「アジア緑の革命」から
「アフリカ虹色の革新」への
中長期的行動計画

(NPO法人) アフリカ日本協議会理事
農学博士 高瀬国雄

1.まえがき
(1)1945年8月6日、私は広島県江田島の海軍兵学校(第75期)にいた。午前9時ごろ、北方のキノコ雲が原爆であることを知り、荒れ果てた故郷兵庫に帰った。19歳の空腹少年が、祖国再建の道を食料増産に見出すまでに、時間はかからなかった。私は、1946年に京都大学農業土木科に入り、1949年の卒業と同時に、当時日本一といわれた岩手県山王海ダム(食料増産のための農林省国営事業)の現場監督として赴任した。
(2)敗戦後の65年が過ぎ、私はこの8月で満84歳の誕生日を迎えた。この間、農林本省、愛知用水公団、アジア開発銀行(ADB)、海外経済協力基金(OECF)、財団法人国際開発センター(IDCJ)、(NPO法人)アフリカ日本協議会などの職場を歩いてきた。その間、最初の20年間(1945〜1966年)は「日本のコメ自給」、次の20年間(1967〜86年)は「アジアの緑の革命」、そして最後の20年間(1987〜2010年)は「世界の農村開発」に専念してきた。この間、私の訪問した国数は71か国、海外出張は363回、海外在任は述べ22年に及んでいる。

2.「アジア緑の革命」は、
世銀、ADB、OECFの国際協力の結晶
(1)日本では800年ごろに、僧空海(弘法大師)が中国仏教とともに持ち帰った灌漑技術に加え、明治維新以降の篤農家が開発したコメの新品種、欧米輸入の化学肥料、世界銀行借款による新技術が加わり、1960年ごろには、モミ米収量4トン/haに達した。
(2)1966年に発足したADBに赴任した私は、世界のコメ専門家20人の「アジア15か国農業調査団」に参加した。1974年の帰国直後に、OECFに勤務することになった私は、大来佐武郎総裁の指示で日本政府の各省庁から、道路、水、港湾、鉱業、工業、電気、農業、環境などの専門家を1人ずつ選び、調査開発部を立ち上げた。東大電気工学科卒業の大来氏のアジア極東経済委員会(ECAFE)エコノミストとしての炯眼(けいがん)は鋭かった。1976年には「ADB緑の革命」のフォローアップとしての「ADB第2次農業調査団」をOECFと共同で実施した。さらに1978年には世界の食料全般の重要性を強調する「日米欧委員会」を、北米、フランスのトップ専門家と協同して立ち上げられた。1979年には大平内閣の外務大臣を務められ、グローバルな巧まざる宣伝も大来総裁の特技であった。しかし、大来氏は、1993年2月9日、バーグステン氏と国際電話の最中に急逝された。享年わずか78歳、葬儀には宮沢総理も出席され、17団体の合同葬、500万人の新聞広告で、類希なる盛葬であった。
(3)図1の直線は、その経過を示している。その図上に、アジア諸国の1970および1990年度、アフリカ諸国の1990年頃の収量を比較の意味で併置した。ADBでは、技術・資金協力を総合的に投入して、ほぼ15年間にコメ倍増を実現し「緑の革命」を達成した。アフリカでも、エジプト、タンザニアのキリマンジャロでは主として日本の協力で6トン/haを達成している。

図1 コメ生産の歴史的発展
表1:アフリカ・アジア農業の制約条件
アジア諸国 ○ 1974〜76年収量の平均値
△ 1997年収量の平均値
アフリカ諸国 ● 1989〜91年の平均値
出所: K.Takase and T.Kano, Development Strategy on Irrigation and Drainage : Asian Agricultural Survey, Asian Development Bank, p.520 (1969).
FAO Production yearbooks

3.第6次産業への共生システム
(1)ADBでは、食料増産だけでは農民所得が伸びず、貧困削減というもう一つの目的を達成することが困難なことに気づいた。1980年代に「緑の革命」を達成したアジア諸国では、すでにこのような諸点を改善する「農村開発」の次元を高めていた。それを図式化したのがIDCJであった。すなわち、図2のように農・林・牧・漁という、より広い農村開発に展開し、「開発と環境」の両立も図った。
(2)具体的には、第1次産業(農林牧水産物)を加工し(第2次産業)、そして、それらを販売する(第3次産業)。つまり、1+2+3=第6次産業の次元まで高めることによって、「数倍以上の持続的収入」を農家は得ることができる。この図面を見て、「中央に仏陀が座り、周囲を小仏が取り巻く東洋思想(マンダラ)が世界を救うというメッセージのようだ」と、中国人の現地調査員の面白い感想もあった。

図2 第6次産業への共生システム
図2 第6次産業への共生システム
出所:高瀬国雄、IDCJ、1997

4.アフリカ大陸の規模と多様性
(1)アフリカ大陸は、遠い過去に人類文化の起源であったといわれるが、その有史以来の歴史は定かでない。アフリカ大陸の面積は約3000万平方キロメートルで、中国、アメリカ、ヨーロッパ(ロシアを除く)、インド、日本、ベトナム、バングラデシュの合計と同じ広さを持っている。これに比して、アフリカ大陸に住む人口は約9.3億人であって、上記の7地域に住む人口40億人の4分の1に過ぎない(図3)。
(2)気候は北の砂漠から、中央アフリカの熱帯雨林に至るまで、極めて多様である。生産方式は粗放で、不作の年でも日本では平年の85%の生産をあげることができるが、アフリカでは20%しか取れない地域が多い。

図3 アフリカ大陸と7地域の面積比較
図3 アフリカ大陸と7地域の面積比較
出所:International Fertilizer Development Center [2007] The World Factbook

5.アフリカ・アジア農業の制約条件
(1)1960年頃に始まったアフリカ諸国の相次ぐ独立は、数百年の植民地支配から再生するアフリカにとって、大きな転換期となった。しかし、政治的には独立、経済的には計画経済、社会的には部族対立、そして国際的には一次産品価格低下などの複合的影響に曝(さら)された。東西冷戦の終わった1990年代には、ようやく複数政党制を採用する国が増えてきたが、相次ぐ干ばつと、人口爆発による飢餓の慢性化のため、21世紀を迎えたアフリカ社会経済をなお、厳しい状況に陥れている。
(2)表1に、アフリカとアジア農業の制約条件について、各分野ごとに比較を試みた。この間の政府開発援助(ODA)1人当たりの受取額において、1981年以来、アフリカは連続世界一であった。それ以上に貧困であった南アジアの6倍以上の援助(1人当たり)を受けながら、GDP成長率、食料生産指数は、ほとんどマイナスであった。21世紀に入ってから、いくつかのアフリカ諸国はプラス成長に転じてもいる。そこには、先進国側の援助方法についての意識改革があったことも確かである。

表1:アフリカ・アジア農業の制約条件
表1:アフリカ・アジア農業の制約条件

6.「CARD:Coalition for African Rice Development」がアフリカ開発の出発点
(1)アナン前国連事務総長の要請に応え、2004年6月にオランダのアカデミー委員会(Inter Academy Council)というNGOが、世銀、国連など最高の科学者から成る「アフリカ農村開発の可能性と戦略」という報告書を作成した。その要旨は、アフリカ農業がアジア農業と異なる11点を示している。家族システム、少雨、畜産、女性、競争市場、研究とインフラ、土壌肥沃度、経済・政治的環境、保健、機械化、土地所有制などであった。
(2)ここに、もう1人のグローバルな視点をもった方が、タイムリーにJICA副理事長として赴任された。数年間を国連事務次長として、アナン氏とニューヨークで協働してこられた大島賢三氏が2007年に帰国、JICA副理事長として就任するのに機を一にして、世界の食料価格の高騰傾向が顕在化した。この価格高騰の開発へのインパクトの大きさをいち早く予見した同氏は、すぐにアフリカの食料問題に取り組まれた。そこでJICAは、日本の比較優位と域内の需要の伸び、生産性の向上の可能性を考慮のうえで、アフリカにおける重要な作物のなかからコメに着目した。とりあえずは、10年間でサブサハラ・アフリカにおけるコメの生産量を倍増するとの目標を掲げて、アフリカ稲作振興に重点を置いた。その後、14のパートナーと23のアフリカ諸国に対し、栽培環境ごとの適正技術や市場を重視した各国ごとの戦略の策定と実施を連携して支援することで合意した(CARD)。
(3)こうしたコメに対する連携した体系的な取組みを皮切りに、アフリカにおける主な食料(トウモロコシ、イモ類、コメ、果物、野菜、畜産物、魚)を含めれば、20〜30年先あるいは地域によっては、より早く「虹色の革新」を達成することも可能であろう。

7.「虹色の革新」にいたる中長期的行動計画
(1) 広義の「農村開発」とMDGs(Millennium Development Goals:ミレニアム開発目標)との整合性
 2000年9月にニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットに参加した189加盟国代表は2015年までに国際社会が達成すべき8目標に合意した。それに応じて日本はTICADシリーズをスタートさせた。貧困・食料、保健、教育、環境、民間・貿易などを包括した諸目標を設定している。
(2)日本は世界のグローバル化と共存できるか?
民主党の新政権は、先の参議院選挙で敗れ、菅内閣は内外に大きな問題を抱えている。経済成長と社会保障改革、円高デフレ対策、普天間基地問題、主体的外交など、有言実行内閣の前途はきびしい。オバマ大統領がノーベル平和賞を受け、世界は核兵器削減へと動きつつあるが、メキシコ国境での移民問題など、中間選挙への苦悩も後を絶たない。
(3)MDGsの進行状態は、もうその全行程の2/3を超えたというのに、その成果は半分にも達していない。日本のアフリカ活動の目玉としてのTICAD(アフリカ開発東京会議)もこの線に沿って進めてきたが、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は、9月の国連サミットで140か国首脳らに資金協力を訴えた。世界銀行ゼーリック総裁は、世界経済に地殻変動が起きている中で、1980年に決めたワシントン・コンセンサスの方針転換を決議した。
(4)このような情勢下で、日本は新JICA方式を増強しつつあるが、CARDを超える菅内閣が早急に解決すべきグローバルな問題も目前に迫っている。中国、韓国、北朝鮮の後継者への引継ぎの中、ASEAN(東南アジア諸国連合)10か国に日中韓、インド、豪(オーストラリア)、ニュージーランドの16か国による「東アジアサミット」が10月30日にベトナムのハノイで開幕。来年から、アメリカとロシアの正式参加が決定した。名古屋COP議定書のフォローアップ、菅内閣のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加決意、欧州連合への対応なども、あとしばらくの時間が必要である。日本国内のCARD協力団体を見ても、政策研究大学院大学の提言(ODAから開発協力へ)、国際開発研究者協会(SRID提言)、日本のNPOへの資金供与額のGDP比(日本は欧米NPOの1/3以下)など、提起されている課題に対して、個々別々にではなく、全日本組織の具体的行動計画として、タイムリーに実現することが、何よりも重要である。
(5)2010年の夏は、猛暑日71日という記録破りの暑夏であった。この間、私は過去35年間にわたる記録を反読して、この20年間、日本のグローバル化の実態の改善がほとんどなされなかったことに愕然とした。これからは「具体的行動計画」を立て、それを監視することによって、上記の2〜3項(東アジアの奇跡)、4〜6項(アフリカ虹色の革新への展望)などを実現することを、私見としてでも表明することが必須と考えた。本稿に関する忌憚なきコメントをいただければ幸いである。

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