10,000、小森ら(2012)4)によれば、下流域はおよそ 1/10,000〜 1/15,000とされ、利根川の布川観測点(千葉県我孫子市布佐、河口より約77km)から下流における河川勾配 1/9,000(国土交通省)5)よりさらに緩い河川勾配が、チャオプラヤ川河口から約370kmのナコンサワンまで続いていることがわかる。このように、チャオプラヤ川は非常に緩い河川勾配を特徴に持つ河川であることがいえる。 チャオプラヤ川流域には政治、経済、観光に重要な都市、地域が存在し、近年の経済成長を受け、流域内の土地利用の変化は顕著である(吉川、2006)6)。とくにナコンサワンより下流域では、日系企業も進出している多くの工業団地が立地している(図4を大きく表示)。 2.2011年雨期の水文気象概況 2011年の雨期における降水状況を示すため、1982〜2002年および2011年の5〜10月における流域月雨量を、タイ気象局観測所15地点のデータからティーセン法(高瀬(1978)7)など)を用いて算出した(図2)。1982〜2002年と2011年を比較すると、すべての月で平均を上回っており、とくに7月は8割近く多かった。5〜10月の合計で比較すると、2011年は1982〜2002年の平均に対して、143%の降水量がもたらされた。この雨量の超過確率は2%であり、今回の降雨は50年に1回の大雨に相当している。1982〜2002年の時系列を各月で見ると、7月と9月で2011年が最高値を記録しており、5〜10月の期間を通じた総雨量も最高値を記録している。 図2 1982〜2002年の平均および2011年の5〜10月における流域月雨量
それでは、これらの降水をもたらしたものはいったい何であったのか。鬼頭(2011)1)によれば大雨をもたらす積雲活動が南アジアから東南アジアにかけての北緯10〜20度の帯域で平年より活発であり、パキスタン南部の洪水(気象庁、2012)2)もこれによると考えられる。また、2011年はインドシナ半島への台風の上陸が5回であったが、東京工業大学鼎信次郎准教授の研究グループによれば、1951〜2011年の間でインドシナ半島への台風の上陸が5回以上であったのは、1964年、1971年、1972年の3回だけであり、南シナ海の対流活動が活発であったことが、このことからも示される。しかし、これらの台風がどれだけの影響を及ぼしていたのか、またどのような大気場によってもたらされたのかについては、今後の研究を待ちたい。 先に述べたようなチャオプラヤ川流域への多量な降水の結果、4支流の合流するナコンサワンではどれほどの河川流量となったのであろうか。小森ら(2012)4)によれば、1956〜1999年および2011年の6〜10月におけるナコンサワン観測所におけるチャオプラヤ川の総流量は、2011年には326億m3に達し、期間平均の232%を記録した。チャオプラヤ川上流域にある全7ダムの総貯水容量は247億m3であり4)、それを大きく上回っている。対象期間における総流量上位の5年分(1961年、1970年、1975年、1995年、2011年)の日流量によれば(小森ら、2012)4)、2011年はナコンサワンにおける流下能力3590m3/秒を9月中旬に上回り、10月末まで継続した。2011年のピーク流量は、10月13日に4698m3/秒を記録した。このようにナコンサワンでの流下能力を上回る流量が長期間継続した結果、下流域で大きな氾濫が発生したことはいうまでもない。小森ら(2012)4)によれば、ナコンサワンより下流で氾濫した洪水流量は約120億m3と推定され、ほかの4年に比べて非常に大きかった。 ダムの運用の実態や洪水流がどのように流下していったかについては、小森ら(2012)4)を参照されたい。 3.洪水による被害 インドシナ半島における2011年7〜11月にかけてもたらされた多雨は、タイ北・中部において甚大な洪水被害をもたらした。世界銀行の調べ(2011年12月発表)では、被害および損失額は約1兆3600億バーツ(約3.5兆円)となり、2011年の実質GDP成長率を1.1%押し下げることとなった。ここでは、実際にどのような被害が発生したのか、これまでの調査で判明した点を紹介したい。 タイ内務省によれば、2012年1月17日時点、タイ全土で死者813人、行方不明者3人となっている。とくに11月上旬にはバンコクおよびその周辺地域における浸水が深刻化したため、人口密度の高い地域における死者が急増した。死亡要因ごとに見ると(図3)、約8割が溺死によるもので、残りの2割近くを感電死、水への転落、ボートの転覆が占めた(タイ内務省防災局)8)。 図3 2011年洪水における死亡要因
次に経済的損失について示す。表1は、各部門における経済的損失を表したものである。もっとも被害の大きかったのは生産部門で、直接被害額が約5400億バーツ、損失額が約6600億バーツ、合計約1兆1900億バーツであり、全体の88%を占めている。そのなかでもとくに工業関連は被害が大きく、およそ8割を占める。これは日系企業を含む多くの工業団地が被害を受けたことが大きな要因である。 表1 2011年洪水における部門ごとの直接被害と損失額(単位:100万バーツ)
図4は、チャオプラヤ川流域の工業団地とその浸水被害の状況9)をまとめたものである。浸水した7工業団地で804社中、日系工場は451社で、実に56%を占めた。いずれの工業団地も独自の輪中堤を有し、さらに浸水に備えて事前に土嚢(どのう)の積み上げや盛土をしたにもかかわらず、浸水被害を受けた。これら被災企業には日本有数の大企業も含まれ、サプライチェーンの断絶による影響は日本のみならず国外へと広がった。 図4 チャオプラヤ川流域の工業団地とその被害状況
これらの工業団地はすべてチャオプラヤ川左岸に位置していたが、いずれも後背湿地や潟といった元来氾濫を繰り返してきた場所に立地していることが、過去の地形図や水害地形分類図(たとえば春山(1994)10)など)から読み取ることができた。このような工業団地の進出や市街化の経過については、社会背景を含む詳細な調査が今後必要とされるであろう。これらの詳細な解析は、中村ら(2012)11)を参照されたい。 一方、農業・畜産・漁業部門の被害は、全体の約3.8%であるが金額にすれば約520億バーツとなりけっして少なくない。そのなかでもとくに農業部門について、表2にまとめた。表2は、タイ農業・協同組合省12)の調べによる2011年12月29日までの被災農業人口および被災農地面積である。浸水に伴う農作物の流出や農業施設などの被害、作付けできなかったことによる機会損失などが挙げられるが、そのほとんどがタイの基幹農作物であるコメへの被害である。また、被害を受けた農家人口はタイ総人口の約6900万人に対して約1.9%であった。 表2 2011年洪水による被災農業人口および被災農地面積
田中ら(2011)13)によれば、タイの経済構造は従来農業部門が大きな割合(1980年の農業部門の名目GDPに占める割合は20.0%)を占めていたが、2000年には農業部門の名目GDPに占める割合は11.0%に低下した。その一方で農業部門における人口の割合は依然として46%(2000年)と高く、個人所得が低い。価値の低い農地を工業団地に転地する動きは、タイの経済構造の変化を反映している(田中ら、2011)13)と指摘されているが、チャオプラヤ川本川左岸側は鉄道や主要国道といった交通網が発達しており、土地利用の移り変わりや工業団地の場所の選定など立地時の検証が、今後必要であろう。また、治水対策の一環として遊水地機能を農地に持たせる取り組みが実施されている。すでに遊水地化された農地を所有する農家とは、湛水期間に対する補償契約が結ばれている。今後もこのような遊水地の拡充が求められており、チャオプラヤ川の治水機能向上に資するであろう。 その他、水管理を行う水門の損壊(写真1)やアユタヤ史跡地区への浸水(写真2)、また市街地での浸水に伴う教育機関の閉鎖など、今回の洪水はあらゆる分野にわたって拡大した。詳細については、誌面の制約があり割愛させていただく。 写真1 アントン上流のチャオプラヤ川本川右岸にあるプランガム水門の損壊状況。水門の右側法面を侵食して手前側から奥側へ水が流れ込んだ(2011年12月7日撮影)
写真2 チャオプラヤ川本川近くの浸水したアユタヤ遺跡(2011年12月1日撮影)
4.まとめ 本稿では、タイにおける2011年の洪水被害について、部分的ではあるが紹介した。日本でニュースを見ているだけでは、どうしてこのように洪水被害が長引いているのか、あるいはどのような被害が発生しているのか、理解に苦しむ点が多々あったのだが、実際に現地へ入り、チャオプラヤ川の特徴や洪水の発生プロセス、洪水流管理、そして水防活動と被害の拡大を調査したことで、明らかになった。今後、タイ政府は新たな治水計画を策定することを閣議決定したが、日本もこれまでのような経済・技術支援だけではなく、このような現地調査を通じた科学技術の知見が活かされた支援に取り組む必要があるであろう。 謝辞 現地調査では、東京大学生産技術研究所沖一雄准教授、川崎昭如特任准教授、西島亜佐子共同研究員、湯谷啓明氏、Ms. Jeanne Fernandez、Ms. Cherry Mateo、梯滋郎氏、岡根谷実里氏、恒川貴弘氏、JICAタイ事務所永井三岐子氏にご協力いただきました。東京大学生産技術研究所竹内渉准教授、JICA竹谷公男氏には多くの助言をいただきました。IMPAC-Tのタイ側協同研究者の皆様、王立灌漑局の皆様には、自宅が被災しながらも多大なるご協力をいただきました。ここに記して感謝の意を表します。 <参考文献>
1) 鬼頭昭雄:近年の集中豪雨について、ARDEC、財団法人日本水土総合研究所、45、2011.
2) 気象庁:世界の2011年の天候、2012年1月14日発表、http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/monitor/annual/
3) Kurauchi, T., K. Nakane, and T. Sukhapunnaphan : Flood analysis and trial of applied tank model at Nakhon Sawan in the Chao Phraya river basin, J. Japan Soc. Hydrol. & Water Resources., 11(4), 303-316, 1998.
4) 小森大輔・木口雅司・中村晋一郎:2011年タイ国チャオプラヤ川大洪水の実態および課題と対策、河川、日本河川協会、2012.
5) 国土交通省:「8.河道特性」、「利根川水系流域及び河川の概要」より、2012年1月28日参照、http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/tone-5-8.pdf
6) 吉川勝秀・本永良樹:低平地緩流河川流域の治水に関する事後評価的考察、水文・水資源学会誌、19(4)、267-279、2006.
7) 高瀬信忠:『河川水文学』、森北出版、1978.
8) タイ内務省防災局:最新洪水関連情報、2012年1月17日参照、http://disaster.go.th/dpm/flood/news/flood_lastnews.html
9) 独立行政法人日本貿易振興機構:「緊急特集:タイ洪水に関する情報」、2011年12月26日時点、http://www.jetro.go.jp/world/asia/th/flood/complex.html
10) 春山成子:『モンスーンアジアデルタの地形と農地防災』、文化書房博文社、1994.
11) 中村晋一郎ほか:2011年タイ王国チャオプラヤ川洪水の特徴、水文・水資源学会誌、投稿準備中.
12) タイ農業・協同組合省:2011年5月1日〜12月29日における農地の被害、2012年1月28日参照、http://www.moac.go.th/more_news.php?cid=479&filename=index
13) 田中總太郎・田中修三・高崎健二:衛星画像で見る2011年タイ洪水、地理、古今書院、2011.
|