生物多様性と日本の農林水産業
東京農業大学 農学部 教授 林 良博

COP10の成果

 COP10(国連生物多様性条約第10回締約国会議)の最終日、2010年10月29日にすべての参加国・地域が松本環境大臣の議長案に同意し、名古屋議定書が採択された。生物多様性条約に加盟している193か国・地域の8割を占める途上国には「先進国に遺伝資源を持ち出され、利益を奪われてきた」という不満が強く、先進国との対立が激しかった経緯を考えると、名古屋議定書の採択は快挙といえる。

 これだけではない。会議の先陣を切って10月11日に始まったカルタヘナ議定書第5回締約国会議(MOP5)は、開幕の翌日に遺伝子組換え生物による生態系被害が起きた際の補償に関する「名古屋・クアラルンプール補足議定書」に参加者全員が合意するなど、今回は生物多様性にとって記念すべき会合となった。

 生物多様性条約は、1992年にリオデジャネイロで開催された環境サミットにおいて気候変動枠組条約とともに採択された国際条約である。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第4次評価報告書によれば、生物多様性は気候変動に対してきわめて脆弱であり、平均気温が1.5〜2.5℃を超えた場合、これまでに評価対象となった動植物種の20〜30%は絶滅リスクが高まり、4.0℃以上では地球規模の重大な絶滅が生じる可能性があるという。気候変動、すなわち地球温暖化は、生物多様性保全にとっても脅威である。

生物多様性の脅威をいかに克服するか

 生物多様性を脅かす3つの危機は、人間活動や開発による「第1の危機」、また第1とは逆に耕作放棄など人間活動の縮小による「第2の危機」、さらに人間が持ち込んだ外来種などによる「第3の危機」である。

 残念ながら20世紀の農林水産業は、生物多様性に甚大な損害を与えてきた。とくに大量の農薬や化学肥料の不適切な使用によって、また経済性や効率性優先の農地・水路整備によって、どれほど多くの生き物の命が奪われたことだろうか。生き物たちだけでなく、彼らが創出する快適な環境(酸素に富んだ大気、水・栄養塩の循環、豊かな土壌、気温・温度の調節など)がどれほど損なわれたことか。

 21世紀の農林水産業は、そうした反省にたって減農薬や冬期湛水(たんすい)、生物多様性に配慮した水路の基盤整備など、環境保全型農業を拡大しようとしている。さらに前述のように、生物多様性の危機として「里地里山からの撤退など、人間活動の縮小による第2の危機」が注目されるようになったため、「地域を健全に活性化することが生物多様性を高める」という自信が、農林水産業にかかわる人びとに生まれつつある。

 その一例が「ふゆみずたんぼ米」や「コウノトリ育むお米1)」などの「生きものマーク」である。赤とんぼは環境保全型農業によって甦(よみがえ)るが、「赤とんぼじゃメシは食えない」という農業者の嘆きを放置するならば、ますます耕作放棄地は増大し、農村は疲弊していくことを国民の多くは認識しつつある。赤とんぼの保全を農業者に委ねるだけではなく、国民全体の課題にすること、その一手段として「生きものマーク」が貢献することが望まれる。

 2007年に生物多様性条約締約国会議が設置したTEEB(The Economics of Ecosystems and Biodiversity) プロジェクトのリーダーであるパバン・スクデフ氏は、3年間の調査をもとに、日本における「コウノトリ育むお米」などの取組みを、生物多様性保全と地域の経済活動が調和的に行われている好例として、COP10で紹介した。生物多様性を保全することによって、あらたな経済価値を創造することができるというスクデフ氏の指摘は、農業活動による生物多様性保全を推進する人びとに、大きな励ましとなった。

 2009年10月、農林水産省に設置された生物多様性戦略検討会は、COP10の開催を契機として生物多様性の保全に国民が一体となって取り組むため、消費者、農林漁業者、行政の3者に対して具体的な提案を行った。すなわち農林漁業者に対しては、農林水産業が育んでいる多くの生き物や命の循環に目を向けること、農林水産物の生産と同時に、多くの生き物を育んでいることを、誇りを持って国民に発信すること。また消費者に対しては、田んぼや畑、森や海辺に出かけ、農林水産業の営み、そこに生息・生育する生き物に触れ、食と生物多様性のつながりを実感すること。食が国内だけでなく世界の生物多様性とつながっていることを考え、地球環境に配慮した消費行動を取ること、などである。

生物多様性保全に係わる世界の動向

 APEC(アジア太平洋経済協力会議)も「責任ある農業投資の促進」宣言を2010年10月17日に採択している。しかし将来の食料不足の懸念から、一部の国(たとえば中国や韓国)による途上国での農地確保が過熱している。その結果、地元住民との摩擦が起き、乱開発が進行する危険性を国際的に監視する必要性が生じた。APECの宣言は、アジアにおける新植民地主義を避け、土地と生物資源に関する既存の権利を尊重することによって、環境劣化も最小限にとどめることができるという重要な宣言ではあるが、各国が競って「国家利益」を最優先させている現状を食い止めることは、かぎりなく不可能にちかい。

 事実、2年前にドイツで開催されたCOP9では、67か国の大臣をはじめとする閣僚級の代表が、2020年までに森林減少正味ゼロ(ZEDD)を達成するというWWFの提言に賛同した。にもかかわらず、森林の消失と劣化は毎年1300万ヘクタール(毎分サッカー場36面分)という驚くべき速さで続いている。

 森林だけでなく、農地や海洋なども悲惨な状況にある。生物多様性保全のために各生態域の10%を保護区にするという目標があるが、全陸域の55%でしか目標が達成されていない。陸域の13%、沿岸の5%が保護されているだけで、公海についてはほとんど保護区になっていない。前述したTEEBは、各国が行っている漁業、農業、エネルギー分野での補助金の多くは、生物多様性を損なうことに貢献していると報告しており、補助金を抜本的に改革して環境保全型農業や省エネルギー政策を推進することが、全ての国にとって緊急を要する課題である。

食料安全保障と生物多様性保全

 生物多様性保全の旗をかかげることによって、日本の農林水産業は本当に息を吹き返すのであろうか。それを妨げる当面の障害はなんであろうか。

 本年1月8日、日経新聞に連載中の「民主党 誰が何を決めているのか」において、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)問題が取り上げられていた。残念なことに、食料自給率50%を掲げた「食料・農業・農村基本計画」が閣議決定されてから1年もたっていないというのに、多くの人びとはTPPに目を奪われている。TPPが導入されると、関税に代わる強固な政策が実施されなければ米作農家は深刻な打撃を受け、食料自給率が低下することは避けられない。多くの農業者にとって、生物多様性保全など論外の話になってしまうと考えるからだ。

 関税による農産物の保護政策を、他の政策に転換するという方針は、この30年間かけて日本でゆっくり進められてきた方針であることを考えると、TPP問題が出てきたとしても大騒ぎすることはない筈(はず)である。しかし多くの人びとは、1000兆円もの借金を抱えるわが国において、関税に代わる強固な農業保全政策が取られることはあり得ないと考えている。

 東京大学名誉教授であった大内力氏(故人)は、1990年、家の光協会から『農業の基本的価値』を出版した。そこで同氏は、新自由主義者による「農業を国際競争にさらせば、おのずから農業生産の合理化が進み、日本農業にも国際競争力が生まれる」という政策は、まったくの幻想であると断言している。そうした幻想が生まれるのは、農業という生産活動と工業のそれとの相違を正確に認識していないことによる。

 大内氏は、「輸出を担当する工業の生産性の上昇率より農業のそれが低い限りは、国産の農産物は輸入農産物に対してますます割高になる」。これは、比較生産性理論からしても、当然のことであろう。

 2010年3月30日に閣議決定された「新たな食料・農業・農村基本計画」の前書きにおいて農林水産大臣の赤松氏(当時)は「農業・農村の繁栄なくして国家の繁栄はない」と述べている。第2次世界大戦のはるか前に、アメリカの農務省の高官が世界の滅亡した都市を視察して学んだことは、「都市が滅びるには共通性がある。その共通性とは、都市のバックヤードである農村・農業が荒廃したことによる」であったことからしても、赤松氏の言葉に誤りはない。新たな基本計画は、日本の農業・農村が危機的な状況にあること、そしてこの危機的な状況を打開するために立てられたものであることを忘れてはならない。

遺伝子組換え作物と生物多様性保全

 遺伝子組換え作物(GMO)の世界的な普及がますます進んでいる。すでに4年前の2007年において、世界の23か国、1億1430万haの農地(日本の農地の約30倍)で遺伝子組換え作物が作られている。そして日本は、世界最大の遺伝子組換え作物の輸入国である。

 しかし日本は、自国で遺伝子組換え作物を作らせない国でもある。本当に遺伝子組換え作物が嫌だったら、輸入することも止めればよい。他国で作るのはよくて、自分の国で作るのは悪い、そんな勝手なことが許されるのか。遺伝子組換え作物反対論者は現実の場において、破綻しているといわざるを得ない。

 大豆はその生産量において、遺伝子組換え作物のなかで突出している。除草に要する多大な労力を考えると、2007年までに64%の大豆がGMOに置き換わった理由が理解できる。綿がGMOに換わった理由は、病害虫による被害を軽減するためであった。つまり、作物によって、GMOに置き換わった理由が異なる。

 わずか15年前、1996年のGMO生産は、世界全体を見渡しても本当に僅(わず)かなものでしかなかった。しかし生物多様性保全など、GMO作出について種々の危惧が指摘されたにもかかわらず、日本と同様に慎重であったEUの一部まで含め、世界に広くGMOが生産されるようになったのは、危惧された問題がほとんど生じなかったことによる。しかし日本では、依然として遺伝子組換え技術について慎重論が少なくない。農業者に対する最近の調査でも、GMOが必要だと答えた人は50%に満たない。消費者は、GMOに対してもっと否定的であることは容易に想像できる。この事実ひとつとっても、日本における農業のかじ取りがいかに容易でないか、理解できる。

工業と農業を対立させることの愚

 農業と工業は異なる性質をもつ生産活動であるが、ともに人類にとって必要不可欠な生産活動である以上、両者を対立させて語ることは間違いである。最近もレアメタル問題で大騒ぎになったが、日本は資源貧国であるにもかかわらず、過去20年間以上にわたって、資源投資については比較的関心が低かった。金さえ積めば資源は買えるという、不遜な感覚が日本に蔓延していた。この感覚の間違いにようやく気付いたのは、レアメタルのように金を積んでも買えなくなりそうになってからだ。資源が貧困であるのは、農産物のような有機資源だけではなく、無機資源についてもいえることである。したがって、資源の安定的確保は食料だけにかぎったことではない。

 資源確保において、中国はアメリカと同様にしたたかな国である。それは胡錦濤氏と温家宝氏の両者とも、資源の専門家であることを考えると、そのしたたかさが、日本の総理と比較して、並みのしたたかさでないことがよく理解できる。生物多様性についても、中国は自国の生物多様性資源であるパンダを用いて、果敢に「パンダ外交」を展開している。それを下品だと考える人がいるかもしれないが、相手を批判するよりも、日本も自国の貴重な生物資源、たとえば天然記念物「尾長鶏」を用いて「尾長鶏外交」を展開するほうが、よほど他の国に感謝されるに違いない。それは鶏が好きな国民性をもつタイの高官に教わったことのひとつである。

 ところで、農の関係者は農のことしかいわないと指摘されることがしばしばあるが、的を射た指摘といえる。食料自給率が40%を切ったとき、わたしたち農の関係者は大騒ぎしたが、他の分野をみると、エネルギーの自給率はひとケタ低い4%である。石油の自給率に至っては0.4%だ。この3つを比べたら、農業の40%は立派なものだという見方だって成立する。日本国民の安全保障を考えるならば、食料自給率だけしか考えないということはあり得ない。工業と農業のバランスのとれた発展が日本にとって重要なことはいうまでもない。

 むしろ農業はいま有利な立場にある。食料生産だけでなく、生物多様性など環境を守るという役割が国民に理解されてきた。さらに、農産物、とくに林業から出る未利用資源を持続的にエネルギー分野で用いることの理解も進んできた。環境を語るうえで、農山漁村は今後重要な位置にある。この有利さを生かす必要がある。

地球温暖化対策と農林水産業

 前述したように、IPCCの第4次評価報告書によれば、生物多様性は気候変動に対してきわめて脆弱であることが予想される。農林水産資源についても、気候変動、すなわち地球温暖化の進行はゆゆしき問題であり、農林水産省は地球温暖化対策総合戦略を新しい基本計画のなかで定めている。第一に、地球温暖化を防止するために、林業と農業の役割を高めようというものである。いうまでもなく森林は、温暖化ガスの吸収源として知られている。農地もまた、温暖化ガスの吸収源としての役割を高めることができないかが検討されている。

 第二に、そうはいっても地球温暖化の進行が避けられない以上、農業として、したたかに対応することは、温暖化に適応する方策を立てることである。九州の主力米である「ヒノヒカリ」が、温暖化の影響で米粒が白くなる白化現象が、猛暑の夏を経験した2010年も問題になった。しかし、温暖化適応米として開発された「にこまる」が、有効であることも同時に明らかになった。

 世界の穀物生産は、7年前の2004年で20億トンを超え、2010年には23億トンを超えることが確実視されている。しかし、もっと肉を食べたいという人間の欲求はすさまじく、トウモロコシや大豆など、増産された穀物の多くは家畜の飼料に消費されている。哲学者のデカルトがいったように、人は「ちょっと小銭ができると肉を買う」動物である。1キロの鶏肉を生産するのにトウモロコシ換算で4キロ、豚肉1キロのために7キロ、日本の市場にのるような牛肉の場合に11キロのトウモロコシが必要とされる。

生物多様性を損なう肉食率の向上

 いま、中国を初めとする新興国の肉食率が著しく高まっている。また、すでに十分な量の畜肉を摂取している先進国においても、緩やかに肉食率が上昇している。このような人びとの食肉要求を満たすために、世界の森林が破壊されていることは周知のとおりである。

 しかし適切な量の畜肉や乳製品を摂取することは、健康維持にとって重要なことである。とくに育ち盛りの子供と高齢者にとって、畜肉や乳製品の適切な摂取の重要性がもっと強調されてもよい。高齢者があまり肉を摂取しなくなる傾向があるが、活動寿命を延ばすためには、菜食原理主義者の主張は有害である。

 とはいえ、ゆきすぎた肉食は生物多様性保全を妨げる最大の要因のひとつであることも事実である。生物多様性を脅かす危機のひとつとされる「耕作放棄など人間活動の縮小」を改善するために、耕作放棄地における家畜の飼料生産、いわゆる飼料米の生産は、今後の重要な施策のひとつである。

 いま、各地で農林水産物のブランド化が推進されている。日本の消費者が、日本で生産された農産物以外は買わないと決めてくれれば問題はないが、それは無理な話である。そこで、生物多様性保全に貢献していることを証明するためのブランド化が、ひとつの有効な手段として認知されるようになった。ブランド化によって、生物多様性保全の重要性を消費者にわかりやすく訴えること、また緑税のように、目に見えないところで生物多様性保全のために税金が使われることを国民が許容することが、喫緊(きっきん)の課題である。

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