インドネシア・バリ島の
水田灌漑管理と灌漑用水の多面的役割

国際かんがい排水委員会(ICID) 名誉副会長 エー・ハフィード・ガニー 博士

1.はじめに
 アジアのほとんどの地域で灌漑農業が行われ、コメはアジアの多くの国で人々の主食を支えるもっとも重要な農産物であるにもかかわらず、急速な経済発展や、水と土地と環境をめぐる対立の高まりによって、水田灌漑農業遺産の消滅はごく近い将来にありえないことではない。こうした脅威を未然に防ぐための有効な取組みとして挙げられるのが、生産的機能、環境的機能ならびに生計維持機能といった水田灌漑の有する多面的機能の強化と活性化である。
 コメの生産量と価格が落ち込む状況のなかで、水田農業の有するもっとも重要な非技術的側面のひとつである文化社会的機能を絶やさないようにするための、「文化システム」からのアプローチが有効である。このアプローチでは、灌漑農業は単なる技術領域ではなく、統合された文化システムと見なすことができる。零細農業環境において持続可能な灌漑農業の発展をよみがえらせるには、この取組みを徹底的にかつ繰り返し実施する必要がある。
 本稿ではインドネシア・バリ島のスバックシステムに注目して、灌漑水田の有する社会、文化、宗教という複数の役割を強化する方策について検討する。とくに、灌漑を相互に独立した技術の問題としてではなく、全体的システムと見なしていた先人たちの持続可能なアプローチに注目して分析を行う。水田灌漑農業の社会、文化、宗教の多面的役割の存在を明確にし、活性化することによって、持続可能な先人たちの英知を絶やさないよう、この分析結果が寄与できることを期待する。

写真1 スバック灌漑による棚田
写真1 スバック灌漑による棚田

2.スバックシステムの概要
(1)歴史的概観
 スバックシステムとは、インドネシア・バリ島の伝統的な灌漑農業社会、方法論、システムであり、慣習でもある。スバックの正確な発生時期は不明だが、いくつかの古代の碑文から、スバックシステムが数百年前からバリ島の生活に入り込んでいたことが明らかになっている。バリ島では灌漑が紀元600年から存在しており、その時代からずっとバリ島の農民は巧みに、山の尾根に用水路やトンネルの掘削工事を行っていた。1072年にさかのぼるプラーナの碑文に、初めてスバックという用語が表れている。スバックの経済的役割に関しては、スバックシステムが王国の経済に重要な役割を果たしたことから、王たちが主導したと考える人もいるし、別の説では、スバック創設の最初の取組みは農民が自ら相互扶助的に始めたとされている。
(2)基本理念
 水田灌漑農業で灌漑システムを管理する際にスバックがよりどころとする原理は自主独立と、宗教と結び付いた慣習である。バリ島民の一般的な価値観はトリ・ヒタ・カラナの教え(幸福は「創造主」と「人間」と「自然」が一体となってはじめて達成できるという考え)であり、それにしたがって、スバックの構成員は、義務と権利と責任の所在を明確にし、相互の協力を通して灌漑インフラを築き、維持管理する。こうした活動は相互に合意した、アウィグ・アウィグと称する法典を通して実施される。この法典は、灌漑を対象とするだけではなく、作物の生産、農民の組織、財務状況、施設の維持管理、その他の農村振興活動も含め、農業全般を対象としたものである。
 アウィグ・アウィグは、民主的で、柔軟かつ公正で、組織と結び付いた規則となるよう、ボトムアップによって作り上げられている。その決まりでは、構成員の義務や紛争解決の方法が次のように定められている。
・相互に合意したスケジュールに従って水田耕作を行うこと
・灌漑施設を維持するために相互援助を行うこと
・構成員間の論争または対立の解決手段ならびに違反者の制裁
・寺院ならびに他の宗教施設の儀式として、または宗教上行われる祭式への参加

(3)組織
 スバックという用語は、同一水源から灌漑用水を得ている一まとまりの水田区画を指す。これらのほ場をまとめて1つの管理単位とし、それをスバック組織と呼んでいる。スバックには完全な自治権があり、組織、規約、細則、財政機構、法典、および違反者への制裁実施に関する委員会の体制を通して活動が行われている。スバックの組織上の責任に関する主要原理は、構成員同士で自ら灌漑システムを管理するということであり、個々の構成員は平等で透明かつ公正な扱いを受ける。スバック組織には、流域環境を守り、灌漑インフラ、農道の適切な維持管理、作付け様式の決定、整地および収穫の日程作りを実施するという責任もある。
 1つのスバック組織の占める平均面積はおよそ100haであるが、地形上の条件などにより、10haから800haまでの範囲に及んでいる。効果的に組織を管理できるよう、大規模スバックシステムでは、2つ以上の区画に分けられる。バリ島全体で、独立したスバックシステムの数は1410あり、組織のパターンは、土地条件や組織内部の状況に応じて、スバックごとにまちまちである。それぞれのスバック機構は、独自の灌漑インフラ、農民組織、およびアウィグ・アウィグ規約を備えている。
 スバック組織をまとめる最高権力者はスダハン・アグンと呼ばれる。スダハン・アグンは、1つの地区(摂政管区)すなわち地方行政区画のカプパテン(県)内のスバック組織全体の調整を監督し、推進する責任を負っている。スバックグループ(スバック連合)間の調整を推進するために、スダハン・アグンは、地区全体の管理のために全般的な配水の管理および手配、 スバック構成員自身で解決できない問題の解決、地租の徴収、カブパテン(摂政管区)内のスバック組織間や、スバック組織と地方自治体当局その他の外部組織との調整、および方行政区画全体におけるスバック活動に関連する伝統儀式の主催、を行っている。
(1)加入の原則
 基本的に、スバック構成員は土地所有の状態にしたがって、次の2種類に分類されている。
・地主
・地主に代わって耕作を行う農民

 また、スバック構成員は次の3つに分類される。
・スバックの灌漑活動に直接従事する構成員
・農業活動に直接従事しない構成員(スバック規約に従って農業経営費に資金提供する義務がある)
・スバック組織の宗教的儀式の執行を担当する宗教上の聖職者
 なお、スバックの構成員資格がなくなるのは、その特定の構成員が何らかの理由によって、その土地をもはや耕作しなくなったときである。死亡した場合、構成員資格は子供または子孫に譲渡されることになる。土地が売却される場合、構成員資格は新たな所有者に譲渡される。ただし、その新規所有者が自分自身で土地を耕作する場合にかぎる。
(2)義務と権利および組織の責任
 一般に、スバック構成員の義務と権利および組織の責任は明確に規定されている。まず、施設などの維持管理に関しては、義務と組織の責任として次のようなことが求められている。
・堰、灌漑構築物、運河、量水計などの灌漑インフラの建設と管理維持ならびに修理
・農道、寺院、スバック集会施設その他の祭礼および宗教儀式用の施設など、スバックおよび地域の諸施設の建設と管理維持ならびに復旧

 そして、これらのことを実行するために、次のようなことが求められている。
・規約の遵守
・集会(会議)の合意の実行
・組織委員会の命令の実行
・組織委員会のメンバーの選挙
・集会(定期および臨時の両方)への出席
・水の適切な利用の遵守
・会費、罰金などの現金または現物による納付
・地租または他の税金の納付
・灌漑用水の窃盗または違法取引を防止するための警戒策の実施
・害虫駆除のための相互扶助

 また、スバック構成員は、次のような権利を有している。
・自分の農地の規模に比例して、適切な灌漑用水の配分を受けること
・スバック管理委員会のメンバーの選挙権と被選挙権
・総会での発言権
・自分の構成員資格に関連する活動を行う際、他人を代理人にすること
・スバック規約の違反者に関する情報を提供することによって、違反者の罰金の一部を受け取る権利
・スバック財産の一部を所有する権利
・スバックの組織委員会から賢明かつ公正な扱いを受けること
(4)用水の配分と管理
(1)一般的な配水の原理
 スバック組織が運営している灌漑地域の大多数は、単純な構造物と付属施設で簡単な灌漑を行う。しかし、ここ10年間、中央政府は、スバック組織の運営していた灌漑システムのインフラを改善するため技術支援を行っている。この支援はとくに大規模灌漑地区のためになされている。
 スバックシステムでは、選出された代表者を通して農民自身が配水を実施する。配水のパターンの基本にあるのは用水量であり、次のような点を考慮している。
・送水は農地に対し、土地区画ごとに割り当てられること
・土地区画当たり1tenah(約25kgから30kg)の量の稲籾を必要とする個々の土地面積をtek-tekと呼ぶ。1tek-tek単位のほ場の面積は、それぞれ伝統的な規格の量水計によって測定すること
 なお、量水計は通常、流量を測定するために切り落とした木と、必要な長さに切った1本の材木または丸太で作られている。灌漑用の構造物はたいてい簡単なもので材木、竹、ココヤシの丸太など、地元で入手できる材料を使用している。

写真2 分水用の木材
写真2 分水用の木材

(2)輪番制による送水と収穫のスケジュール
 水が不足する乾期の期間中、スバック構成員向けの配水は輪番で行われる。スバック構成員は、自分たちで収穫スケジュールならびに輪番システムの決定も行う。配水スケジュールは時間差による植付けスケジュールによって、次のようになる。
・Ngulu (11月から12月の間)
・Maongin (1月から2月の間)
・Ngesep (3月から4月の間)
 この輪作体系はスケジュール管理によって、作物が同時に水を消費することもなく、したがって用水消費量の増大を最小限にとどめることができる。

3.危機にさらされるバリの水田農業
 長年にわたってスバックによる灌漑水田が行われてきたにもかかわらず、バリでは現在、技術面と非技術面の両方を原因とする稲作衰退の脅威に直面している。もっとも深刻なのは、土地と水と環境間の競合、灌漑面積の減少とそれによるコメ生産量の減少という問題である。
 バリ島の急速な経済発展は、著しい変化を社会面だけでなく物理的側面にも引き起こしている。もっとも明らかな物理的変化は、灌漑用地の減少にはっきり現れている。取って代わったのが、加速する観光インフラ、たとえば贅沢なホテル、レストランその他のアメニティや娯楽の施設である。観光部門が熟練労働者を多く必要とするという事実も、農業生産の担い手の観光部門への大幅な移動に、ますます影響を及ぼしている。
 インドネシア政府は1968年以来、コメの自給自足を支えるための農業開発の一環として、多くの地域で灌漑インフラの建設と復旧を行ってきた。こうした開発の影響が、スバックシステムという固有の文化に突き当たることによって、摩擦が生じている。この変化を助長しているのが、観光を目的とする社会経済的開発である。これによって、水資源の利用が制限されるようになっているのである。物理的な整備水準の向上というプラスの影響と、政府補助に対する「依存的姿勢」の高まりというマイナスの影響が生じている。また、営農においても、かつて相互扶助(ゴトン・ロヨン)として知られていた農民の慣習に代わって、その仕事を地主の多くが賃金労働者に頼っている。
 こうした状況のなかで、バリ島の水田は最近の7年間で、少なくとも5000haの水田が宅地および工業用地をはじめとする非農業的な用途に転用されている。ごく最近の記録の示すところでは、バリ州の灌漑農業の平均的な減少率は現在、毎年1.01%、すなわち全州内の約870haが毎年消失しているに等しい。同様に、コメの収穫面積は1984年の16万4300haから2003年の14万4300haへと、継続的に減少している。農民の依存的な体質の高まりと平行して、既存の灌漑インフラの多くが手入れもされず放置されており、こうなった場合、農民の多くが観光業、旅行業、レストラン、ホテル営業といった非灌漑農業に生計を転換せざるをえなくなっている。
 水田の多面的役割を考えると、灌漑面積の減少の影響を受けて、結果的に生じたのが他の役割の弱体化である。たとえば持続可能な流域管理、水田への一時的な雨水貯留による洪水防止、地下水涵養、放水を遅らせることによる河川流量の安定化などである。窒素とリンの吸収による水質管理、野生動物生息地、蒸発散による大幅な気温変化の緩和機能も弱体化し、人と自然と全能の神との調和した関係に関する宗教的な意味合いは徐々に弱まっている。
 同時に、熟練技術に関する先人たちの知恵や能力および多様な宗教的、伝統的祭式は、若い世代にとって、もはや魅力的ではなくなっており、徐々にすたれつつある。結束の原理に基づく一連の祭式実施などの、スバック社会の基本哲学としてのトリ・ヒタ・カラナの意味合いも、徐々に崩壊しつつある。

4.活性化の方策
 こうした状況のなかで、灌漑システムを活性化するためにもっとも有効な方法は、「内的開発モデル」を用いる方法であると考える。このモデルでは、開発は「参加型アプローチ」に基づいて人々を引き入れることによって、社会文化的開発の計画と実施を基礎として、先人の知恵と専門的方法を融合する必要がある。たとえば、土地転用発生の脅威に対応するため、土地を金銭的に取引可能な商品と見るのではなく、特別な社会的価値観と宗教的価値観を持って、宗教および文化的な価値と見なすべきである。バリの宗教指導者たちは、水を理由に土地を投資家に売却しないよう地主を納得させなければならない(農地転用禁止政策)。
 また、農地転用を抑制するために考慮する価値があるのは「土地賃貸投資機構」である。この管理機構のもとでは、投資家は、土地の社会、文化、宗教の多面的役割を無視することなく、所定の開発地域区分に従って一定期間、一定の投資の対象として利用することができる。この場合、認可手続を厳密に管理し、土地転用や不適切な土地利用を取り締まる必要がある。農地転用を減らすための代替措置として、地方自治体がある種の補助を与えるか、農民に耕作に従事するよう奨励するためのシステムを構築しなければならない。地方での信用供与、すなわち「農地銀行」または「水資源銀行制度」の創設が必要である。
 スバックから非スバック社会に順応していくことは、スバックを導入する地域社会の社会文化的、技術的な状況を最初に考えるべきである。移すべき中味を最初に抽出して、普遍的な原理に変え、受け手側社会の類似した文化的要素と合わせなければならない。スバックモデルと文化、社会、技術という3つの次元の要素との類似点および相違点を理解していれば、受け手側の灌漑農業社会に望ましくない影響をもたらすことなく、うまく適応するのに役立つであろう。
 水田農業部門と米価が落ち込むという状況のなかで、スバックシステムが提示する教訓の一つは、「信仰」「社会文化と組織」そして「材料」または「加工品」といった統合した3つのサブシステムを持つ「文化システム」に基づき、灌漑水田農業の底流にある社会文化的役割を守ろうとする一貫した取組みの重要性である。システムに組み込まれている主要原理が固執するのは適切な専門的方法の実践的活用であり、同時に、人間と宇宙と環境、さらに天地万物の創造主との互恵的に調和した相互関係に対する、社会文化的な理解と要求を絶やさないようにすることである。

写真3 スバック灌漑水田での農作業
写真3 スバック灌漑水田での農作業

5.おわりに
 スバックシステムとその慣習の歴史や文化的背景にもかかわらず、バリは現在、技術面と非技術面の両方により、稲作が衰退するという危機に直面している。とりわけ、農民の就労率は以前の状況から最高23%にまで大幅に減少している。農民が灌漑農業活動に従事することが減って、農民の姿勢が非農業的慣習に向かうという深刻な変化が生じている。
 持続可能な慣習を守り、再活性化し、強化しようとして、生産力、環境と生計の機能といった水田灌漑の多面的役割を利用するという点で、スバックの戦略的原理を最優先事項として強化しなければならない。この点で、灌漑の生産力強化はエコロジー、生計ならびに社会、文化、宗教という多面的役割の明示も含め、灌漑の他の機能の強化と同時に実行すべきであり、さらにコメの現実の市場競争と合わせて戦略を組み立てる必要がある。
 今日、基礎をなす灌漑の発展と管理の慣習ならびに伝統的な農業の慣習を覆すような脅威にもかかわらず、灌漑用水の社会、文化および宗教の面から見た多面的役割の重要性は多く残されている。それは古くからの農業慣習から受け継がれたものであり、零細農業環境のもとで持続可能な灌漑農業の発展を実現するため、実用的かつ専門的方法を新たに見出す必要がある。とくに、灌漑水田の社会、文化、宗教の多面的役割の明示の強化と活性化によって持続可能な先人たちの英知を守ることが重要であると考える。

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